変転の夏(四)

 何があったのかと問い詰める慶次に、言えるかちくしょうめ! と八つ当たりし、微妙な表情のかすがにはやたら心配された。
 すぐにHRが始まり担任の片倉先生の話が終わると面倒くさい全校集会に引っ張られる。真面目な生徒、とは言わないが退屈な演説にも多少はいつも耳を傾けるであるのだが、今日はその総てを思考の外に放り出して、否応なく頭の中を占拠するあの憎い怨敵をどうにか打ち払う術を考えていた。
 その術が浮かぶ頃には集会も帰りの先生の話も終わっており、終業を告げるチャイムが鳴るとは必要なものをさっさと鞄に詰め込んで勢いよく立ち上がった。
ちゃ」
「慶次、かすが、ごめん! 明日学校くるでしょ! 絶対苺ミルク奢るから!」
 そういい捨てると急いで廊下を走り階段を抜け直走る。生徒指導の浅井などに見つかれば事だが、構ってなどいられないし目的地はもう直ぐだ。後ろに脅威が迫ることなど露知らず、グッバイ浅井! と内心ガッツボーズと勝利宣言を言い放つ。
 だが背に迫る脅威があるように世の中そんなにうまくいかないのが常な訳で。
「――ぐえっ」
「待たねぇか
「ぅお……片倉先生っ」
 首に違和感を感じたかと思えば次の瞬間半分首が絞まった。どんな状況かと頭をめぐらせれば後ろから襟を捕まれてもがく自分が居る。いやそれだけならまだいい、問題はこの捕まえた本人だ。目つきの悪いと評判の顔が眉間に皺を寄せてこちらを見ている。まずい。
「なんて容赦のない、ぐふっ」
「教師の話を聞かねぇ生徒に加減なんて要らねぇだろ」
「ばれてました?」
「あんだけ鬼気迫る表情で思案してる顔見りゃな。お前の席の四方全員逃げ腰だったぞ」
「あ、あはは……」
 HR中、脳裏を掠めた憎たらしい敵の顔を想像すると、否応なしに怒気は溢れた。自身の心内のみと思っていたのだが怒気は漏れ出で周囲に被害を齎していたらしい。其処までのものを、当然この担任が気づかない訳もないということか。
 この担任は人の話を聞く聞かないにはことのほか煩い。不真面目な返しをすれば、八つ裂きにされてしまうかもしれない。だが八つ裂きも怖いが、今一番自分を悩ませることを解決しなければ、担任の不興を買い損だ。それを犠牲にして解決策を模索していたのだから。
「か、片倉先生ごめんなさい、許して。先生のお説教は何時もならちゃんと聞くんだけど乙女の非常事態なの。だからほんと許して!」
 もう菩薩でも拝むようには両手を合わせた。最も相手は菩薩と言うより般若にいや、仁王に近かったが。そうして形振り構わず巧みに担任の手をすり抜けて脱兎の如く走り出す。
てめぇ! まだ話は終わってねぇぞ!」
「ひぃいぃっ」
 後方から聞こえる声と追って来る足音にオールバックの髪を少し乱し青筋を立てた仁王担任を想像しながら、ようやく目的地のドアを開けたのだった。

 まったくなんて生徒だ! 
 竜の右目などと言われ、不良生徒も逃げ出す程の眼力と威厳を持っていたはずだった。なのにこの目の前の女子生徒は普段からおおよそ想像のつかない”乙女の非常事態”などと言う文言を並べ立てて自分の手からすり抜けていくではないか。
 片倉小十郎はチッと舌打ちをしながら、自身が積み上げた教師の威厳が簡単に損なわれたのを感じて件の女子生徒、を追う。は小十郎など目もくれず、職員室へと駆け抜ける。阿呆が、其処は教師のテリトリーではないか、と引き戸に手を掛けた瞬間。
「ま、孫市せんせぇぇええ!!」
 と場を弁えない教え子の絶叫が響き、指名されたのは自分の隣の席の同僚だった。その同僚、雑賀孫市は端正な顔を崩す事無く振り向きいつもの調子で、なんだ? と悠然に答えている。
 はいたく対照的で周章という表現が相応しい。声は上ずり、あたふたしながら聊かのオーバーリアクションを含めて孫市に縋りついた。
「貞操を守るために私を強くして下さい!」
 その科白に職員室に居た全員が振り向いたのは言うまでもない。向かいの浅井が盛大にコーヒーを噴く姿も見えた。
「このままじゃ、高校生活を終えるまで貞操を守りきれない気がするんですうう!!」
「そんな事態なら警察呼べ!」
 ストーカーかと生真面目に懸念が過ぎり、小十郎は思わず後ろから叫ぶ。
「警察が間に合わなかったらどうするんですか! 私は我が身を守る術が欲しいんですよ!」
「の前にまず俺に相談しろ! 遅くならねぇように生徒会の仕事も軽減できるようにしてやるし警察にもつれてってやる! 親御さんは知っているのか!」
「い、言えない……、てか相談するほどじゃ……」
「身の危険を感じてるならそれは立派な相談事案だろうが!」
 親にも相談できず、警察も呼ばない。年頃の女子生徒がそんな風に言えば身内に隠すほど悩み深刻な事態を迎えているのではないかと憂虞するのは仕方のないことだ。小十郎の中はもう『がストーカーに狙われている』で固まりつつある。何処の野郎だ、と彼の眉間には皺が一層増えた。
「ふむ、わかった。だがひどく漠然としているな。どのくらい強くなりたい?」
 不穏な空気を払拭するようにそう言ったのは、をあしらうでもなく、ただ見つめていた孫市だ。
「そ、そりゃもう一発KOできる位に!」
「ふむ、相手はどのくらいの体格だ? それから武芸の心得はあるのか?」
「相手はで、でかいです。がっちりしてます。しかもボクシングなんてしやがります。今のままじゃ私確実にヤバイです」
「そうか」
 孫市は頷き顎に手を当て少し思案した後、声を張り上げた小十郎や珈琲を吹いた浅井とは違い、殊更声を張り上げるでもなく静かに続けた。
「だが、ボクシングの心得のある相手に一発KO等というのは存外事だぞ」
「うぐぅっ」
「そうだな……、非力な女ならば通常は合気道が良い、と進めたいところだが合気道は敵を押し倒してから相手を制御する術が無い。相手に体力があれば簡単に覆されてしまう」
「ひぃぃっ」
「ふむ……、ならばコマンドサンボなどはどうだ?」
「こ、こまんど……」
「ああ、ロシア軍で使われる格闘術だ」
 その言葉に小十郎はぎょっとした。そのカリキュラムの中には格闘術の範疇を越えて殺人術も含まれているからだ。
「安心しろ、危険なものまでは教えん」
 小十郎の心中を見透かしたように孫市は続け対して絢は眸をキラキラさせて言うのだ。
「つ、強そう! やります! 私やります!!」
「わかった。ものがものだけに厳しくいくが、ちゃんと教えてやる」
「先生大好き!」
「うむ、知っている」
「ありがとう先生。あ、マフィンも美味しかったです」
「うむ、それは良かった」
 テンションが微妙にかみ合わない同僚と、教え子の暢気さに小十郎は額に手をやって溜息をつく。二人は暫し日程などを話し、すっかりご機嫌になったは満面の笑みで手を振り職員室を後にした。まるで嵐が去った後のようなそれに周囲は沈黙を携えたまま固まっていたが、浅井がはっとして口を開いた。
「か、返してよかったのか! の身を狙う悪はどうした!」
「ふふ、そんな緊急なものではないと思うがな」
「教師がそんな悠長でどうする!」
「大方のことだ。ストーカーというより男子生徒にでも言い寄られたのだろう? あの鈍感ぶりに耐えかねて実力行使に出た者が居る、と考えるのが妥当だな」
「じ、実力行使だと!? 貞操を気にするぐらいのか! 学生にあるまじき所業ではないか! まさに悪!」
 浅井は赤ペン片手に猛るが、孫市は口元にうっすらと弧を描くばかり。小十郎は頭痛のする想いだ。
「……浅井先生の口ぶりではないが、本当に大丈夫なんだろうな」
「ふふ、本当にダメな時はあいつはお前に助けを求めてくる。心配するな担任」
「……」
 総てを得心したような孫市の言葉に目を見開いたが、なんと答えたらよいか言葉に窮し小十郎はああそうだなと頷く。だが視線の端で浅井が忙しく男子生徒の名簿を漁りだしたのを見て内心また溜息をつく羽目になった。

- continue -

2011-10-26

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