変転の夏(三)

 帰ってからも散々だった。
 校則の為に外でアルバイトが出来ないは、大学生の姉がする家庭教師の手伝いをしている。無論教える方に立つ訳はなく日々の教材作りをしてその対価に月一万円程を得ているのだ。姉の生徒の家庭は随分羽振りが良いのだろう。姉がに一万円も割り振るくらいだから姉自身もかなりの授業料を貰っているはずだ。相手はと同学年であるらしく、ついでに勉強にもなるので一石二鳥のアルバイトであるのだが。
 今日は脳裏に襲い来る出来事に一向にその仕事も勉強も進まず、姉に般若の顔をされ、減額しようかしらと脅された。姉との力関係を思い知らされつつノルマを終えた頃には楽しみにしていたテレビ番組もとうに終わっていて諦めてベットの住人となったのだった。

 宵闇が襲って来てどれ位経ったろうか。千夜一夜を過ごしたようなそうでないような長くて短い夜が終わり、ブラインド越しからは暁の恩恵が零れ落ちる。
 がさり、と件のインテリアに手を掛けて覗き見れば、それは確かに朝では溜息を付いた。
「眠れなかった……」
 それは踏んだり蹴ったり、と言う表現が相応かもしれない。最悪の気分を抱え、眠れない夜を過ごした身にはブラインドの音も煩わしくて頭を掻く。大学を建築学科に進んだ姉がインテリアに拘りだして、これをの部屋に取り付けてくれたのだが今はそれが恨めしい。姉に言ったら間違いなく命が無くなる。そう思い至ればもう一度溜息を吐いて立ち上がり、何時も通り制服のあるクローゼットを開けるのだ。
 制服を来て、ふと鏡に映る自分が見えた。こちらも何時も通り映る、でも今日は寝不足で冴えない自分の顔。第二ボタンまで開けたシャツ、若いうちだから! なんていい訳を添えて短く履いたスカート。
「なんかな……」
 は罰が悪そうに第二ボタンを留め、スカートは……そのままだ。
 階下から姉の声が聞こえる。放課後の待ち合わせについてだろうと思い至ると鞄を手に部屋を後にした。

「なんというか、代わり映えのしない面子だな」
 登校してさっさと鞄を置いて廊下で駄弁っていたと前田慶次を前にそう口火を切ったのは友人のかすがだった。
「仕方ないじゃん、夏休みでも毎日学校に来てるメンバーなんだもん」
「慶次、お前は本来来なくていいはずだ。もう少し頑張れ、それでも男か」
「いやーそうは思ってるんだけどねぇ」
「恋よりまず自分のことだな」
「恋だ愛だのいってるから頭が飛ぶんだと思うよ、うん」
「二人とも相変わらず辛辣ダネ」
 は前述のように生徒会で、そしてかすがは部活動だ。演劇部所属の彼女は文化祭に向けて演目の練習をせねばならず、当然毎日のように登校していた。
 だが慶次は少し趣が異なる。
 彼は所謂赤点常習犯で故に補習というご褒美が齎され、毎日登校する羽目になっている。だがどうだ、彼は何処吹く風で補習用の問題集も大事そうに手にして機嫌が良いくらいだった。
「でも補習も悪くないんだぜ、それなりに天国なんだ」
「勉強しない慶次君がなんか言ってるぞ。暑さで頭が可哀相なことになってしまったか」
ちゃん酷い」
「ふぉふぉふぉふぉふぉ」
「で、何が悪くないんだ?」
「へへーっ、補習の先生が孫市せんせーなの!」
「この色狂いめ! また先生にちょっかいを出す気だな!!」
「かすがもう殺っちゃっていいよ」
「わかった」
「ヤメテヤメテ! 俺まだ生きていたい!」
 なんていうのはいつもの遣り取りだ。謂わば朝の挨拶のようなもの。突き放すような言い方にも聞こえるかすがもそれ程本気ではない。鬱陶しいなどと言いつつも毎朝同じような会話をそれなりに楽しんでいるようだ。
 とてそうだ。今日は特にこの遣り取りが気鬱を飛ばしてくれる。なんとかいつものテンションに戻れそうだ、と内心安堵の息が漏れて友人らとの会話に参加するのだ。
「で、ちゃんと補習は進んでいるんだろうな? 先生の手を煩わすんじゃない」
「ほんとだよー、孫市先生は慶次のものじゃないでしょ、私のものなのだよ」
「何時からそうなったんだよ」
「夏休みに入る前のことさ。生徒会の仕事で疲れた私に先生が言葉少なに、マフィンを渡してきたのだよ。しかもお手製! 胸キュンしたね! 言うなればあれは先生からの告白、嗚呼ありがとう孫市先生! 愛してるよ!」
「な、なにぃ! 俺貰ったことねー!!」
「ほら出た! 愛の差が!」
「うわあぁあぁぁぁぁ!!」
 胸に手を当てて半ば芝居掛かり陶酔してみれば慶次が絶望を帯びた顔で慌てる。本当は生徒会役員全員に渡されたものだがそんな種明かしを教えてやるのは面白くない。
「嗚呼口の中で蕩けた先生お手製のマフィン……、私一生忘れない」
「くそぉおっ! ちゃんの唇を奪えばマフィンに辿りつけるかな!」
「やめろ変態め」
 んーっと唇を近づける慶次にかすががピシャリと言ってのける。昨日を思い起こせば若干の警戒を覚えたが、慶次の変態ぶりなどあの男に比べたら話にもならない。あの男と違い慶次には裏が無い。安心して他愛無い話と片付けることが出来るのだ。
、何かあったのか?」
「えっ」
「いつもとは少し違う」
 かすがの美しい眉目が顰められる。この女友達はひどく勘が良い。目を瞬いて見つめ返せば彼女は少しだけ笑んだ。
「そだね、ちょっと不自然というか、あ、恋でもした? 俺はダメだよ。でもちゅーぐらいならいいよ」
「あれ、いたの? 慶次。私今かすがといいとこなんだけど」
「うむ」
「理不尽!」
 慶次は大げさに声を上げてみせる。そうして掌を握り締めて再度唇を突き出してくるのだ。
「よーし! 腹いせだ! 唇奪ってやるっ、んーーっ!」
 その間抜けな顔に、おおっとそれはなしだぜ、慶次!とまた冗談を返していた時だった。

「! っ! お前まだっ!」
「っ!」
 ――すぐ後方から聞こえるあの聲、が今最も会いたくない男の聲が、耳を脳を、いや全身の毛穴すら駆け抜ける気がした。振り向けば嫌でも目に映る短く切り上げられた髪、いかにも好青年といわれそうな容貌、体育会系そのもののがっしりとした体格。――家康だ。
 は咄嗟に、慶次の後ろに身を置いて彼を防御壁のように相手に向けて押し出した。
「おんてきたいさんっ!!」
「うわっ、なにっ!! ちゃっ」
「うぉっ! 慶次っ!!」
 瞬間、不幸な事故が起こった。
 バランスのとれなくなった慶次が、向かってきたの怨敵に対して思わず倒れ掛かってしまう。そして――

 ぶちゅ。

「ぎゃあああああ!!」
「ぐっ! な、なっ!!」
 そう、朝から見るに耐えない男同士の接吻という事故が起こってしまったのだ。慶次と怨敵家康は起こった事態に悲鳴を上げ、惨劇にかすがは硬直してしまった。幸いなことは遠巻きに見ている面子が全く居なかったことだ。
「ふう、まったく尊くない犠牲だった」
「も、没義道! 返して俺の貞操!! うわあうわあ!!」
っ! 何をするんだ! ワシはよりによって男とっ……」
「おんてきたいさんと言ったろうが! 出たな私の敵め!」
 慶次はすぐに近くの水飲み場で蛇口を捻り、家康はハンカチで唇を何度も拭ったが不快感は消えないらしくすぐに慶次の横の蛇口に助けを求め、彼と同じように嗽をし唇を洗い、情けない後姿を晒している。昨日のことを思えば少しでも溜飲を下げたいところだ。
 こっそりかすがの後ろに下がりながら、はいつもの調子で捲くし立てる。
「ふう、咄嗟に身を守れたのは上杉先生を信心するお陰ね。『よくやりましたね』って笑顔で言ってくれる先生が瞼に浮かぶわ」
止めろ、お前の想像で謙信様が穢れる!」
「どいひー! 私達お友達じゃなかったの!?」
「お前は友人だが謙信様には代えられない」
「愛が友情に勝った瞬間を見たよ」
 水飲み場に居る脅威がなければ眸に泪を溜めてよよよと縋りつきたいところだ。その脅威殿は一応の目処がついたのか、かすがとの会話を割くように、ずいと身を進めてくる。
!」
「な、何っ」
「朝からこんなことになるとは、ああいやどうでもいいそんなことは!」
「どうでもいいって言っちゃったこの人!」
 まるで感情をうまく表せないとでも言わんばかりの様相で家康は頭を掻く。その為様は昨日の彼を思い起こさせて、はほんの瞬きの間だったが身が硬くなる。が、気取られまいとすぐにキっと彼を見据えたのだ。
「そんなことより慶次と何してたんだ! ここは学校だぞ!」
「なにってどつき漫才」
「じゃあなんで慶次がお前に口付けを」
「してないし」
「未遂だし」
 遅れて戻ってきた慶次も参戦して事も無げに答えると、家康は心持ち低い声になった。
「慶次はちょっと黙っててくれ。――、少しは自覚を持てと言ったろう?」
「煩いよ、だから慶次ぶつけて自衛したんでしょ! エロヤスさんよ!」
「エロヤ……」
 気の毒なくらい無碍に扱われ、半ば放心気味の慶次をまた前に押し出しは極力家康の目を見ないようにした。
「頑張れ慶次! 私の防護壁! 今ならかすがと二枚重ね!」
「非道い! なんか家康ちょっと怖いし! 後で苺ミルク買ってもらうかんな!」
「私もだぞ、男同士の口付けなど全くもって目の毒だ」
 かすがは呆れ顔のままだったが、何時もにない警戒心むき出しのに一拍つくと横目でちらりと家康を見た。 
「――ということだ、徳川。よく分からんが収めてくれ」
「……ああ、だがに少し言い含めてくれ、どうも女として自覚がないというか露出が多いというか」
「何かあればそれはの責任だと思うがな。徳川、何故お前が其処まで構うんだ?」
 かすがは憮然としたまま抑揚なく言を紡ぎ、慶次は内心、かすがちゃんだってちゃんとスカート丈そんなに変わんないよなぁ、と聊か違和感を覚えるも壁に徹していた。
「よ、余計なお世話ですー!」
っ!」
「うぉっ護れ慶次ぃぃ!」
「ちょっと来い!」
「ひぃやぁあああ!」
 慶次とかすがをあっさり突破して、家康はの細い手首を掴む。そのまま廊下の角まで引っ張られていく。友人二人は慌てたものの、心なし家康から感じる気配に異様なものを感じて、おいっと声はかけるものの角まで追いかけるのは躊躇われた。
ちゃん今のはほんとに余計な一言だよ……」
「はぁ」

 廊下の角、階段に通じるこその壁に背を付かされ、手首は相変わらす締め上げられたままだ。家康の顔には普段の爽やか過ぎる笑顔など消え失せて眼光だけが鋭くを縫い付ける。

「と、徳川っ……」
「このままいけば、ワシは本気になるぞ? ?」
「――! なに、それ」
 瞬間、彼の顔が近づいてきては思わず眼を閉じた。
「分かるだろ?」
 耳元に吐息が掛かるほどのそれに身がぶるりと震えた。と、同時に手首を圧迫していた力が消え開放される。眸をうっすら明けると家康はもう離れていて背を向けていた。
 そうして、気をつけろよ、と言うとそのまま慶次らの方向にすり抜けて去っていくではないか。唖然呆然、それは直ぐに怒りへと変わる。
 なんだ、なんなのだあの男は!
 は心配して駆け寄る慶次が手にしていた補習用の問題集を掴みあげると家康の後頭部に投げ付けた。
「変態! 痴漢! 二度と私に近寄るな!」
「ああっ俺の問題集っ!!」
 前日と同じ科白を発しながら、それが負け犬の遠吠えだと思い知る。昨日から完膚なきまでにやられたのは隠しようがない。家康が頭を抑えてる間に、かすがと慶次の腕を引いて教室に撤退すると、ああああと声を上げて机に突っ伏した。二人はその様に顔を見合わせながら怪訝そうな視線を送っていた。

- continue -

2011-10-19

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