カサリ、とビニールの擦れる音が聞こえて目をやれば素顔のわからぬ監査長が、楽しみにしていた新作の菓子の袋を開けて、幸村に渡しているところだった。愛しのチョコレートは幸村の口の中に旅立ち、永遠の別れに心から涙する。
幸村の甘い物好きは知っているとはいえ簡単には諦めきれない。原因たる大谷に反撃する訳にも行かずその横をみれば明日の分のペットボトルも空いていた。打ちひしがれる前に、後ろで何か騒いでいる家康の顔面に一撃を入れて八つ当たりを完了したところで、監査室の電話が鳴った。
電話の先の相手は例の武田校長だった。
『生徒達の成長が嬉しくてついつい目尻を下げて見ていたが調子に乗りすぎた。監査の手を煩わせて相すまぬことをした。今回の修理代は勿論自分が持つ故そのことを幸村たちにも伝えて欲しい』
豪快な笑いと共にそう告げる校長に、本当にこの人は反省してるのかと一抹の不安を覚えたが、これで家康がこの部屋から出て行くと思うとはあからさまにホッとする。
その端で幸村が、お館様の手を煩わせるなど不甲斐ないばかりにぃぃいと絶叫するので、チョコとペットボトルの恨みを込めて必殺のスリッパ乱舞を炸裂させてやった。青春の汗をキラキラと流すの後ろに居る家康の表情が読めなかったが、それは黙殺することにして彼らを追いやり今日の仕事を終えたのだった。
今日は午前中で仕事を終えるはずだったが乱入によって長引いてしまった。昼食は武田校長の差し入れによって満たすことが出来たが、日が翳る今となってはあのチョコ菓子が恋しい。帰りにコンビニに寄ろう、と考えながらは下駄箱で靴を履き替える。
夏休みであるから下駄箱も寂しいものだ。皆持って帰っているらしく上履きすらない。部活動に勤しむ者らや達のような生徒会の人間の靴がほんの少しあるだけだ。皆今頃夏を満喫しているのだろう、と考えると少し損をした気分になる。
皆が休みであるのに朝から登校せねばならないのは辛いところだ。だが夏が過ぎれば体育祭や文化祭が控えている。今から準備を始めている部も多く、彼らや実行委員会が動いてるところで予算を管理する生徒会監査が動かないわけにはいかない。
頑張ってるからせめて内心点良くしてね、と心中祈りながら昇降口を出る。その先には見慣れた顔があった。夕日を背にするその姿が様になっているのが癪に障る。
「刑部先輩、石田」
「まだ居たのか、先に出たから帰ったと思っておったに」
「女の子は時間が掛かるんですよ」
「厠か」
「この野郎」
「怒るな、ぬしはからかい甲斐がある。そうさな、明日はぬしに菓子をもってきてやろう。それで許せ」
「マジで!? 先輩大好き!」
「なに、今日の侘びといつもの礼よ」
「あ」
「どうした?」
「先輩、それは罠ですね。ドリアンとかシュールストレミングとかそういう類のもの持ってくる気でしょ!」
「何故分かった」
「ちくしょうやっぱりか!」
「ヒヒッ、冗談よ。まことぬしは面白い。たまにはわれを信用せよ」
「ぬぬぬ……」
監査室では恒例の掛け合いに三成は憮然としたままいつもの調子で口を開く。
「刑部、何をしている。さっさと来い。に割く時が惜しい」
「この御方はなんて非道いことを仰るの!」
「ではな、。あれの機嫌を損ねるとこと故。気をつけて帰れ」
「先輩も大変すね。そちらもお気をつけて」
を一瞥することも無くさっさと背を向ける三成と、それに文句も言わない大谷、後輩に先輩がついて行く、そのなんとも奇妙な関係に首をかしげた。
「あの二人なんで仲良いんだろ?」
本当に急ぐ用があるのか二人は足早に去って行く。そういえば、とは口に手をやった。考えれば二人が放課後駄弁るところなど見たことが無い。塾に通っているのか、はたまた門限が厳しい家庭なのかは分からないが、あの急ぐ様はいつも予定が詰まっているのではないかと思えた。
いつもの歩調で歩いていると、先行する三成が校門を出て曲がり際にちらりとこちらを見た気がしたが手を振る間もなく門に隠れて見えなくなってしまった。慌しいことだと思いながらは姉から譲り受けた時計を見た。十八時四十分、自分も早く帰らねばならない。
夕日が一層その色を増し辺りを染め上げる。美しいはずのその色合いには暑苦しさを思い出す。緋い様は幸村のようで、だがしかし太陽というのは家康を思い起こさせた。あのにこやかな笑顔、爽やかなはずなのに自分にとっては至極鬱陶しいあの顔だ。
「てか徳川だよ徳川! ほんと面倒くさい奴だ」
そう独りごちても足早に校門を出る。駅がある方に向かう三成達とは逆の方向に曲がり、夏休み故に聊か人通りの少ない路地を抜ける。学び舎は所謂高級住宅街に程近く、学生が通らねば住人しか通らないから当然だ。
何件か大きな家の前を抜けて、横目に普段閉まっているガレージのシャッターが開いている家があるな、などと思いながら通り過ぎようとした時だった。
「――えっ!?」
後ろに張力を感じた。途端バランスが取れなくなりその力の為すがまま倒れ掛かる。次に感じたのは自分を引っ張る存在だ。自分の腹部と口元を抑える人の手、本能的にまずいと思った。
「んっんーっ!!」
何をするんだと抗議の声を上げることなど適うはずも無い。状況を打開しようと頭をめぐらせるも、幸村をあわや涅槃送りにしかけた凶器のペットボトルも既に空となってプラスティックゴミの住人となった後だ。口を覆う忌々しい手に噛み付こうにも相手も分かっているのか微妙に歯が届かない。
まずい。
その間にも我が身は薄暗いガレージの中へと誘われては血の気が引いた。後ろに居るであろう相手の力は強まり、無常にもの身は完全に引き込まれた。
暗がりという領域に入ったことに慢心したのか、姿の見えぬ誘拐犯は口元から手を離し、の首筋から太腿までを撫で上げ、吐息が耳を這って来る。
「っぃぁっ……!」
手を退かそうと必死に掴むもびくともしない。
「離してっ……」
勝手に触るな! 私は安くない! などと普段の威勢など消え失せて懇願した。だが相手は耳を弄ぶのをやめて首筋に触れてくるではないか。
「やだっ! やめ、っ……!」
姿は見えずとも腹部を押さえつける太い手と力は紛う事無く男性のもの。自分をすっぽり覆ってしまいそうな体格を背に感じて、の眸は歪む。
これが男女の差なの? こんなにも為す術が無いの? そう思えば昼間の家康の言葉が反芻する。女子なのだ、必要以上に素肌を晒すな。不埒者に何をされるか。――ああ、徳川のいうことを聞いていればよかった……。
「……」
え? と思わず動きが止まる。今、と名を呼ばれた。
誰なのだ、考えろ。この声が聞いたことが――
「と、……徳川!?」
脳裏に散らばるバラバラのピースを瞬時に合わせればそれが最も会いたくない男と符合する。どうしてここに、という疑問は驚きの余り口の中で爆ぜるだけ。家康は察したように、此処はワシの家なんだ、と呟き、次いでの情動を揺さぶり続ける。
「だから気をつけろと言ったんだ」
「っ!」
「ワシがほんの少し手加減しなかっただけでお前はこの有様だぞ?」
そういえばこの不倶戴天の敵は、のスカートの裾を分けて内股に触れてくる。何をするのだと家康の手を掴みときに叩いて抵抗した。
「な、触ん、な!」
「こんな風に男を誘うように素肌を晒していては何時こんな目に遭うか分からない。言っただろう?」
いつもにない低い声が酷く耳を刺激してきて思考はみるみる惑乱の極みに達する。もう苦し紛れに譫言を爪弾くのが精一杯だ。
「わ、たしをそんな目で見る奴なんていないわよ! 離して!」
「、まだ分からないのか?」
「ぃあっ!」
こんなにももがくのに家康の手は一向に緩まない。それどころか耳朶を舐められ噛まれる。不本意に上がる声が情けなくて悔しくて堪らない。なんなのだ今状況は。なんなのだこの男は。信じられない、こんなことをするなんて。
「ワシはこんなにもお前に触れたくて堪らないぞ?」
「なに、を……」
「不特定多数に晒して、ワシがどれだけやきもきしたことか。お前には分かるまい?」
「んなの……」
「さあ、三成を呼ぶか? 刑部を呼ぶか? 来はしないぞ?」
此処は家康の家だという科白が脳裏で反芻すれば完全にこの男のテリトリーだと思い知る。それが彼の揺るがない勝利宣言のように思えて悔しくて唇を噛むしかない。
が、油断したのか家康の手が少しだけ緩んだ。はここぞとばかりに後ろを向いてかろうじて身から離れなかった鞄を家康の頭に殴りつけた。よろける家康の手から離れて素早くシャッターの方へ身を寄せて毛を逆立てる様に彼を見た。いっそのことシャッターを潜って逃げてしまいたかったが今だ距離が近く、背を向けた瞬間また捕らえられるのではないかと思えば足はすくんで動かなかった。
「って……」
「そんなのアンタだけでしょ! この変態! エロ狸! むっつりスケベ! 何が品行方正の優等生だ! こんなことまでしてただの根暗でしょ! あんたが危険だって皆に……っ!」
「信じるかな?」
「!」
「ワシは自分で言うのも何だが外面は良いぞ? お前が嘘を吐いていると言われるのがオチだ」
「このっクソ狸!!」
そう悪態を吐きながらは我知らず震えていた。
怖い、この顔が怖い。なんで今名前で呼ぶの? なんで何時も通りって呼ばないの? ああよく分かった、私が徳川を嫌いな理由。この目だ! 他の人に向ける視線とは明らかに違う温厚さを取り払ったあの色。心臓を鷲づかみにされそうになって嫌なんだ。動悸が止まらない。だから、だから距離を取ってたんだ。
自覚したところで今の状況は変わらない。ゆっくりと間合いを詰めて自分を真っ直ぐに見据える家康の手が頬に触れたとき、互いに分かるくらいビクリと身が跳ねた。
「――っ」
「」
ぽろりと意図せず泪が落ちて反応する。
「っ……、、悪かった。やりすぎた」
「――へ……?」
目を瞬かせるに、家康は、ああクソっ、とらしくなく罰が悪そうに頭を掻く。先程の剣呑さは何処へやらだ。
「っと、本気で襲う気ならガレージのシャッターなんてとうに下ろしてる」
背に掛かる斜陽など気にも留めずただ家康の言葉だけが鮮明に耳を突く。いかにも好青年らしくよく通る声が癪に障る。
「だがな。本当に心配だったのは分かってくれ。は自分が思ってるより色んな男から好意を寄せられているんだぞ」
ああそうか、なんて納得出来る訳もない。いきなり引き込まれて耳を舐められて、ましてや太腿にまで触れてきたのだ。内心安堵したのと相まって腰が抜けてしまいそうになるのを必死に奮い立たせて家康を睨め付ける。張子の虎のように言われるままに頷いてなどやるものか。
「煩いわよ変態! もう二度と私に近寄らないで!」
「……っ」
次の声を待たずはガレージを飛び出した。日の色は少しだけ薄暗さを迎えて心の不安を煽る。住宅街を駆け抜けながら這々と怒りと焦燥と、好ましくない感情だけが渦を作り掻き乱す。
なんて失態だ。あいつの前で為す術無くぼろぼろ泣くなんて。嫌いだ! やっぱり嫌いだ徳川家康!!
この先、学校生活の中であの男と出くわしたらどうすればいいのだ。対処法を知るほど処世術に長けてはいない。幸いなのは今が夏休みということだ。今日はたまたまあちらが来る用事があったが、夏休みが終わるまでにじっくり考えればいい。
最寄のバス停に着きあがる息を整えながら後ろを振り返る。追っては来ていない。バスが到着するまで後三分。もどかしい時間に逸る心。
そうしてははたと気付く。
「どうしよう。明日、登校日じゃん……」
その先にバスのライトが見えた。
- continue -
2011-10-12
1位慶次 2位家康 3位幸村
この三人が黒くなって迫ってきたら確実に死ぬ。皆さんは誰が怖いですか?