風に追慕(四)

 日が暮れて夜の帳が辺りを包む。段違いに冷たい風が子供らを覆い、迫る宵闇は不安を掻き立てるには十分だった。弁丸は一番上に着ていた綿入りの着物の中にを入れて、自分用の温石の包みを彼女の膝に置いた。
「こうすれば寒うないぞ」
「でもにいさまが寒いよ?」
「おれは平気だ! 男なのだから!」
 だが風がもう一吹きすると弁丸のくしゃみを誘う。平気だ! と未だ言う彼には温石を彼の膝に返した。目を丸くする弁丸には胸を押さえて言うのだ。
はにいさまがいるから寒くないの。ここがすごくほかほかよ」
「おれもだ!」
 幼いが故に互いに笑いあう。優しい兄、可愛い妹、大切に想うだけで心は温かい。なんて素晴らしい感情なのか。小さな二人はそれがどれ程尊いものか知らない。
 だが、夜は一層その色を増してゆく。二人にはどうしてもそれが怖ろしいものに感じられてならず、時折聞こえる犬の遠吠えに身を竦ませ兄と妹は身を寄せ合うのだ。弱気になってはならない、直感的にそう感じて堪える。が、先に根負けしたのはだった。
「にいさま、こわい」
「おれがついてる」
「うん」
 物の怪が出たわけではないのに、ただ冷たい風が吹いて暗くなっただけなのに怖いのは何故だろう。弁丸もまた震えながらぎゅっと唇を噛んだ。

「頃合かなぁ」
 弁丸とに気付かれぬように付き添っていた佐助は低い躑躅の木に隠れながらそう呟いた。暗くなる前に二人を捕まえるなど造作も無いことだった。だがそれでは弁丸の鬱憤も、父にあしらわれたの気分も晴らすことが出来ないと考えて時を待っていたのだ。
 ほんと、俺様気が長くて気の利く忍び。と自画自賛しながらじっと。
 あーん……あーん……ぁー……
 そのうち、耐えかねたの泣き声が聞こえ出すと、心得た佐助は大きな音を立てないよう二人の側の広縁に降り立ち、それから広縁からひょいと縁の下を覗くのだ。
「あーらら、寒かったでしょ? そんな雪の中じゃ凍えちゃうよ。さあおいで」
「っさすけっ」
「佐助ぇええっ」
 佐助が広縁からくるりと降りて笑顔で手を差し伸べると、それまでを宥めていた弁丸も飛び出てきてしがみ付き火がついたように泣き出した。
「あーあ、暗くて怖かったでしょ? ぐちゃぐちゃに泣いちゃって」
「おれは泣いてないぞ! だ!」
「嘘おっしゃい、若様目も鼻もぐちゃぐちゃ」
「そんなことはないぞ!」
「はいはい」
「さすけっ」
「なーに? 姫様」
 小さな手が自分を求める。
「さすけだいすき」
 可愛いなぁ。
「俺様もだよ、お姫様」
 何故か心にくる温かさはなんだろう。面倒くさいはずなのに、でもそれもいいかもしれない。嗚呼、俺様こうやって染まっていくんだわ。
 佐助は暫く二人を抱きしめ、大事に抱えて皆の許へ戻ったのだった。

 灯明がヂリっと音を立てる。先程、我が子二人が無事見つかったと連絡の入った昌幸は安堵を隠すように酒を手にぼやく。
「あの侍女め。何が筝が倒れてきて重さで動けないところを若様たちが走り去られて追いかけることも適いませなんだ、だ。もう少し良い言い訳を言わぬか! 加担を隠す気もないのがありありと分かるわ!」
「針に感けて可愛い足音が聞こえませんだ、とも言っておりましたね」
 夫の様子に妻は噴出しそうになるのを必死に隠す。
「まったくこの城は妻子どころか家臣も侍女も油断ならぬ」
「当主が表裏比興の者ですから丁度良いのではありませんか」
「ふん」
 ゆったりとした所作で酒を注ぎ足しながら、山手殿は娘が生まれて数年来の疑問を問うてみた。いつもより酔っているし酒の席ならば聞けるかもしれない。
「常々お聞きしたかったのですが、殿は何故あのようにに接せられますの? 何か含むところがおありなのですか? 此度のことにしても頑なに躑躅ヶ崎におやりにならないと仰せられて。あの子の寂しげな顔を見ておりますと私も母として胸が潰れまする」
「其方までそのような」
 同じことを侍女達にも言われたのかもしれない。昌幸はばつの悪そうな顔付きになって手にある盃をくるくると回した。二、三、肴に口をつける間もじっと見つめてくる妻に根負けしたのか、もう一度盃を飲み干すと聊か不貞腐れたように口を開いた。
「女子は可愛がっても十も半ばで嫁ぐではないか。可愛がるだけ虚しいであろう。それには其方に似て嫋やかに、匂い立つ様にように育って欲しいのだ。無骨者の儂の口出しなど煩わしいだけであろうに。弁丸はそれが分からぬ」
「まあ」
 それは子への愛情と自分に対する最大の惚気であったかもしれない。だが口に出さねば幼い弁丸ももそれが分かろう筈も無い。子供達の為にも少しだけ上気する頬を隠して山手殿は続けた。
「ですからその分、弁丸が良い武将になるよう御手をお掛けになるのですね?」
「うむ」
「その仏頂面をおやめになって言ってやれば宜しいのに」
「いまさら言えるか」
「まっ」
「言ったとおりだ。が可愛うない訳ではない。躑躅ヶ崎の件とてそうだ。あちらに出せば皆がを見て言うてくる。『真田殿は姫をどちらにおやりになるご所存か?』とな。まだやる気はないわ! お館様とて油断ならぬのだぞ! 先日はを膝に抱いて『儂の娘になるか?』などと!」
「まあ、まあまあ……」
 段々と狼狽する夫に耐え切れず山手殿は噴出した。可愛がっても虚しいだけなどと言いながらしっかり気に掛けているではないか。何度か部屋の外から垣間見た執務や軍議で見せる夫の凛々しい顔とはかけ離れたその顔を思い出せば涙が出るくらい笑いが止まらない。
「山手、酷いぞ」
「だって殿」
 自分の手にある銚子を奪い取って面白くなさそうに酒を煽る夫に山手殿は押しの一手を入れ込む。
「佐助の話によりますと、弁丸は最後までの手を握ってちゃんと守っていたようですよ。殿の教育の賜物ですわね。私も嬉しゅうございます」
 その言葉に夫の耳が染まるのをみて彼女は至極満足し、達を寝かしつけた後屋根裏で控えていた佐助はこの不器用親父め、と苦笑するのだった。佐助の耳に、今日は何故かの泣き声が少し残った。


 あーん……あーん……ぁー……

 嗚呼、子供が泣いている。年端も行かぬ女の子の泣き声だ。


******


 奥州に来て初めての立春を迎えようとしている。奥御殿から主殿への居室が移されたのはつい先日のこと。半年以上暮らした居室との違いに、否、信州と奥州の違いに未だ慣れないまま日々を過ごす年若い正室は人知れず溜息をつく。喜多をはじめ侍女達の心尽くしに不満がある訳ではない。夫たる人とも今の時候と同じように少しだけ雪解けの様相が見える。なのに未だ押し潰されそうになる心、気鬱は容赦のないままを襲うのだ。
 もうすぐ薄暮だ。なのには庭を歩いてみたくなって未だ残る白雪を踏む。まだ二月の初め、雪化粧の中に咲きかけた椿を眺めているとふと、耳を掠める小さな音。

 あーん……あーん……ぁー……

 えっ、と注意深く耳を傾ければ聞こえるのは明らかに幼子の泣き声。喜多も侍女頭も気付いて皆で辺りを見回してもそれらしき影は見えない。木々の裏、大きな石の後ろ、何度も見ても同じだった。そうしてはふと思い出す。
 もしや――。
 そっと屈んで縁の下を覗けば丸くなった二つの可愛い姿が映る。三尺には満たぬ童と女童、年の頃は六歳と五歳くらいだろうか。二つの小さな影は途端に一陣の風のように胸を突き、最早戻ることの無い遠き日々を思い起こさせる。
「こうすれば寒くない!」
「っでも、兄、上が寒っくな……よ」
「俺は男だから平気なんだ!」
 嗚呼。
 この子達は今日一日どんな旅をしたのだろうか? 馬に乗って外に出ようとしただろうか。商人の荷物に隠れて外に出ようとしただろうか。寒さを凌ごうと蔵を探しただろうか。
 あの日、大人たちは皆知っていたのだという。大好きだったあの忍びの采配で皆気付かぬ振りをして亡き兄と自分に冒険をさせてくれたのだとも。後日知った当初は恥ずかしさも相まって、酷いわ、と言ったものだが、兄と手を繋いで走り回った時間は楽しかった。
 を心配して幼いながらに思案し奔走してくれた兄。自分だって寒いくせに、お腹も空いたくせに平気だと笑った兄。そしてそれを物陰からずっと見守ってくれた大好きな忍び。――懐かしくて嬉しくての頬は緩む。その笑顔と胸に沸く温かさのままは声を掛けた。
「寒かったでしょう? そんな雪の中じゃ凍えてしまうわ。さあいらっしゃい」
 不意に聞こえた女の声に縁の下の二人は驚いて目を瞬かせ、でもすぐに泣きじゃくりながら飛び出してくる。小さな二つの身体を抱きしめながら誰にも気付かれぬようにの眸も緩むのだ。
「暗くて怖かったでしょう? よく頑張ったわね」
 すると兄の方がしがみ付いたまま声を張る。おのこだから平気だ、と。

 侍女達が来て、子らを暖かい部屋の中へ連れて行く。その後ろ姿を見送りながらは郷愁に包まれるまま小さく呟いた。
「懐かしいわ……佐助」
 風がまた吹き抜けての言葉も一滴だけ落ちた泪も浚っていく。冷たいはずの風があの優しい彼の風を思い起こさせて、またもう一滴零れ落ちそうになった。
 
 嗚呼、貴方は今、何処にいますか?

- end -

2012-05-12

風に追慕全4話これにて完結です。
最後に出てくる夢主は本編28話東風解凍(一)直前、お部屋が筆頭の側に移った頃の夢主です。夕方なので執務から戻った筆頭らが影から様子を見ていた、なんてのも考えればまたイイ……
……筆頭が心苦しい話にしかならない気がしてきた。

『三尺の童子』は7,8歳くらいの男の子とこと。一尺は2歳半。