風に追慕(三)

 母、山手殿の居室より少し北にあるの部屋。親子、兄妹でありながら弁丸の部屋は二人とは離れている。母に近いの部屋の位置を羨ましく思いながら、弁丸は男なのだからと口に出したことは無い。遠いなら、会いに行けばよいのだ。
?」
 侍女達を退けて中に入れば部屋の隅で丸くなる妹の姿があった。名を呼べば小さくにいさま、と返す声が弁丸の心を突く。弁丸は未だ濡れた睫毛の妹の横に座ってずいっと掌にあるものを差し出した。
「さあ、食べよ!」
はさきほど食べました」
「父上の分をふんだくって来た! あんなに意地悪なのだからが食べても構わぬ!」
「父上、おなかすかさない?」
「空かしても知らぬ!」
「父上かわいそうよ?」
「知らぬ!」
 弁丸は腕を組んでふいっとそっぽを向く。はどうしていいか分からないまま手に置かれた菓子を見た。
! 腹がいっぱいになったら出ようぞ!」
「え?」
「今日からは弁丸が父だ! おれがを守るぞ! 父上の意地悪が届かない処に行くのだ!」
 弁丸はの手を取ってにっこりと笑った。もまた釣られる様に表情が彩られる。
「だから食べよ。食べ終わったら暖かくして出るのだ」
「はいっ」
 が菓子を食べている間に、弁丸は下男のところへ行って温石を用意した。それから自分の部屋から綿入りの着物を引っ張り出してまたの部屋に急ぐ。付きの侍女は筝の準備をしているのか居ない。他の部屋に控える者らが針仕事に気をとられているのを見て取ると、弁丸は妹の手を引いて部屋から逃げ出したのだった。

「やれやれ……」
 針仕事の女子衆に変装して紛れ込んでいた佐助は二人の後姿を見送りながらそう呟いた。佐助と同じように知らぬ振りをしていた侍女達もまた後ろで笑いを堪えている。
「ご協力あんがと。でも昌幸様のお叱りを受けちゃうよ?」
「かまいませんよ、ねぇ?」
「御方様もすぐにお気づきでしょうし、未来の御当主様に媚を売ってもいいと思いますの」
「殿は少し痛い目を見られるとよろしゅうございます」
「それに佐助殿が付いて下さるなら心配してありませんもの」
 彼女らは鷹揚だ。躑躅ヶ崎館の気風がこちらまで来ている気がしないでもない。佐助は一抹の不安を感じながら対人用の笑顔を貼り付け、それじゃ後は宜しく、と言い置くと屋根に乗り、木々に移り城内を走り回る兄妹を追う。侍女等は頷き合って、もう暫くですわね、と笑い針と片手に縫い物をはじめるのだった。
 さて、弁丸とは一目散に厩に向かっていた。早速外に出ようというのだろう。武田の各国に聞こえた騎馬隊。飯富虎昌から武田四名臣の一人山県昌景に受け継がれた赤備え、彼から武田の各将に広がりつつある紅い鎧の一団と軍馬はここ上田城にもある。立派は鬣、武者と共に戦場を駆け抜けるこの軍馬を、甲州信州の者らは奥州馬に負けぬと自負している。
 時々、ぶるりと顔を振り嘶く馬には兄の背に隠れてしまう。
「にいさま、お馬大きい……」
は乗れぬな……」
「うん」
「うーん……」
 馬に乗って駆け抜ければ門番も払って外に出れると思っていたのだが。弁丸は頭を抱えたが、すぐに辺りを見回して想を練る。
「そうだ!」
「なあに? にいさま」
「出入りの商人に紛れて外に出ればいいのだ」
「きっと見つかってしまうわ」
「荷物の中に隠れれば大丈夫だ!」
 弁丸はにっこりと笑ってまたの手を引く。二人は人の気配がすれば物陰に隠れ、去れば足早に目的地に向かう。その動きは城中の者らにバレバレであるのだが、当人達も知らぬ振りをする大人達もまた必死なのだ。
 小さな足音は二の丸の北、虎口にある門の側まで来ることが出来たがまた首を捻ってしまう。
「にいさま」
「うーん、商人が通らぬー。これでは門も開かぬし」
 夕方に近いせいか菜や雑貨を納めた商人たちは仕事を終えてもう戻ってしまった後だったようだ。どうしようか、と弁丸が思案し始めたが周囲が慌しくなってくる。夕餉の仕度に入る下女らと、職務を終えた家臣らが各部屋から出入りし始めたからだった。弁丸とは急いで脇の木の陰に隠れて様子を見守る。出入りする者らは多いが、各々仕事や帰り支度に忙しいようだ。これならば。
「風も吹いてきたし……」
「はい」
「そうだ、ひとまず蔵に隠れよう!」
「はいっ」
 頃合を見計らって二人はゆっくりこっそり、移動を開始する。外気が寒くとも駆け回る二人の頬は夕日と同じで紅く染まる。大人ではなかなか染まらぬその色に微笑ましさが一層募るのだ。
 二人が向かった先は米が置いてある蔵とは別に、こまごまとした日用品が多数納められた蔵。新入りの侍女や下男が来るたびに支給される小袖や括り袴や四幅袴、その他諸々を所蔵するためこの蔵は開いていることが多いのだが……。
「何故今日に限ってこうなのだ」
「閉まってる……」
 半ば呆然とする二人の耳に、休む間もなく蔵の番をする者らの声が入ってくる。
「まずいぞ! えーと、あそこ! あの先の縁の下に隠れるのだ!」
「はいっ」
 小さな二人はどの対屋か分からないが、建物の縁の下に入り込む。砂埃と蜘蛛の巣を弁丸が掻き分けて丁度良い石の上に二人は座った。
「にいさま、暗くなってしまいます」
「うむ、だが暗くなれば外に出やすいかも知れぬ。俺がついておれば大丈夫だ」
「うん」
 兄妹は肩を寄せ合って時が過ぎるのを待つ。時折、冷たい風が二人の頬を撫でた。

 一方、侍女の知らせに父昌幸は目を剥いた。夕方より少し前に息子と娘の姿が見えぬと言うではないか。何のための御付か、何のための従者か、などと喚いてみても実に下らぬ理由が返ってきて昌幸は怒鳴りつけた。
「ええい! まだ雪も残る時期だというに! 急いで探せ!!」
 山手殿はその後ろで口元に袖を遣りながら零れ出そうになる笑みを必死に隠すのだった。

- continue -

2012-05-05

**