風に追慕(二)

 正室山手殿の御座所に着くと、幼い姫君は佐助の手から飛び降りて母君に抱きついた。どんな妙薬よりも母君が一番の薬らしい。佐助が抱っこしてくれたと彼の勲功を伝えると山手殿は育ちの良い笑顔を向けて、佐助に菓子を差し出してくれた。俺様子供じゃないんだけど、という気持ちと、此処で頂戴するのは場違いだよなどと気を回して知らず知らず固まってしまった。だが山手殿はなおも笑顔でさあどうぞ、と言うものだから断れよう筈も無い。の膝に侍女が届けた薬を塗り終えると、彼女はそのまま山手殿の膝の上で、佐助はその少し下座で、山手殿の実家から贈られてきた京の銘菓を口に運ぶ。
 それから少しすると、樫木棒を仕舞い終えた弁丸が当主昌幸と共に足を踏み入れた。弁丸は菓子を見つけると、それがしの菓子ー! と声を張り上げて山手殿の横を陣取った。佐助は頂戴しております、と頭を下げ天井裏に隠れようとするが、昌幸は、かまわぬかまわぬ! 遠慮なく此処で食すが良い! と言う。知将、謀将、表裏比興の者と謂われる昌幸だが、主君甲斐の虎武田信玄と同じく、こういうところは豪快だ。
「今日も佐助から一本も取れませなんだ」
「ははっ! 佐助は手練れ故そう簡単には取れぬぞ。もっと精進せい」
「はいっ!」
「弁丸もお菓子を食べ終わったら、頬にお薬を塗ってあげましょうね」
「にいさま、いたい?」
「平気だ! それがしは男なのだから!」
「頼もしいな」
「でもはいっぱい塗らねばならぬぞ? 女子なのだから傷が残っては大変だ!」
「まあ弁丸」
 昌幸は息子の頭を撫でて、山手殿も優しい顔をする。すると、昌幸は何か思い出したように弁丸に話しかけた。
「そうじゃ弁丸、お館様が十日後に武田道場を開かれるそうじゃ。行くか?」
「甲斐ですか? 行きまする!」
「わたしもー」
は駄目じゃ。母と待っておれ」
「えー……どうして?」
「女子が行く処ではないからだ」
「殿」
「真田は武門の家、されば男は外で猛らねばならぬ。だが女は違う。女子の其方は内に居れ」
はまた行けないの?」
 そう言うとは父に背を向けて母にしがみ付いてしまった。佐助からはの睫が雫に濡れはじめていくのが見える。
 昌幸の言うことは最もだ。だが小さなにはそれを理解しろと言っても無理であるし、佐助の目からみても、常々昌幸の二人への扱いは差がある気がしてならない。例えば、先程のように、弁丸が武芸をすれば褒め称えるのだが、が書などの練習を見せてもそうか、と頷くだけでそれ以上は無い。格別虐げていると言う訳ではないか、少し距離を感じるのだ。真田の当主としていつも外に目を向ける昌幸にとっては男子の弁丸は気にかけても、女子のにはとことん興味がないのであろうか。
、筝の稽古は終わったか? まだなら部屋に戻りなさい」
「はい……」
 有無を言わさぬその表情に付きの侍女がの手を引いて去って行く。下を向いた小さな姿に、佐助もまた、あーあ、こんな可愛い姫様なのに、と内心首を振らざるを得ない。山手殿は山手殿で、娘を心配そうに見て、そうして何か一言言おうと向き直る。
 だが、山手殿が言上するより先に噴火した者がいた。――弁丸だ。
「父上はが嫌いでござるか!?」
「そのようなことは無い」
「なら何故いつもあのように冷たいのだ! 躑躅ヶ崎にも連れて行けば良いではないか!」
「女子が行ってどうするのだ」
「父上はいつもそうだ! おれのことは褒めるのに、が何かしても褒めてもやらない!」
「弁丸は武将になる男、なれば父が沢山褒めよう。だがは女子、母が沢山可愛がればよいのだ」
「母上はおれの頭もよく撫でてくれるではないか!」
「そうだな」
 佐助が感じていたことを弁丸も同じように感じていたらしい。だが弁丸の抗議にも昌幸が動揺することは無い。眉一つ動かさぬ父に弁丸は苛立ちを隠せない。
「父上が可愛がらないなら、おれが可愛がる! 今日からは弁丸がの父ぞ!」
 子供ながらに仁王立ちして猛る弁丸の言葉に山手殿は目を丸くし、いやそれは何でも、と佐助も突っ込まずにはいられない。
「父上は金輪際、と喋っても触れてもならぬ! の部屋に近づくのも罷りならん!」
 弁丸はくるりと後ろを向いて部屋を出ようと走り出す。が、ハッとして一度昌幸の前に戻り、父の菓子を奪い取ると今度こそと勢いよく飛び出していった。
 父母二人は、特に父親は半ば呆然として呟いた。
「ち、近づいてもならんだと?」
「殿、お灸にございますわ」
「其方までその様なことを」
「連れて行かぬならわざわざの前で申されずとも宜しかったでしょう?」
「隠し事は良くない。それに日が近づけば分かること、皆が用意をしているのにが知らぬなどということのほうが可哀相であろう」
「なんと言いますか……。殿、道場が無理でも躑躅ヶ崎の御館に連れて行くぐらいは。三条の方様はじめ奥の方々もを可愛がっておられますれば」
「馬鹿を申すな。道場をやる日は皆羽目を外す。酒も入るしなどもみくちゃにされようぞ」
「はぁ……」
「まあ、もう一つあそこには連れて行きたくない理由はある」
「何でございますか」
「其方は笑う故言えぬわ」
「まっ」
「山手、そんな目で見るでない」
 怪訝と不機嫌を織り交ぜたような、山手殿にしては珍しい表情に昌幸は居心地の悪さを感じながら溜息をつく。そうして話を折るかのように佐助に振ってきた。
「すまんのう佐助。見苦しいものを見せた」
「いーえ、お気になさらず。俺様こそ空気も読まずすみません」
「いや、そんなことはないぞ」
「夫婦水入らず、お邪魔しちゃ悪いんで俺様下がります」
「あ、これ、佐助!」
 家の真の支配者たる人を敵に回すなど利口なことではない。山手殿の表情を読んで佐助は黒い靄に包まれてサッと姿を消した。子供達の前とは打って変わり情けない声を出す昌幸が若干気の毒にも感じれたが、俺様の仕事は夫婦仲を取り持つことじゃないし、と言い聞かせて、高い木々の上から上田城内を見回す。
「さて、と。きっとこのままだと若様が行動を起こすはずだからっと」
 少し見れば怒気を漂わせて広縁を走り抜ける弁丸の気配がする。幼い故の正義感、傍目からみれば可愛いものだ。だが。
「面倒くさいなぁ」 
 それを追いかける佐助には人事でなく笑ってもいられない。溜息混じりに頭を掻いて佐助はまた宙に舞った。

- continue -

2012-04-28

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