あーん……あーん……ぁー……
嗚呼、子供が泣いている。年端も行かぬ女の子の泣き声だ。
猿飛佐助は優秀な忍びだ。齢十を越える頃には里の忍びの殆どが彼に敵わなくなっていた。勇名が轟いたのか、先日は裏切りを最も嫌う忍び社会であるにもかかわらず、他勢力からの引き抜きの話があった程だ。佐助が唯一勝てない相手、里の長が引退する時は佐助が次の長になる、と実しやかに言われている。
――なのに。
信州、上田城は甲斐の虎武田信玄よりこの地を任された真田昌幸によって統治されている。昌幸は信玄の御声掛かりで京の公家衆の息女山手殿を娶り、二人は一男一女に恵まれた。男子の名は弁丸、女子の名は。弁丸は武勇誉れ高い真田の嫡子らしく闊達、は母似の可愛らしい姫で家中の者らはこの幼い兄妹に兎角甘い。
今日も今日とて、弁丸君は樫木棒片手に鍛錬に余念が無く、姫は年の初めに母君から贈られた手まり遊びに忙しい。弁丸君付きの老臣も、姫付きの侍女も皆目尻を下げてそれを見守っている。
ただ一人、木陰に隠れて警護する佐助だけが大きく溜息を吐いた。
「優秀な忍びの俺様が何でまた子守りなのかね」
もう少し時が経てば呼び出されるに決まっているのだ。弁丸君の鍛錬の相手、姫の話し相手。城に上がると聞いたときには同期を出し抜いたと思ったがこれでは。里の同い年の忍びやくの一も少しずつではあるが他国に諜報に出だしているという。
「さすけー!」
無邪気な若君の声が聞こえる。佐助はまた溜息を吐いた。こんなはずではなかったのだ。
予想通り鍛錬の相手をせよ、と御指名を受け佐助は小姓の一人から樫木棒を受け取る。御歳六歳の弁丸君は当然の如く佐助の相手ではない。だからとて簡単にやられてやることも出来ない。以前、適当に負けてすぐ去ろうとしたところ、この若君は顔を真っ赤にして、佐助はそれがしを馬鹿にしておるのか! と怒鳴ってきた。負けん気が強いのは武家の男として大事なこと、多少怪我をしてもかまわないから手加減なしでやれ、と城主から言われれば面倒くさくとも断ることも出来ない。
「行くぞ、佐助ー!」
「はいはーい、若様ー真正面から来ないー、丸わかりでしょー」
「真正面でもそれがしが強ければいいのだ!」
「あー、うん。そうねー」
人の気も知らずになんとまあ無邪気なことで、と佐助は気抜けせずにはいられない。突進してくる弁丸をかわして樫木棒を払い向きなおせうっすら残る雪に転んだ若様の姿。彼はむくっと起き上がって、まだまだ! と言うとまた突進してくる。確かにこの負けん気、闘志はこの乱世には重要だ。とはいえ、本当に大怪我をさせてはことだ。相手の実力に合わせ疲れ果てるよう動くのも案外重労働だ。
四半時ばかり、相手をしていたであろうか。二月だということも忘れる程汗だくの弁丸の動きがはたと止まる。
「?」
「はい、若様隙ありー」
ごちんっ! と小気味良い音が響く。佐助の樫木棒が弁丸の額を突いたのだ。
「あだっ!! 卑怯だぞ! 佐助!」
「余所見をするほうが悪いでしょ。戦場だったら首を取られてるよ」
「しかしが」
「知ってるよ、でも目の前の敵を忘れちゃダメ。若様、罰としてその棒をちゃんとしまうこと」
「なぬっ」
「はい、行くー」
次は負けぬー! と弁丸は二本の樫木棒を抱えて走っていく。やれやれ、と独り言ちながら、ひょいと木の上に上り見渡すと薄桃色に梅と桜の模様の間着を着た姫君の姿があった。どうやらてまりを追いかけていくうちに庭の敷石に躓いて転んでしまったようだ。
あーん……あーん……ぁー……
御付の侍女たちは何をしてるんだ、と見れば上役らしい他の侍女に何やら言われている。姫君の泣き声が耳に入らぬ程ガミガミ怒鳴られているらしいそれに人間関係の煩わしさを否応なしに感じながら、俺様しかいないか、と呟いて佐助はサッと身を移す。が転がしてしまったであろうてまりを手にして、驚かさないように風をふわりと舞わせて彼女の前に屈んだ。
「あらら、また転んじゃったの?」
「さすけぇ……っ」
涙でぐしゃぐしゃのは、佐助の顔を見ると安心したように両手を差し出してくる。
「痛かったねー、お薬塗ってあげるからね」
抱えあげてそう言うとはますます泣いてしまった。しがみ付く腕が小さくて心がむず痒くなる。
「はいはい、泣かないで。可愛いお顔が台無し。御方様のところへ連れて行ってあげようか?」
「うん」
「はい、てまり持っててね」
「さすけ」
「なーに?」
「だいすき」
それは裏表なんて知らない言葉。無垢な不意打ちに佐助は目を丸くする。ぎゅっと首に回されている彼女の手が暖かい。それにまたキュンとするのは事実だった。
「俺様もだよ、お姫様」
ダメだねぇ俺様忍びなのに。これから命懸けの人生なのに。手はいつも赤く染まるのに。こんな幼子の一言でこうも険が取れるようでは実戦に出ている同期達に遅れを取るではないか。そう戒めながら歩を進める。
「さすけ、母上のお部屋はあっちよ?」
「んーちょっと寄り道。我慢できる?」
「うん」
一応、説教しておかねばなるまい。曲者があったらどうするつもりなのか。それに何も知らないが転んで佐助が助けてくれた、だけを御方様に伝えたら上役の侍女がまた下を叱りつける悪循環になるやもしれない。嗚呼俺様ってなんて気配りの出来る良い忍び。
自画自賛をしながら、近づけば耳に入るのは口喧しい説教の羅列だ。どうやら朝の御膳の出し方が宜しくないというお叱りらしい。
「ちょっと」
「佐助殿」
「姫様についてる間はお説教勘弁してよ。姫様から目を離すことになるでしょ」
その声に上役も御付の侍女もはっとして佐助を向く。彼の腕に抱かれたを見て御付の侍女は心持ち顔色を変えて駆け寄ってくる。
「姫様、お怪我を」
「転んじゃったの」
「まあ」
「でもさすけが抱っこしてくれたの」
「左様にございましたか、姫様申し訳ございませぬ」
「怒られてたの?」
侍女は困った顔をし、後ろの上役も微妙な顔をした。女二人の間に微妙な空気が流れてゆくが、は何も知らぬが故に首をかしげ愛らしい声で言うのだ。
「怒られるととっても怖いのよ、だから怒らないであげて」
「まぁ」
「姫様ったら」
途端、陰鬱な雰囲気は霧散して女達の目尻は下がる。やれやれ、幼子ってのはほんと。矛を収めざるを得ないじゃないか、と佐助をを抱えなおした。
「いいえ、姫様。怒られるということは必要なことなのです。同じ失敗をせぬように教えて頂いていただけのことですから怖くはありませんよ」
「そうなの?」
「ええ」
「ですけど確かに、後で言えばよいことでございました。姫様を一人にしてしまい申し訳ございませぬ」
侍女らが互いにそう言うとはますます首を傾げている。
「さあ、御方様のところへ行こうか? あ、薬持って来てもらっていい?」
「勿論にございます」
「母上っ母上のところっ」
きゃっきゃと声を弾ませるに、もうあんまり痛くないんじゃないか、なんて思いながら幼子特有の甘いにおいに、佐助もまた目尻を下げるのだった。
- continue -
2012-04-21
10,000hit リク、ふみさまご依頼の『戦国【雁の聲】 ありのままに明るい夢主と幸村の話』です。
リクよりほぼ9ヶ月…orz ふみさま、大変お待たせ致しました。お待たせした分楽しんでお読み頂ければ嬉しいです。
過去リクのところにも書いておりましたが、リク番号04~09までは連作になる予定で幼少期⇒武田滅亡後までを書いていきたいと思います。
10も09後のお話になるかもしれません。