若木萌ゆ(一)

 あれから数年、真田昌幸はあっけなくこの世を去った。とある戦で殿(しんがり)を買って出ての名誉の討ち死に。僅かな手勢で数々の大軍を打ち破り、時として表裏比興の者、謀将、知将、と謳われた男の余りにも早い死だった。比翼連理とはよく言ったもので、夫を亡くした山手殿は気落ちして寝込み、見る見るうちに弱って後を追うように没した。
 あとに残された一男一女、兄の弁丸君は元服し幸村と名を変え、若年ながら立派に父の名跡を守り、主家たる武田家の本拠躑躅ヶ崎館と上田の行き来に忙しい。父昌幸がが亡くなった当初はその死故に主君への蟠りがあったようだが、今ではそれを乗り越えて強固な主従関係を築きつつある。
 一方、妹の姫もまた、主君武田信玄の正室三条の方に可愛がられて、幸村に同伴し躑躅ヶ崎館に上がることが多くなった。元々、亡き山手殿と三条の方は同郷で家格も同じ公卿の出、それだけに残された子等が不憫でならなかったようだ。日に日に山手殿に似てくるの様子を眺めながら陰で涙する三条の方の姿を佐助は何度か見たことがある。信玄公と三条の方の間には子が多くおり、姫たちは母親同様にあれこれとの世話を焼き、末の姫に至っては妹が出来たと大喜びの猫可愛がりぶりで、お陰で親を無くした寂しさを軽減することが出来ているようだった。

 日に日に成長する幸村と。それに奮起するように佐助の技にもますます磨きがかかり唯一敵わなかった里の長も負けを認めるようになった。”慢心は足元を掬う。”年を重ねる度に飄々とする度合いが強くなった佐助だがそれだけは強く心に戒めて職務をこなし、近頃では蒼天と呼ばれるようになり更に名が売れ始めた。当然、身内には頼られ商売敵には恨まれ、彼もまたせわしない毎日を送っている。
 簪を贈るというとの約束、徒に時は流れたまま未だ選びきれずにいた。任務の行き帰りや城下などでどれともなく目について選定するのだが躊躇いが其処にあってどうしても入手に至らない。いくら美しくとも遊女や下位の者が着飾る為の装飾品をあの姫に贈るなどとんでもないこと。近年勢力を持つ第六天魔王織田信長の妻が美しい装飾で髪を飾っているなどと耳にするが何を考えているのかとさえ思うのだ。
 結果、簪の代わりいつも出先で見つけた珍しい菓子を持ち帰るようになった。最近は幸村がそれを楽しみにしているようで佐助が戻ると甘味は何処だ、と聞くようになっている。甘党になったら俺様のせいかもしれない……、と一人佐助が憂いているのを誰も知らない。
 自身はそれに口を挟むことなく何も言わずに笑顔でいつも受け取っている。気づいているのか、最近、少しずつ真田家の奥事を見るようになった彼女が幸村に内緒で佐助の出張経費を上乗せするようになり、その采配に歓喜する毎日だ。

 とまあ非常によく出来た姫だが、佐助らの頭を悩ますことが一つある。数年前に行った城下巡り、あれが大層気に入ったのか幸村や佐助に内緒で行くようになってしまったのだ。尤も、最初は彼女も報告していたし幸村も許可をしていたのだが、年頃になるにつれの身を案じた幸村がだんだん渋るようになったが故であるのだが。
 其のうち幸村が折れて、出掛けの際には御付の侍女と護衛の忍びをつけ半ば黙認していたが、ある日あろうことか信玄公の末の姫と二人で城下に下りてしまった。幸い何事もなく見つかったからよいものの、流石の信玄公も肝を冷やしたらしく二人を呼び出し説教をする事態にまでなった。信玄公や家臣の前に座らされた姫と、どうするのかと皆が固唾を呑んで見守っていると、二人は健気にも互いを庇い合うではないか。その姿に信玄公は若干怯みつつ、何故城下に下りたのかと問うた。すると、父上の、お館様のお誕生日が近いから御好きなものを選んで差し上げようと思って……などと口々に言い、然しもの甲斐の虎もあっさり撃沈してしまったのだから目の当てようもない。あっけに取られる信玄公に家臣の一人が、お館様、と声を掛けると、ああうん、いいんじゃないかな? と普段の口調は何処へやら、威厳も何も取り払った返答が返ってきた。こんな甲斐の虎を見るのは後にも先にもないと思えば貴重なものが見れたと思う。
 この姫たちの冒険譚、後に知ったが裏で意図を引いていたのは誰あろう三条の方。あれ? どっかでみた構図だな、と思ったが口には出さないのが佐助で、幸村もまた思い当たる節があるようで顔を逸らすのが滑稽だった。
 この件以降、いやそれ以前からだったのだが、輪をかけて信玄公は兎角二人に甘くなった。年若い佐助には当初分からなかったが、”娘”というものは悉く父性を突くものであるらしい。
 ああ、俺様も父性を突かれてるのかも……、母性じゃないからまあいいか。などと今日も天井裏で思い返す佐助だった。

「佐助」
「はいはーい、なーに姫」
 心に描いた人の声が耳を撫でると、天井裏から頭だけを覗かせて飄々と応じた。たまに大胆なことをするけれど、気立て良くそして可愛らしく成長した姫の姿に佐助は内心満足げに頷いた。もう数年もすれば引く手数多になるに違いない。俺様の子育て大成功、そう自負している。
 佐助の心内など知らぬは眉尻を下げて少し困ったような、そして戸惑ったような色を顔に浮かばせて小さく問うてきた。
「此処のところ忙しそうね」
「うん、ちょっとねぇ」
「城の中もみんな慌しくしている気がするわ」
「ああ……」
「何かあるのね?」
「うんー。まぁ黙っててもわかることだから言うけど、旦那、初陣だってさ」
「あ……」
 ”初陣”その単語に恐れを滲ませ一層物憂げな表情になってしまった気がして、佐助は努めて軽く続けた。
「あらら、旦那やっぱり言ってなかったんだ」
「ええ、聞いてないわ」
「意地悪じゃないよ? きっと心配すると思ったから言えなかったんだよ」
「佐助こそ」
「ん?」
「佐助こそ心配しすぎだわ。兄様のことだもの、そのくらい分かります」
「そっか」
「……元服なさったのだし覚悟はしていたけれどやっぱり怖いわ」
「大丈夫! 俺様がしっかりお仕事して守るからね」
「佐助にだって怪我して欲しくないわ」
「んふふーあーんがと」
 少しだけ花唇に笑みが戻ったのをみると佐助の目論見は功を奏したようだ。憂い顔などこの姫にさせたくはない。 は手にしていた色とりどりの糸を漆塗りの手箱の中に納めて小さく息を吐いた。
「何かして差し上げたいのだけど……武芸の嗜みもない私が触れたようなものでは験担ぎにもならないわ」
「そんなことないと思うよ。まあ月並みだけど笑っていってらっしゃいしてあげるのが一番旦那のためになるよ」
 弁丸が元服し幸村と名乗るようになってから、佐助は”若様”を封印した。変わりに”旦那”と呼ぶようになった。幸村は上田城の城主で真田の家を背負う身であり、もう気楽な童ではないのだから。何故”旦那”なのかは佐助以外誰も知らない。だが幸村はそれで良いようだった。
「旦那も俺様もすぐに戻るから姫ちゃんは心穏やかに待っていてくれればいいんだよ。心配を顔に出すとあの人気負うでしょ」
「――ええ、そうね」
「今回は上杉とやる訳じゃないしね、激戦にはならないと思うから」
 が素直に頷くのを見て取ると佐助も笑む。だがすぐに冷たい風を感じて庭先を横目でちらりと見た。派手な佐助とは対照的な装束を身に着け物静かに佇む男、霧隠才蔵だ。
「長」
「何?」
「準備が出来次第早々にと」
「はぁー、人遣い荒いんだから」
「兄様がご無理を?」
 大げさに溜息を付く佐助の顔をは覗き見る。手毬に草花で彩る文様の美しい打掛が彼女に良く似合っていた。数年前までは手まり片手に無邪気に遊んでいた彼女も今では文様として着こなせるようになるのだから月日の流れというものには驚かされる。
「んーん、多分違う。大将経由だと思うよ」
「偵察に行くの?」
「うん」
「戦うのもお仕事だけど、戦の前のが俺様たちは忙しいからね。才蔵も俺様とは別口に偵察に発つよ」
「才蔵も?」
「左様です。姫」
「そう……二人共気をつけてね」
「勿論」
「御意」
「必要なものはある? 遠出なら物入りでしょう?」
「そだねぇ、用意してくれると助かるな。今回は相手の金回りが気になるから上方商人にでも化けるかも」
「分かりました。銅銭は多めに用意させます。金子も必要かしら」
「金だと目立ち過ぎるかな。甲州金だと警戒されるし。銀を少し」
「但馬の銀でいいかしら」
「京あたりの商人に化けるにはちょうどいいね」
「言葉は大丈夫?」
「俺様を誰だと思ってるの? 猿飛佐助だよ?」
「そうでした」
「京言葉はここで慣れ親しんでるから大丈夫」
 は頷き、才蔵は? と問うた。彼は言葉少なに自分は要らないと返した。確かに彼の任務には必要以上の金銭は必要ない。には伏せたが彼の任務は偵察ではなく武田を裏切り上杉に身を売った武将の暗殺だった。命じたのは甲斐の虎ではない、武田家重鎮の一人だ。
 真田譜代に持ってこられたこの話に皆々円を囲んで話し合った。心情を申せば、本来幸村以外の命など受ける気もない。家臣も佐助らも真田家から禄を食んでいる。だがそれ故に受けねばならぬ依頼でもあった。真田は武田家中では新参だ。武田譜代と違い、昌幸亡き後真田家が重臣でいる為にはそれ相応の働きをしておかねばならない。代替わりしたからといって、当主が若年だからといってに功を果たさずにその地位に在るほど甘くはない。代替わりして家臣の序列が変わることなど捨てるほどあるのだから。
 暗殺の任など昌幸が生きていれば彼は迷わず受けただろうし、佐助には彼が没することになった殿に名乗りを挙げたのも新参の真田が、跡を継ぐ幸村が、辛酸を舐めぬ為の親心であったように思えてならない。
 知ればあの真っ直ぐな主君は激昂するかもしれない。だがこれは信玄公と重臣のいうなれば配慮だ。今は分からなくていい、いつか割り切れる将になってくれればそれでいいのだ。信玄公とその周りもきっとそう思っているに違いない。
「佐助?」
「ああ、ごめん。必要なもの他にないか考えてた」
 才蔵は何も言わない。気取ってはいるだろう。
「大事の戦にならない為のお仕事だからさ念には念をってね。俺様たちの働き次第で激突する前に勝敗が決まることもあるし頑張っちゃうの!」
「ええ、知っているわ。だからこそ二人共無理はしないでね?」
「優しいなぁ俺様涙が出ちゃう。あ、姫には十蔵を付けるからね。身の回りの心配はしてないけど外にはくれぐれも出ないように!」
「留守を預かる身で出かけたりしません!」
「本当にー?」
「本当ですっ!」

 才蔵はからかう佐助とむきになって言い返すを見ていたが、ふと何か気付いたように空に目を遣った。晴れ間の遠くに陰る色と少しばかり漂う雨の匂いに、ああ、嵐がくるなと独り言ちた。

- continue -

2012-07-07

10,000hit企画、夜子さまリクエストの『戦国【雁の聲】 夢主と佐助の話』です。夜子様長らくお待たせ致しました!
史実大量無視で両親いきなりの退場と、前二作に比べますとほのぼの路線からは外れてしまいますが、楽しんでいただければ幸いです。