季節は再び巡り、庭先は爪紅や凌霄花がその美しさを湛えて城内の者の目を楽しませている。乱れに乱れた世であるのに此処奥州伊達氏の居城はゆっくりと穏やかに時を刻み、人も花もその心地良さを享受していた。
国主伊達政宗が甲斐信濃を手に入れたのは二年程前の菖蒲や橘の咲く頃だった。命を掛して刃を交えるに相応しいと思った好敵手より託された花はこの二年の間に咲きかけた蕾から匂い立つばかりの美しさとなったが、初々しさは未だ消えず、その均衡が政宗の心を捉えて放さない。もう少し年数を重ねればどれ程の大輪となるだろう、心密かに彼はそう思っている。
菖蒲や橘が咲けば、政宗もその花――も思い出すのは、好敵手であり兄のこと、蟠りはないが心に寄せる切ない想いは時として漣となって押し寄せる。それでも互いが居れば二人はきっと乗り越えて長い生涯を共にするのだろう。
菖蒲や橘の季節、二ヶ月前の五月に政宗はひっそりと真田幸村の法要を行った。三回忌だと言われても彼の心には時に猛々しく、時に知略に富んだ幸村の姿形が色褪せることはない。自分の横で静かに手を合わせた妻もきっとそうなのだ。
「隙だらけ」
「やめとけ、小十郎が髪振り乱して来るぞ」
「あれ怖すぎなんだけど」
背後に立った気配に政宗は格段驚きもせずそう言った。政務を終えて緋色に想いを馳せながら手に取っていた刀と打粉を静かに置き、それからそれぞれを在るべき場所へ収める。刀は鞘へ、打粉は近自習が持ってきた広蓋へ。その様子に忍びの方は呆れ返って肩を竦めた。
「で、にはもう会ったか?」
「うん。ますます綺麗になっちゃってまー俺様嬉しいやら悲しいやらだよ。――おーっと続きは言わなくていいからね。俺様がヘコむ系のは勘弁」
忍びは大げさに言って見せて重力を感じさせない所作で政宗の前に立つ。政宗が、まあ座れよ、と言うと彼は、俺様たちそんなに仲良かったっけ、と軽口を叩いて胡坐をかいた。
「Ha! 分かってんじゃねーか」
政宗もまた軽口を返し道具類を一つずつ近自習へと下げる。気安いような、しかしなんとなく油断がならないような、二人の間にはそんな空気が流れている。猿飛佐助がこの様に奥州を訪れるのは珍しいことではない。彼の登場を昨今では近自習も驚かなくなった。だが、背景が背景だけに客として茶でも出して持て成すかと言われればそれこそ対処に困るものがある。
「で、越後の様子はどうだ」
「それを俺様が喋る訳ないでしょー」
「俺の意図が汲めねえか? 存外気が利かねえな」
「んふー! 褪紅の人のことでしょー?」
「ふん」
「――元気だよ。尼姿は、相変わらず寂しいもんだけどね」
「そうか」
褪紅の人、それは亡き信玄公の末の姫のことだ。そして自らの手で葬った好敵手が二世を誓った相手である。妻と姉妹のように親しくあったとも知れば其れなりの罪悪感とその身の上を気にするようにもなったが、流石に名を口にしてはあらぬところから政宗が亡き虎の姫を妻にと狙っているなどとつまらぬ流言を流されては堪らない。故にそれとなくそう呼ぶようになった。褪紅は薄桃色、桃は甲斐の名産だ。薄桃と呼ばず褪紅としたのはその尼姿の寂しさからだった。
「おい」
「はっ」
「奥の間に仕舞ってるあれ持って来い」
「と、殿……」
「持ってきな」
「は、ははっ」
近自習の中でも一番永く仕える少年にそう指示すると彼は微妙な表情と言いあぐねて政宗を見たが、再度言い付けると主君の気質を心得た彼は足早に政宗らの前から下がる。佐助は佐助で怪訝に思ったがそれをわざわざ表情に出してやる気もなかった。
「織田豊臣はどうだ」
「織田の旗色が悪くなってきてるね」
「だろうな」
「今はゆっくり、だけど一度転がれば落ちるのは早いよ」
「その転落もすぐ其処か」
それはまるで二年前の甲斐ではなかったか。殊更淡々と言葉を放り合う二人に残りの近自習たちは各々汗を掻いたが、聊か乱雑に迫る足音にほっと息を吐いた。足早に迫るのは竜の右目である。
「政宗様っ!!」
「おう」
「猿飛! てめえ俺がいねえ間に顔を出すたあ分かってんだろうな!」
「どーも。相変わらず苦労性だねえ右目の旦那は」
「誰のせいだ」
「竜の旦那じゃない?」
「てめえ」
「まあ止せよ、言わせときな」
「はっ……」
主君である政宗に制されればいかに猿飛佐助が油断ならぬ男であっても小十郎は手出しはしない。諫言はするが出しゃばらない、何年経っても片倉小十郎のその姿勢は変わらないのだ。
小十郎が政宗と佐助の間に座して、庭の百日紅が一度風にたなびけば退出時と同じ跫音立てた近自習が丁寧に布に包まれた長物を手に戻ってくる。彼は小十郎に少しだけ驚きながらそっと政宗の前に長物を差し出し、深く一礼した。
「猿」
「うん?」
「そいつを褪紅殿に渡してくれ」
「ま、政宗様っ!」
「野暮言うなよ小十郎」
「いいえこの小十郎、こればかりは引き下がれませぬ!」
食い下がる小十郎とは対照的に、佐助は長物を包む布をそっと払う。其処から現れたのは見間違いようもない懐かしいものだった。それは見間違うはずのない鮮烈な紅。
「旦那の……っ」
「ああ」
其処に鎮座していたは佐助の亡き主君の手にあった朱槍であった。相当丹念に手入れをされた形跡が見て取れ、柄に多少の傷はあったが美しい装飾は在りし日のままだ。初めて拝領した日の高潮した頬、これを握り戦場を駆けた日々、幸村は佐助をやきもきとさせながらも天性の才で武勲を挙げ、奮う姿は敵味方双方の目に焼きついたものだ。
「最初はに持たせておこうと思った。だがあの当時命を絶ちかねねえアイツの目に触れさせることも出来なくてな。頃合を見てとずっと俺が持っていた。だが今のはこれがなくても立っていける。だがそっちの姫御前はどうかと思ってな」
「どうだろうね」
正直、佐助はその答えを持ち合わせてはいない。穏やかに暮らしながら総てを諦念したようにも、達観したようにも見える亡き主君の愛しい人。心情を察するにはあまりあり、佐助自身少しずつ目を逸らしていた自覚があった。
「政宗様、水をさすは重々承知の上で申し上げます。このようなもの、俗世を離れられた尼君には酷な代物。それだけではありません。送りつけられた尼君が万が一にも、これで殺せるものなら殺してみろと受け取られたら如何なさいます! それこそ姫御を羅刹の道へと突き落とすものとなりましょう」
「幸村の愛した女ってのは、そんなつまんねえ女か?」
小十郎の説得にも政宗は口調も変えず冷静だった。その言葉が思考に耽る佐助の脳を叩き起こすようで、彼は一瞬目を閉じて見開くと心持ち低い声になって問う。
「今俺様に渡して、返す刀であんたを突くとか思わない訳?」
「思わねえな」
「――ちぇ、俺様が姫可愛さに刃を収めると高括っちゃって」
「それだけじゃねえだろ」
「え?」
「アンタの中にある幸村への忠義がそれを許すか?」
「あーやだやだ。面白くない」
「まあ、アンタの言うとおり所詮俺らは仲良し小好しの間柄じゃないわな」
佐助が大げさに首を振って溜息をついて見せれば、政宗もまた横にある文机の墨を磨り完全に彼から視線を外している。その周囲で小十郎と近自習の空気だけがピンと張る奇妙な光景が広がる。若干小十郎らが気の毒になった佐助が、さて、と言い立ち上がった。ああなんで俺様此処でまで気を使ってんだろ、なんて考えながら朱槍を抱える。
「じゃあ預かるよ。またね、竜の旦那に右目の旦那」
「おう」
「褪紅の人はきっと喜ぶと思う」
「そうか」
佐助はそのまま後ろを向いたかと思えばすぐさま沸き起こる黒い靄の中消えた。神出鬼没な彼の姿が見えなくなると近自習はほうと息を吐き政宗に、そんなんじゃ心臓が持たねえぞ、と窘められるのだった。
九月、瓔珞草がその小さな花冠を可憐に花開かせる頃、ほんの少しだけ北国特有の寒さが足先を覗かせていた。二ヶ月もすれば白銀の世界が広がることだろう。
は頬にその足音を感じながら夏より二月ぶりに訪れた猿飛佐助の話を思い出していた。それは驚きと、強く心を突くものであった。
二月前、佐助の手を介して、夫政宗から越後に暮らす信玄公の末の姫へ、兄幸村の形見の朱槍を贈られたのだという。自分があの槍を見たのは何時のことだったろうか。嗚呼そう、あれは兄の傍で墓標のように突き立てられていたあの時だ。以来、漠然とあれが何処にあるのか気になったことは何度かある。ただ自身にとってあればあまりにも凄惨な光景にしかならずそれ以上追求する気概を持てなかった。
佐助は言った。ニ槍はとても丹念に手入れされて汚れ一つなかったと。誰が手入れしたかなどと考える必要はない。きっと夫自身なのだ。
姫は佐助から槍を受け取ると懐かしそうに槍を撫でていたという。愛する幸村の手の中に最後まであった槍を愛おしそうに。そうしてこう言った。
『ずるいわ、貴方はずっとあの人の手の中に居たんだもの。それから永く旅に出ていたのね? これからは私の傍に居てね、ねぇ……?』
それから長持から緋色の打掛を出してある句を口ずさんだそうだ。
――五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
流石の佐助も、これには堪らなかったとポツリと漏らしていた。其処まで糸を繋げばの目頭も否応なく熱を帯びる。あの御方はこれからもずっとあの思い出の中で暮らして行かれるのだろうか。ただ御一人、支える手もなく、まして仇の腕の中に居る我が身をお責めにもならず。
「、どうした?」
「あ、お戻りなさりませ」
「ああ」
昼までの政務を終えた政宗が戻って来ていた。広縁に立つ妻のほんの少しだけ滴に濡れる眸を彼は心配げに見て、は目に塵が、と平凡に返した。彼はそれ以上追及せず、冷えるぞ、と手を取り中へと誘う。
何時ものように近くに座して菓子の入った箱を差し出す。今日は落雁だったか。茶は喜多らがすぐにでも用意するだろう。今日の政務は退屈なものであったらしく彼は珍しく欠伸をして、聊か無造作に落雁を頬張った。
政宗は政務のことはあまり話さない。特に甲斐のことは一言も。甲斐や真田旧領への配慮も数ヶ月たって人伝にの耳に入り、そうだったの? と目を丸くするのが常だ。彼にとっては礼を言われたいと思うことではないのだろうし格段功を誇って妻の耳に入れることもないと心得ているのだろう。それは政宗の大きな美点と言えた。だからもいつも知らない振りをしている。そう、今しがた知った朱槍のことも。
「悪ぃ、暫く膝貸してくれ」
「お疲れ様にございます。どうぞいくらでも」
相当眠いのか政宗はの膝を枕にするとすぐに寝入ってしまった。本当に珍しいこともあるものだと着ていた打掛を脱いで夫に掛けると、ふと、遠くで鳥の鳴き声が耳を突いた。視線の先、円窓からうっすら見える鳥には僅かに目を見開いた。
「雁……」
雁は真田、真田の鳥。あの方は兄に寄り添われることで雁となられるはずだった。今は、嗚呼今は何の皮肉か遥か遠つ人となって雁となられてしまった。
は心に強く想い願う。
――姫様、其方のお空は奥州と同じ綺麗なお空にございますか。空の美しさは甲斐も上田も奥州も越後も、きっと同じだと思うのです。いつか、この身が朽ちて一羽の雁となったなら一番に貴方様の御姿を見に行こうと思うのです。
だからそれまで、どうかご息災で――
頬にまで伝う滴を堪えようと右袖でそっと拭えば、夫に添えた左手を覆う力強さを感じる。眸を閉じたまま何も言葉を発せぬ政宗の手は温かく、彼の心遣いはの心をまた一層突いて泪は益々流れるのだ。
万感交到るの耳に、雁の聲は暫く聞こえ続けた。
- end -
2013-06-15
50,000hitリク、rikaさまリクエスト「戦国【雁の聲】 夢主と政宗の気持ちが通じ合った頃で甘切な話」です。
rikaさま大変長らくお待たせ致しました。ちゃんとご指定どおりの話になっていたでしょうか?
優しい言葉を掛けるだけが理解ある夫ではないと思うのです。死というハードルを乗り越えた夫婦の形がかけていればと思います。
五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする (古今集夏-一三九 読人しらず)
意訳:五月を待って咲く花橘の香りを嗅ぐと、昔親しんだ人(恋人)の袖に焚き込めた香りが思い出される。
遠つ人とは雁の枕詞です。
瓔珞草は江戸初期に、百日紅も江戸初期〜中期に入ってきたものです。