緋に微睡む(一)

 雪が解け、新芽が地を覆うのも一段落した頃、梅や桜はその花弁を散らし花橘や杜若に役目を譲り始めた。長い冬はとうに終わったはずだが未だ肌寒いこの奥州の気候に人々は辟易しながらも逞しく日々の生活に勤しんでいる。
 それは身分如何に関わらず、そうこの国の領主もまたそれは同じであった。彼は此処のところ、僅かに芽生えた懸念の払拭に忙しい。気にするほどではないと言われればそれまでで、偶然ではないと言われればそのような気もする。我ながら瑣末なことだとは思いながら毎度小さく息を吐くのだ。
 国主伊達政宗の懸念、それは輓近の夢見の悪さ、であった。
 否、悪いというのは語弊があるかもしれない。ただ見る夢によく同じ人物が顔を出すのだ。最初は気にも留めなかったが回数が重なればそれなりに気に掛かるもの。ましてそれが愛する伴侶の縁者ともなれば無関心という訳にもいかない。
 そう、政宗が見る夢に何度となくあの真田幸村が現れるのだ。
 夢の内容は様々だ。川中島で初めて相対し刃を交えた夢であったり、信玄公の見守る道場の中での手合わせであったり。時に、幸村とが談笑する夢であったりもした。刃を交える夢を見るときは不思議と幸村が死んだことを忘れていて、心躍る刃の音とと共に思う様心ゆくまで鍔迫り合うのだが、幸村とが連れ立っている夢を見るときには、彼が不帰の客となっていることを覚えていて、二人が穏やかに仲良く喋る姿を遠めに眺めながら、其れなりの後ろめたさに襲われて目を覚ますのだ。
 夢境から舞い戻れば横ではが安らかな寝息を立てて寄り添い、夢と現実を否応なく認識する。まどろむを抱きしめて思う。今ある温かさが自分の現実であるのだと。

「幸村は成仏してねえんだろうか」
 甲斐領内の情勢の報告受けたところで政務を終え、数冊の帳簿を近自習に手渡していた小十郎はその言葉にぎょっとした。
「政宗様」
「法要その他それなりにやってるつもりなんだがなァ。いや、そもそもあいつからしたらそりゃこっちの都合なんだろうがな」
「ま、政宗様一体如何なさったのです」
 らしくない言動、らしくない独り言は小十郎に冷や汗を掻かせるには十分だった。真田幸村、彼は政宗にも小十郎にも未だ大きな影響のある武将といって良い。其れゆえに政宗の呟きは看過出来ないものだった。
「Ah――悪ぃ、最近幸村の夢見んだよ。頻繁にな」
「頻繁に、でございますか? それでしたら加持祈祷の類でもさせましょうか。気休めとお笑いになられるかもしれませんが」
「神や仏なんて信じちゃいねえがに何かあっちゃたまんねえ。前にな虎哉和尚の弟子がきな臭えこと言いやがってな」
「なんと?」
「死者は夢より出でて大切なものをしばしば連れて行こうとする、ってな」
「また下らぬことを。真田が姫様をそのようなものに引き擦るはずがありません」
「と思う。幸村がを害すなんて想像がつかねえし、そもそも人なんてものは死んだらそれで終わりだ」
 其処まで言って政宗はフンと鼻を鳴らした。
「亡霊だの迷い出るだの俺らしくねえこと言ったな。俺もそれなりにキテるってことか」
「もし仮も仮に、真田が魑魅魍魎となったなら一番に連れ去るのは姫様ではなく褪紅の御方かと心得ます」
「確かにな」
「そんな夢をご覧になられるのはお疲れと、姫様への負い目と呵責があるからではございませんか」
「Hum?」
「愛おしさ故に気をやんでおられるのではと」
「俺はそんなにやわじゃねえよ。がどんなに泣いても政とは別儀だ。それはも心得ている。小十郎、今言ったことは忘れろ。誰の耳にも入れんなよ」
「心得まして」
 それから帳簿を捲り始める主君に頭を垂れたもののどこか気鬱な様子が気に掛かり、小十郎は今日は宿直したほうがよいかも知れぬ、と人知れず思うのだった。

 尤も信頼する側近への安心感からか、我ながら雲を掴むような迷い言を口にしたものだと渡廊を進みながら自省する。普段通りにしていなければあの妻は些細な機微にもすぐ気付くだろう。
 ふと思い立って摘んだ菖蒲を手にの居室へと向かえば、今朝ぶりの彼女は期待以上の笑顔で政宗を迎えた。差し出した小さな花にも嬉しそうに手を添えて、柔らかく曲線を描く目許が愛おしい。全く人とは変わるもの、政宗はこの笑顔が欲しくて仕方がないのだ。
 彼女の花唇が礼と執務の労いを述べると、さあこちらに、と白磁の手は政宗の手を引く。たまに見せる子供のようなそれに政宗もまた頬が緩む。婚姻を結び三年目、やっと彼女の素らしき行動を見るようになった。一年前であれば彼女はそんなことはせず、しずしずと政宗の後ろを歩くばかりだった。政宗はあえて口にしない。言えばきっと彼女は赤面して二度としなくなるであろうから。これは彼の密かなる楽しみなのだ。
 二人が座すと政宗は眼帯を外し、彼女は蒔絵の盆でそれを受け取る。顧みれば政宗自身も変わったものだと痛感する。自分こそ眼帯を外しこそすれ数は多くなかった。恐らく夫婦というのはこうして垣根を取り払って年を重ねていくのだろう。
「政宗様、今年もご法要の件、ありがとうございました」
「礼を言われるほどでもないさ。おまえの気掛かりが少しでも減るといいんだがな」
「勿体のうございます」
 嫋やかに頭を垂れる彼女に政宗はそう返した。つい先日、一周忌や三回忌程のことではないが、僧を呼んで真田と武田の法要をしたのだ。
 戦国の時代、慰霊というのは盛んだった。滅亡した家の亡者が敵方を恨み呪う、といった事が一般的に信じられ凶事があればしばしば結び付けられた。無論信じない者もいたが、目に見えぬ恐怖と言うのは混乱を招くものである。それが遺体の処理を怠り疫病でも蔓延すればそれこそ大事だ。気の弱い領民らが、今回の殿様は敵の遺体をを討ち捨てるばかりで弔いもしない、ありゃあ家が呪われるぞ、などと言い始めれば噂は尾ひれがついて広まり、徴兵や求心力に影響することもあった。故に戦後処理、弔いというのは勝者には欠かせぬ大切な仕事なのだ。
 無論、政宗にとってはこの弔いは事務的なものだけというわけではない。政宗自身にも幸村を悼む心は確かにあるのだ。
「もう、三年にございますか……」
「そうだな。今の時期、辛いだろう」
「いいえ、郷愁は確かにございますが、政宗様がいてくださいますもの」
「可愛いことを言う」
 は少しだけ瞼を伏せ、それから穏やかに笑んだ。憂いとは違う別の何かに、どうした? と政宗が問うと彼女は言いづらそうにぽつりぽつりと話し出した。
「実は……、三年も経ちますのには兄の夢を一度も見たことがないのです。薄情なのでしょうか」
「――」
 少しだけ衝撃を受けた。自分とあまりにも真逆だったからだ。なんと返そうかと思った矢先、明朗な声が政宗の耳を突く。喜多だ。
「まあ、姫様、それならば喜多は聞いたことがございますよ。亡くなった方が夢に出るのは心残りがあるからなのですって。姫様の夢にお出にならぬということは、今の姫様の現状にとても満足されているということなのではありませんか? お気になさらずとも宜しゅうございますよ」
「そうなの? そうだと嬉しいわ。ええ、きっとそうね」
「そうでございますとも、ねえ、政宗様」
「ああ」
 喜多の回答がさらに政宗に驚きをもたらした。相槌を打ちながら政宗は難しく想を練る。ならば幸村は政宗の今の在り様に不満があるということなのだ。冷静に考えれば幸村を討ち果たしたのは自分なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。
 さてどうしたものかと政宗は内心首を捻った。法要もしているし甲斐信濃には公平な統治もしている。それでも満足しない、自分の命を寄越せと言われても死んでやる気はさらさらない。
「Hum...」
 思案に暮れる夫にが首を傾げるのにも気付かず政宗は暫く唸るのだった。

 ――その日もまた夢を見た。あれは長篠であったか、銃弾の中を掻い潜る幸村が居た。

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2013-08-03

100,000hitリク、ゆいさまリクエスト「戦国【雁の聲】 幸村が夢にでてくる話」です。
ゆいさま大変長らくお待たせ致しました。今回は筆頭視点でのお話でございます。
文中に出てくる「故人が夢に出てこないのはその現状に満足しているからだ」というのは実際に菩提寺のお坊さんから聞いたお話です。
幸村が夢に、というお題にすぐそのお話が思い浮かび書き上げてみました。2話ほどの短いお話ではありますが楽しんでいただければ幸いです。