緋に微睡む(二)

 長篠を駆る幸村の夢をみて数日経った。何もあんな会話をした後に駄目押しのように出てこなくてもいいだろう、と内心悪態をついてみたものの何かが変わる訳ではない。建設的に物事を進めようと政宗は息を吐く。彼はこういうときは何か別のことをしたほうがいいと経験から知っている。
 小十郎、綱元、元信の努力によってここ数日の政務は格段に早く終わり、ともなれば鬱積した憂慮を払拭すべく身体を動かすのが一番の解決法といえた。真剣でなくとも一振り振れば舞う風とピンと張る空気が好ましい。鍛錬場に佇みながら政宗は思う。為政者の面を被ろうと、自分の本質は何処まで行っても一人の武士(もののふ)。猛る血は戦場にてさらに踊るのだ。
「さあ! Come on!」
 久々の手合わせに、木刀を握る掌中にも力が入る。まずは全員でかかって来いと指示すれば血気に逸る精鋭達が皆一斉に構える。政宗の実力を知る家臣ら、早く刃を交えたいと木刀の切っ先は揺れるも皆慎重だ。にじり寄る彼らに政宗は口の端を吊り上げた。
「一斉って言ったろ? 来いよ!」
 手招きすれば、いつも一番槍を狙う男が木刀を振り上げ突出してくる。
「いいねいいね!」
 受け止めて薙ぎ払えば次が来る、次が来れば同時に襲い来る数も徐々に増えてくる。徐々に温まる身体と熱気が政宗のみならず配下達を高揚させて行く。となれば早い。政宗の統治下で大人しくしてる彼らだが、元々は皆血の気の多い荒武者が多数を占めるのだから。
 尊敬し忠勤を捧げる我らが筆頭との手合わせ、道場の熱気は内外問わず溢れ出てくるのだ。
「Got it! ……次っ!」
 とはいえ政宗の実力に敵う者など極僅かだ。暫し時が経てば地に顔を這わせてしまう者、勢いのあまり壁に頭を突っ込んでしまう者など負傷者が多数だ。こりゃ薬師がてんてこ舞いだな、と後ろに控える三傑などは各々そう考えた。
「気合入れろよ。俺はまだ一爪しか出してねえぞ!」
 言いながらその一振りは最後の兵を払っていく。手にした木刀で壁に掛けてある数本の木刀を引っ掛け、くいと手繰り寄せると五本の木刀は宙を舞い政宗の周囲に刺さる。
「成実来いっ!」
「俺相手になるといきなり六爪ってどういうことなの!?」
「武の成実にゃ丁度いいだろ」
「やだー!」
「何が嫌なんだよ。そんなんで俺と戦場で相対したらどうすんだ」
「俺が梵と敵対するなんてまずありえないから止めて下さいお願いします」
「Ha!」
 問答無用とばかりに迫る政宗に成実もまた樫木棒を構える。こういう時、はなから成実に拒否権などないのだ。彼は斬り込んでくる政宗の爪を受け止めながら一つ二つと圧し掛かる衝撃をやり過ごして後ろに回りこむ。そうはさせじと振り返る政宗の木刀も水返しで弾いて、石突で一撃入れようとするもそれは拒まれてしまう。再度距離を取り間合いを計る成実に政宗は満足気だ。
「やるじゃねえか、なあ?」
「はいはい」
 言い合って二人は四半時程打ち合ったが、最後は成実の、も、こーさーん、の言葉で幕を閉じた。滴る汗を拭って、それでも政宗はまだ辞めることはない。
「そろそろ来いよ! 小十郎っ」
「御意っ」
「手加減すんなよ! 殺す気で来なけりゃ鍛錬にならねえ!」
「それはまた」
「Ha!」
 小十郎は恐らく異を唱えるだろうから政宗は聞かぬ振りをして一振り打ち込む。回避の難しい間合いで振り下ろしても小十郎はそれを難なく受け止める。剣技にかけて達人の域である小十郎の太刀筋は素早く、そして重い。彼は直ぐに押し返してきて強烈な一撃を放ってくる。政宗は口の端を吊り上げて応戦するのだ。
「筆頭すげぇ……っ」
「片倉様との打ち合いなんて俺なら逃げちまうよ」
「鬼みてぇだ」
「いや筆頭は竜だろ。鬼といやぁ」
「おい」
「あ、」
姫様のお耳にでも入ったら思い出されるかも知れねえだろっ」
 各々打ち身の治療をして貰いながら主君らの打合いを見る兵らは口々にそう言った。だが成実とも小十郎とも刃を交えても政宗にはそれが何か違うものに感じられるのだ。
 煮え切らないのだ。何かが足らない。打ち合いの先にあるあの焦燥――!
 雷撃と共に何度目かに弾いた小十郎の木刀が割れ、皆の耳を劈く。
「其処まで!!」
「Shit...!」
 成実の聊か語気を強めた制止は政宗を窘めるものだろう。裂けた木刀の破片を小十郎に放って政宗は声を張り上げた。
「足らねえぞ! 次は綱元かっ!」
「梵っ」
「政宗様……」
 ――あの高揚、命が擦り切れるようなあの極致!
 其処まで思い至って政宗は、ああ……、と得心した。視線の先に映る家臣一同を見回しながら思い知るのだ。あの感覚を味わわせてくれるのはあの男しかいないのだと。
 木刀を握り締め目を苦々しげに閉じた主君の様子を訝しんで皆が伺うように政宗を見る。中の一人が、筆頭? と声を掛けてきた。
「Sorry, 今日はここまでだ。おめえら、ちゃんと治療してもらえよ」
「は、はいっ」
 近自習の一人に木刀を渡して、小十郎らについて来なくていいぞ、と一言言うと政宗は足早に去った。その後姿を皆首をかしげて眺めていたが、只一人小十郎の視線だけは複雑な想いで御殿へ消えてゆく姿を追うのだった。


 御殿ではいつも通りが笑顔で出迎えた。政宗が言わずとも湯殿の用意はすでに整えられており、それが終わって戻れば、鍛錬の後ではお腹が空きますでしょうと差し出された膳に手をつけた。にこりと笑う彼女と話すと焦燥も渇きもゆっくりと和らいでゆくのだから不思議なものだ。
 その後はこれもまたいつも通りに語らって程よい時間に褥に入る。うつらうつらとする彼女が次に目を覚ます頃には周囲は明るくなっていることだろう。寝入った妻を起こさぬようにそっと退いて、政宗は障子の先に進み出た。
「ざまあねえな」
 しんと静まった月夜にふとそう呟いた。
「手合わせしてえか、真田?」
 政宗は自嘲にも似た心持ちで鼻を鳴らして続けるのだ。
「ふん、真田がそうなのか、俺がそうなのか、所詮夢なんてのは願望だろう。仕合したくて欲求不満は俺でした、か」
 首を振り見上げた先には雲の霽れた月が見えた。
「いつかそっちに行ったらしてやるよ。いや、しようぜ? 真田幸村。そんときゃ止める小十郎もおまえんとこの猿も居るのかね」
 心の赴くまま唇が動けば、ザァッと音がして草木が揺れ、ほのかに甘酸っぱい香りと小さな花弁が舞う。掌に止まる小さなそれはあの季節を十分に感じさせるものだった。
「花橘、か」
 これが咲く頃政宗の好敵手は不帰の人となった。そうしてを託されたのだ。こんな時に手に乗るとはお誂えだ、なんて思いながら政宗の口は遥か昔の歌を詠む。

「うたたねの とこ世をかけ てにほふなり 夢の枕の 軒の橘」

 彼はもう一度鼻を鳴らし、今はもう居ない男に語りかける。
「――手合わせはずっと後だ。だから槍はお前の花にしばし預けておいた。……悪いが誰も当分逝きそうにねえぞ。腹も立つだろうが俺も花を見つけたからな。怒んなよ? この花はお前が俺に渡した花なんだからな」
 そう言って政宗は踵を返し障子を閉めて部屋の奥へと戻ってゆく。庭の花はそれに反応するかのように更にザァと風に揺れて障子越しにも音を響かせた。その音が、貴殿は仕方のない御仁だと、幸村が言うように感じられて高揚とむず痒さが入り混じる。
 褥に戻ればがあどけない寝顔で小さな寝息を立てている。衾に包まれて眠る妻の口に花橘の花びらを一枚乗せてそれをまた自分の唇に当てた。

「風に散る 花たちばなに 袖しめて 我が思ふ妹が 手枕にせん――なんてな」

 そっと身を横たえれば微睡むが身を摺り寄せてきて政宗はそれをしっかりと抱きしめる。鼻腔を擽る柔らかい香りは花橘か、それとも彼女のものか。政宗は確かめるようにを一層掻き抱いて眠りに付くことにしたのだった。

 その日から、政宗はかの男の夢を見なくなった。

- end -

2013-08-10

うたたねの とこ世をかけ てにほふなり 夢の枕の 軒の橘(新続古今279)

意訳:転た寝の床から、遥かな常世の国にまでかけて匂うようだ。夢見る枕辺の、軒先の橘よ
とこ世=床にかかる。

風に散る 花たちばなに 袖しめて 我が思ふ妹が 手枕にせん(千載和歌集)   藤原基俊

意訳:風に散ってゆく橘の花の香りを袖に移して、愛する妻の手枕としよう