暑さも落ち着きの様相を見せ始めた夏の果、は緑陰をわたる風が心地好い中庭を逍遥していた。日中だというのに空を舞う梟を見たことで余程気が弾んでいたのか、何時もより長く歩き、普段は絶対と言っていいほど足を踏み入れることのない政務の場の近くでも禊萩を撫でる姿が見られていた。
それが数刻前、奥州は思いも寄らぬ事態に見舞われていた。まさに青天の霹靂、寝耳に水、当人達の立場で表すならそんな慣用句が相応しいだろう。
奥州筆頭伊達政宗の正室姫が城から忽然と姿を消したのだ。残されたのは腕から血を流し倒れていた傳役喜多に黒脛巾組の数人、そして首を強打され昏倒させられた侍女ら。一目で、穏便に行われたものではないと分かるそれに家中一同心胆を寒からしめ、憤り、焦燥に塗れて、今、城中は荒れていた。
一番激昂の中にいるのは文字通り政宗である。歴戦の兵どもに黒脛巾組という厳重な警備をひく伊達の本城、よもや其処に賊が侵入し城主の正室が攫われるなどとあってはならぬ失態だ。体面等はどうでもいい、を攫った賊の目的も二の次だ。今はの身だけが政宗の最もの懸念だ。
「Kiss my ass!(ふざけるな!)警護の奴らも黒脛巾組も何をしていた!!」
「面目次第もございませぬ、我ら黒脛巾組命を以って償わせていただきとうございます」
の警護にあたっていたのは黒脛巾組の二人の長の片割れ世瀬蔵人の配下であった。世瀬は神妙に平伏するがそれだけで政宗の腹が収まるはずもない。書院に控える者共はの安否と世瀬の首がいつ飛ぶか、皆息を呑んでいる。
世瀬見る政宗の心中は読めず、ピンと張る糸のような緊張が一通り続いた後、政宗は吐く息と共に怒りを霧散させてこう言った。
「……莫迦が、そんな暇があったらを探せ!!」
「はっ」
その言葉に世瀬は立ち上がって辞し近侍らはほっと胸を撫で下ろして主君を見る。憤激も焦りも一向に消える様子のない政宗の表情が心を抉る。ご心痛はいかばかりであろうか、察すれどそれ以上推し量ることなど出来はしないのだ。
「……あいつの首を刎ねたところでが戻る訳じゃねえ。そのくらいの判断はつく」
「政宗様……」
「俺の心情なんてもんはいい。さっさと意見出せ」
「はっ……」
殊更冷静を貫く政宗に一同は心配の追従を控え、今でき得る限りの推測を重ねる。
「本当に、何者でございましょうや」
「姫様は内外関わらず広く知られております。虎の若子の託した姫、独眼竜の掌中の珠……、その言葉だけで織田豊臣は勿論、考えたくはありませんが梟雄に至るまで興味を引く存在であられるのは間違いないかと」
「そして奥州に対する最大の脅迫材料になると認識されていてもおかしくはありますまい」
「Shit...!」
逸らしたくても逸らせぬ指摘に政宗は大きく舌打ちをし、蝙蝠扇を畳へと投げつけた。皆それが分かるからこそ焦るのだ。世瀬蔵人ら黒脛巾組にはそれ以上言わなかったが、もし彼女の髪の一筋でも汚されでもしたら半狂乱になって首謀者は勿論黒脛巾組とて問答無用で罰するだろう。今、政宗をまっすぐ見る小十郎はそうならぬよう釘を刺しているのだ。
下座に控える喜多は畳に額を擦り付けんばかりだ。傷口に巻いた巾からは僅かに、空気に触れて赤黒くなった血が滲みそれが痛ましい。だが彼女がそれにかまう様子はなく微動だにしない。
「喜多」
「はい」
「お前が見たもの、全て話せ」
「……甚だ、申し訳ございませぬことなれど、姿かたち見ておりませぬ。あの時ふいに不審な気配がしてすぐさま懐に手を入れようと致しました。ですが次の瞬間風が舞って、腕を斬りつけられあまつさえ後ろから昏倒させられてしまいました」
「お前が遅れを取るとはな」
「面目次第もござりませぬ」
「喜多程の手練れでこれか。風、まさか風魔じゃないだろうね」
「依頼があれば動く伝説の忍び、か」
「喜多が思いますに、黒き羽は飛んでおりませんでした。もし風魔であれば私も奥御殿の者らも皆今頃は」
「だろうね……」
その名轟く伝説の忍びの姿を見た者は居ない。姿を見た者は総じて命を奪われるからだと言われている。北条を拠点にすることが専らのようだったが時として梟雄とも縁を持ち小十郎と相対したこともあり友好的とは言えない相手だ。
「あの忍びが自分の怨恨で動くとは思い難い。ならば別の筋と考えるが常道かと」
そこで小十郎はごくりと息を呑んだ。あの時風魔を雇っていたのは乱世の梟雄松永久秀だ。死んだと思っていたがあの男が生きていたのだとすれば政宗小十郎と近しいが狙われても何の不思議はない。あの男は相手が尤も嫌がることを心得ている。政宗の六爪を奪うときには政宗が大切にする部下の命を塵芥の如く扱い、小十郎が大事とする政宗を瀕死に至るまで傷つけた。に対してもあらゆる手を使うに違いない。
少し視線をずらせば政宗もそれに思い至ったのか更に厳しい顔つきになっている。
「喜多、死にそうな顔すんじゃねえよ。養生しろ」
「しかし……」
ならば小十郎の姉である喜多を傷付けたのは只傍に居たからだけではないのではあるまいか?
「なら養生ついでにこの城を守れ、いいな」
「心得ましてございます」
「梵、まずは街道の封鎖だ」
「ああ」
「こっちは戸兵衛の忍隊を向かわせてるよ」
「わかった。綱元、怪しい者は全て捕らえろ。間者が侵入したという理由でいい」
「はっ」
「必ず、無傷で助けろ! それ以外は認めねえ!!」
「ははっ」
立ち上がり命ずる主君にその声に家臣一同、更に頭を擦り付けて応えたのであった。
日が暮れ夜を越えて朝を迎えてもの行方は依然掴めなかった。月の障りや体調不良以外はほぼ共寝をするようになっていた愛妻の居ない褥は夏だというのに驚くほど冷たく感じられた。
この虚脱感は何なのだろうか。愛する妻はどんな夜を迎えて過ごしたのだろうか。考えるもおぞましい想像だけが爆ぜて政宗の心を掻き毟る。衣桁にかかる彼女の打掛が目に入ればなお一層辛い。これを着て笑んでいた彼女の顔が何度も過ぎる。
「Shit...!」
打掛を握ればかすかに残る彼女の残り香。今彼女を感じられるものがこれしかないのが厭わしい。もしかしたら永遠にそうなってしまうのではないだろうか。なってたまるか。彼女の居ない世界などもう自分には考えられない。今後子が出来ようが出来まいが、これと決めたのは一人。それ以外要りはしないのだ。
「……以上に大切なものがあるかよ……っ」
奥歯をガチリと鳴らしても歯がゆさが消えることはない。ただひたすらに願うのは佳人の身の安寧。これから政宗はそんな夜を何度も迎えることになる。
- continue -
2013-10-12
サオリさまより頂戴いたしました200,000hitリク「戦国【雁の聲】 誘拐された夢主を助ける話」でございます。
もう随分前に書きあげていたのですが、現在連載中の黒幸村夢【花薄】のお話の展開が落ち着いてからと考えておりましてかなり遅くなってしまいました。
サオリさま大変お待たせいたしました。楽しんでいただけるお話になっていれば幸いです。