は上機嫌であった。政宗の冬の御衣裳用にと誂えた反物が予想より良い出来で届いたからだ。今宵はそれを広げどの柄が裾に来るか、袖に来るか、じっくり吟味して明日の裁断に備えようと笑みが零れる。
思い返せば昨年とは間逆だ。あの頃は政宗がの衣裳を選びそれを小十郎が届けて、は与えられるまま身に付けていた。それは疎かにされていない証でありありがたく思っていたがは今がこの上なく嬉しい。夫の衣裳を妻が誂える、そんな当たり前が出来ていることに幸福を感じるのだ。政宗は並みの男ではない。粋は伊達者と謂われるほど洗練された感性の持ち主で、皆が一挙手一投足を見守る彼の衣裳の差配を全て自分に預けてくれるなど、これ以上なんの悦びがあろうか。
届いた反物の数点を入れた広蓋を侍女の一人が持ちは政宗の書院へ向かう。裁断の前に一度見て頂こうというのと、もう二三、用事を済ませるためだった。
夏の日差しは強く蒸し暑さも今日は一層だ。見た目も涼しい紗の打掛すら脱いでしまいたい気持ちになる。鈴木元信が氷室から手配したという氷は何時までもつだろうか。御用が終わったら後で蜜をかけてお持ちしよう、きっとお疲れに違いない、と彼女の頭は彼是と忙しい。
政宗が居るであろう部屋に近づくと彼の近自習が頭を下げ、こちらへ、と促される。障子から顔を覗かせて視線をやれば、夫はその先で何か難しげな顔をしていた。
「政宗様?」
「……か」
その声は何か違う気がしては侍女の持つ広蓋を受け取ると彼女にも近自習にも下がるようにと言い置いてそっと部屋に足を踏み入れた。近づくに政宗は少し笑んで招きよせて来る。
「どうした?」
「御用を沢山頼まれましたのでそれを済ませに参りました」
「おいおい、俺の顔を見に来てくれたんじゃないのか?」
それが一番でございます、と答えると傍に座るように促されその意のまま身を置いた。
「なら二番目は何だ? darlin'」
「はい、片倉殿から政宗様の政務の進み具合を見て欲しいと」
「なんだ、奥州じゃ奥方まで右目の走狗に成り果てたか」
「でも、私は夫たる御方には甘いので良く進んでおりますと嘘を吐こうと思っております」
「こいつめ」
政宗は小さく笑い、自分の額をの額にこちんと合わせてきた。そして低くよく通る声で、それから? と問うた。
「し、成実殿から、これを預かりました」
「Huh?」
未だ政宗のこのような触れ合いに慣れる事の出来ぬは声を上擦られて懐から折られた楮紙を出し、己の唇を隠すように据えた。政宗は意地悪く唇を吊り上げ、ますます額をに擦り付けて、何だ? と続け、はまた敵わないと自覚するのだった。
*****
必要以上に触れて見せると妻の頬は真っ赤に染め上がる。政宗はいつもこれが見たくて仕方がない。誘惑に負けてついつい必要以上にからかってしまうのだ。夫婦になり想いが通じ合えばそれなりに抱いたが彼女から漂う慎ましさ、清さに曇りはない。何か問えばよく考えて柔らかく唇をすべる文言とそれに付随する仕草は何度見ても好ましくこればかりは彼女を育てたと言い切る猿飛佐助を褒めなくてはならないと思える。
「Ham? なんだそりゃ」
その愛妻から楮紙を受け取るとそこには”元気の素お届けに参上”と聊か乱暴な走り書きが添えてあった。それは紛うこと無き成実の字で、政宗は気抜けと同時にあいつめ、と内心頭を掻く。きっと今頃あの従弟はしたり顔で、俺って気が利くでしょ? なんて言っているに決まっているのだ。
「政宗様、今日は如何なさいましたの?」
「Um?」
「ご様子が」
「Ah――」
政宗は額を離し妻の懐を見た。そこには本朱漆の匕首は無く、政宗が贈った沈金銀の匕首が文様美しくその存在を伝えている。隠し事などしてもこの聡いには通じはしないだろう。政宗は一拍置いて口を開いた。
「夢の中でお前に会った。上田城の桜の枝を剪んでいた」
「まあ」
「可愛かったぞ」
「そのような、……実物は、如何でございますか?」
「実物のが良いに決まってんだろ」
「――っ」
に勝ちを譲ってやる気も主導権をやる気も毛頭ない。彼女はずっと自分の懐の中に置いて愛でて、時として翻弄してやりたいのだ。
それから政宗がふと何かを思い返すように瞼を一度伏せての頬に触れると彼女の眸は心配の色が浮ぶ。
「……お前にとってはいい夢だと思う。伊達と武田が和議を結ぶ夢だった。幸村が居て、猿も居た」
「……左様で」
「もし、――もし武田に同盟を持ちかけていたら」
「え?」
「多分、嫁してくるのはお前だったろう。なら今頃は」
政略結婚故最初はぎこちなくても夫婦関係の雪解けはもっと早かっただろう。にあんな想いをさせずに済み自分もこんな想いを抱かずに済んだはずだ。後悔はしない、そして謝ることもしない。だがそれをこの妻に分かれと強いることは無慈悲だと感じるのだ。
「政宗様」
言いかけた政宗の唇にそっと人の温かさを感じる。の人差し指が触れてきたのだ。少しだけの悲しみと、大きな情愛に満ちた笑みを浮かべた妻は小さく首を振った。
「起きてしまった過去はどうしても変えられません。乱世でございます、貴方様が罪をお感じになる必要もありません」
「……」
「ただ、貴方様のお悩みになられる姿は私も辛いのです。私がお傍に居ることで罪をお感じになられ貴方様の重荷になるのは耐えられません。ですがそれでも私は貴方様から離れようとは思わないのです。消えることは解決になりませんし、何より私は貴方様と離れ難うございます。……ですから私は政宗様がお辛いのなら最後の最後まで共にあって落ちたいと思うのです」
「……」
「は幸せですよ? そんな覚悟が出来る程私は貴方様に沢山のものを頂きました」
目の前の妻は見事なまでに美しい微笑を浮かべている。政宗は堪らなくなって彼女を掻き抱いた。の好む柔らかな香りが鼻腔を擽り誘われるように彼女の首元に顔を埋めた。
「、お前を妻にして良かった。お前を愛して良かった。……後はこれが一番でけぇんだが……」
「政宗様?」
「お前に、愛されて良かった……」
それは嘘偽りのない想いだった。応えるように背に回される彼女の腕はいつもよりきつく抱き返してきて政宗もまた一層強く抱きしめた。
「政宗様、は、胸がいっぱいで」
「ああ」
それは政宗も同じだ。こんな言葉はでなければ言ってくれないだろう。小十郎も成実も綱元も左馬之助も喜多も祖母もかけがえのない相手だ。だがそれ以上に何にも代え難く情愛を与え、得られるのはこの腕の中の存在なのだ。
「でも、”もしも”も楽しいかもしれません」
「虚しく、いや、お前は悲しくなるだけじゃねえか?」
嗚呼、もう何度も泣く中ですでに乗り越えた道なのかもしれない、失言だったかと彼女を見れば穏やかな顔をしていた。彼女の寛容さは政宗とは比べ物にならないくらい広い器であるのかもしれない。これから自分は何度それに救われるのだろう。
「もしも、ね? 政宗様、和議の証に私が嫁いできたらそれはそれで大変だったと思うのです」
「何故?」
「だって、事あるごとに兄が押しかけてくる気がしませんか?」
「.......Ah――」
「お館様の遣いや私の顔を見るに感けて、政宗殿、お手合わせ願うー! と毎月の如く来るんじゃありません?」
「手合わせはいいが、うるせぇな……」
「ね?」
彼女は本当に楽しそうに笑っていたがそのうち、あ、っと声を上げた。冬の衣裳用の反物が仕上がったのです、と続けるとそっと腕から抜け出して少し離れたところに置いていた広蓋の方へと歩み寄っていく。
それを尻目に政宗の横には例の楮紙が鎮座してその文言を見るに半ば気抜けしたように呟いた。
「成実の言うとおりかもしんねぇ」
広蓋を手に振り返る彼女は確かに自分にとって元気の素。きっとそれはこれからも変わらないのだ。
- end -
2012-11-24
華胥の桜全5話これにて完結です。
るーか様、べったべたな夢落ちとなってしまいましたが、お待たせした分ご満足いただけるお話となっていたでしょうか? ご笑納頂ければ幸いです。