華胥の桜(四)

 ……――ミーン……ミー……ン――

 なんだ? 蝉……? なんで蝉が鳴いてんだよ暑っ苦しい。季節はずれにも程があんだろ。桜の咲く季節だってのに……。
 ――桜?

 瞼を持ち上げると視界に入るのは開かれた障子の先に広がる青々とした庭の木々だ。夏の風物詩たる蝉が忙しくその存在を主張し耳を劈(つんざ)く。政宗はゆっくり身を起こし頭を掻いた。横の文机の上には小十郎から今日中に仕上げるよう厳命された書きかけの書類が鎮座している。
「Ah―― 阿呆か、夢オチなんて洒落にもなんねぇよ」
 うたかたと現実に彷徨う脳を振るい、思考を働かせればあれは確かに夢なのだと再認識出来る。思い返せば桜を劈むはすでに鬢批を終えた髪型であったし、桜が満開の上田城など見たことはない。政宗が上田を落としたのは雪も解けきらぬ頃であったのだから。明るみになるのはまごうことなき現実との差異。
 政宗は人差し指の付け根を鼻の下に当てて思案する。そういえば霧隠才蔵なるものがあの幸村との乱闘に出てこなかったのは、名は知れど顔は知らぬ自分の知識が反映されたものであったのかも知れない。今一人誰であったか……。
「矢沢頼康……、ああ」
 思い出した。あの名も聞いたことがある。上田攻めの折に城内の一角を守っていた将の名前だ。そしてあの顔は要害山城落城の折にの命を助けてくれと言い首を引き裂いたもののふの顔だった。その将とあのもののふが本当に同一人物か、に聞けば分かることだがそれを知ったところで何になる訳でもない。あの妻の顔を曇らせるだけの仕儀だろう。
「shit...」
 今になってこんな夢を見るとは、これは己に対する恨みか戒めか。埒もないことだ。
「武田と同盟組んでに会う、か。随分都合のいい夢を見たかと思えば所々で抉りやがる」
 政宗は大きく溜息を吐き、彼の心情など知るはずのない近自習はそれから数瞬も経たぬうちに従弟の来訪を告げるのだ。成実は夏に相応しい涼やかな色の衣裳を身に着けいつもと変わらぬ気安い表情で寄ってくる。
「そろそろ起こさないと小十郎にどやされると思って来たんだけど無用だったみたい」
「そうでもない、目が覚めたのはたった今だ」
 政宗は立膝に肘を置いて気だるそうに前髪を掻き上げた。近自習と同じく政宗の心情など知らぬ成実は傍に座するとあっけらかんと言うのだ。
「何時にも増して目覚め悪そうだね」
「夢見がな」
「そう」
「夢の中でもお前と小十郎が出てくるし、寝てるときくらい遠慮しやがれ」
「あだっ! それは俺のせいじゃないし!」
「気合で出て来んなよ」
「横暴っ」
 飛んできた湯呑みを手に成実は抗議する。もう一言二言、言ってやろうかとするがふと従兄の表情が気になってそれを呑み込んだ。
「なあ成」
「何?」
「もし、武田と同盟していたら今頃はどうなってただろうな」
 政宗は目を合わせず相変わらず立膝に肘を置いたまま遠くを眺めている。梵、と言うも彼は少しばかり心此処にあらずだった。
「――そうだなぁ、まず同盟締結の証に嫁取りでもしてただろうね」
「おっさんの娘か」
「いや、……多分」
「An?」
「……姫が来てる、かも」
「気遣うな気持ち悪ィ」
「非道いっ」
が来る根拠は?」
「だって甲斐の虎の姫は真田と恋仲だったんでしょ? 甲斐の虎の性格上そういう娘なら真田と娶わせたいだろうし。他に親族の姫も居ただろうけど梵と真田の因縁を考えたらその妹の姫を養女として嫁がせたんじゃないかなってさ。姫の性格をみても兄と姫を別つくらいならって命が下れば静かに受けるんじゃない?」
「……甲斐と、共存する道はあったか?」
「ないね」
「言い切るな」
「うん」
「理由は?」
「まずは二年前、甲斐を落とす前の奥州の力関係。伊達家は曾おじい様の代から強くなっておじい様の代から奥州探題の名乗って、周りより頭一つ出てたけど親戚同士の小競り合いだらけで梵が平定してやっとだったでしょ。それでも隙あらばなんて考える油断ならない奴らばっかだし」
「まあな」
「甲斐信濃を手に入れたからこそ領地が大幅に拡大してあいつ等手も足も出せなくなった訳で」
「ああ」
「仮に、伊達と武田の同盟が成立していたとしても安心は出来ないだろうね。最上辺りがあの手この手で切り崩しにかかるだろうし、奥州側でそんな不穏な空気が湧けば甲斐の虎が逆に攻め込んで来たかもね」
「おっさんがか?」
「甲斐も強国に囲まれてるからね。信玄公だって自国の民を潤わせたいんだ。後ろに火種があるなら見逃さないでしょ。大勢力の同盟なんて所詮ただの休戦合意みたいなもんだし、梵だって甲斐に何かあったらそこを突くでしょ」
 武田信玄は器が大きく多くの家臣に慕われた男だった。だがその男でさえ心情を曲げてそうせねばならぬくらい切迫した世情、それがこの乱世だ。
 成実の眸の中の政宗は一点を見つめたままだ。彼の相槌は心此処にあらずに見えて、その実何かを確かめるようにもあり、このまま続けていいものか躊躇われた。
「――同盟してもいずれは破棄、だよ。どっちにしろ……」

姫は一度は泣くことになったろうね”

 だがこの言葉だけは伏せることにした。聡い政宗なら言わなくても十分に分かっているだろうから。
「梵は奥州の国主として間違っちゃいないよ」
「ああ」
「後悔してる?」
「いや、間違いなかったと再認識しただけだ」
「それは重畳」
 最後は意地悪な質問なのかもしれない。武田との戦はどの勢力との戦よりも厳しかった。長い行軍に始まり名だたる精鋭と何度となく渡り合い多数の死者をだした。政宗を慕い、信じ、命を懸けたその者らを思えば後悔など万が一にもしてはならないのだ。してしまえば彼らの命はなんだったのか、国主としてそれは余りにも無責任だ。
 成実は政宗がそれ以上の意見を求めていないことを知っている。さて、と言い彼は立ち上がると颯爽として言うのだ。
「じゃあ俺は梵に元気の素でも届けてあげる」
「はぁ?」
「それまでにそれ仕上げときなよー」
 成実の指すところには気の重たいばかりの書類が積まれている。横目に見た後向き直り手伝え、と言う頃にはすでに彼は広縁に進み出て、頑張ってねー、と手をひらひらさせてそのまま退散してしまうのだった。

- continue -

2012-11-18

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