とうとう姫様は声を出して泣き出してしまった。若様を呼ぶ泣き声に板葺屋根の上で十蔵は悶絶し苦悩する。
「ああもう駄目だ。もう見てられん。下手でも長に変装しようっ」
十蔵は数度の護衛の任に付いたことがあった。だが遊び相手を努める佐助等と違って表に出ることが極端に少なく、弁丸とは顔見知りであったがの前に顔を晒したことがなかったのだ。不安に泣く幼子の前に知らぬ顔が出て行けば文字通り煽るだけ。の見知った人間に化けるしかないのだ。今日という日はつくづく変装下手な我が身を悔やまざるを得ない。用意してきた忍び道具を漁りながら、姫様の様子を見れば例の店主夫妻が必死に慰めている。婦人のほうが抱き上げて店の商品を見せてみたり、店主の方は他に来た客の相手をしながら、この子を知らないか、と聞いてみたりしている。つくづく人の良い夫婦に当たってよかったと思う。
「もう少しですからね、姫さん」
十蔵の一大決心を知る由もなく、佐助、才蔵、六郎は馬上の親子に路を示し領民が馬に轢かれることのないよう巧みに誘導する。お陰で怪我人が出ることも、領主が城下で暴走行為を働いたという噂が立つことなさそうだ。
途中、が京から来た小間物屋に居る、と伝えると弁丸君はそんなものあったのか? と不思議そうに返してきた。若様むっちゃ考え事してましたもんね、との六郎の呟きに、昌幸は惜しむことなく息子に拳骨を入れた。武将たるもの、いつ如何なる時にも周囲に気を配らねばならぬ、と言っておるであろう。まして傍にが居るなら尚のこと! という父親らしい言に佐助らは感動することもなく、貴方もね、と思ったのは各々内緒だった。
六郎の報告の通り、は上方訛りの商人の店先居た。馬を近くの大木に繋いで主君も忍びも様子を伺う。の弁丸を呼ぶ泣き声に思わず飛び出そうとする息子の口を慌てて塞ぐ昌幸に皆疑問を声に乗せた。
「昌幸様?」
「なんじゃ」
「何で行かないんですか?」
「いや」
「いや?」
「――このまま殿様の儂が出て行ったら領民大混乱じゃないか?」
「は?」
「とて儂がいきなり現れたら逃げるんじゃないかのう」
「今更何言っちゃってるんですか。赤備え持って来いとか言ってたくせに! 城下だってダメだって言われたのに暴走したでしょ!」
「佐助、其方きっついのぅ。山手に似てきたな」
「やめて下さいよ。御方様役なんて真っ平です」
急にもじもじとする主君にぴしゃりと言い置いて一同はとその周囲に目をやる。構ってはいけない様な気がしたのだ。
「ん?」
「あ、十蔵」
「あいつ何してんの?」
視線の先に、傍の家屋の板葺屋根上で必死になにやら広げている同僚の忍びの姿を見とめて佐助らは口々にそう言った。これだけの人数で騒がしくしてる当主親子すらいるのにそれに気づかないのは忍びとして大いに問題である。
「頃合見て呼ぼ……」
若干疲労の度合いが強まった長に何も言えず六郎は頷き、再びを見た。は相変わらずしゃくりを上げて泣いていた。
「にいさまっ……母っうえ……さすけぇ……」
「きっと来てくれるからね。大丈夫だよ」
「そうだよ、おじさんがここらのお侍さんに聞いてみてあげるからね」
そのやり取りに六郎はほっとし、佐助は頬を緩ませる。才蔵は、儂の名が呼ばれない……とへこむ主君を無言のまま見ていた。その手から口を塞がれて少し気が遠くなっている若様を解放し、昌幸様、と呼べども反応はない。
――が。
「えっ……えっ……ちちうえぇぇ……!」
ピーン……! と空気が変わった気がした瞬間。
「ーー!!」
「ええええええええぇぇえ!!」
愛娘の呼びかけに、婆娑羅者以上の力を得たであろう主君を止める事など出来ない。忍び顔負けの素晴らしい超反応と絶叫で答え彼は一目散に駆けて出て行く。あっけに取られたのは佐助らと弁丸、全員の目は点になった。
「何あれ……」
「……」
「あっ! ずるいでござる! おれもー!!」
そう言って父を追いかける若様に、あ、と誰かが声を上げたがなんとなく止める気力がわかなかった。まあいいか、姫様泣きやんだし。と言ったのは佐助で、他の二人も反論することなく頷いた。
「――じゃ俺様たちも行こうか」
「あー、長はここにいて下さい。出て行っちゃ駄目です」
「なんで」
「多分見てれば分かりますから隠れてて下さい」
「ああもういいよ。どうにでもなれって感じだから」
そう言いながら腕を組み小間物屋に視線をやる佐助だった。
昌幸は必死の形相での、店主夫妻の、前に立った。ゼーハーと荒い息とあまりの顔付きに店主の妻がヒッと声を上げたのは仕方のないことだった。
「っ……」
「ちちうえっ……うえぇええぇえっ」
「何で泣くのじゃ! ぬっ」
夫人の腕の中からは必死に手を差し出した。そのままそっと娘を受け取ると彼女は昌幸の裾にぎゅっとしがみ付いてくる。
「……ばかもの。父は心配したぞ」
「ちち、うえっのことっしんぱいし、てくれるの?」
「勿論じゃ」
あー昌幸様、絶対キュンキュンしてるわ。と佐助が思ったのは内緒だ。ははっとして涙としゃくりの残る顔を上げて必死に父に言上する。
「ちちうえっ、にいさまが迷子に、っなっちゃったのっ」
「へ?」
「いなくなっちゃったのっ探してっ」
「! おれは迷子になってはおらぬ! 迷子はそなたであろうが!」
「にいさまっ!」
父の甘い時は短かった。
昌幸の背に隠れて今まで見えなかった弁丸がひょっこりと現るとの顔(かんばせ)は花の様相になった。ひょいと昌幸の腕をすり抜けて弁丸に抱きつく。それはまさに感動の再会であった。
両手を前に出したまま固まる昌幸が一欠片だけ気の毒で、けど面白くて六郎は噴出する。店主も珍妙な顔付きに変わったので彼も噴出すのも我慢していたに違いない。三人はどうして逸れたのか、という話から始まり、逸れた後は店主夫妻がの面倒を見てくれていたこと、弁丸は弁丸で陣屋を探して助けを呼びに言ったことなどを伝え合った。昌幸は夫妻に礼を言い、謝礼を申し出たが二人は断っていた。そのうち昌幸の紋所に気付いた店主はもしや、と呟いて頭を地に伏せた。
「大変ご無礼を! 御領主様とは露知らず」
「ああよいよい、頭を下げねばならぬのは儂の方故な。頭を下げ合うのもなんじゃ、そちは店主、儂は客で良いのではないか」
「ありがとうございます」
「さて客は品を見せてもらおうかの」
右には息子を、左には娘を伴って父昌幸は目尻を下げる。やっと微笑ましい絵になってきたな、と六郎が思った時、同僚の才蔵が板葺屋根の上に乗り、もう一人の同僚の襟首を掴み上げてるのを視認すると心の中で泣いた。
- continue -
2012-06-16
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