城下の盛況な賑わいの中、板葺屋根の上隠れていた筧十蔵は途方に暮れていた。つい先程、手を離した姫様に気づかず若様はそのまま先に行かれてしまった。同僚の望月六郎が慌てて若様を追い自分は姫様の護衛役に残ったのだが、しまった、と思わずにはいられない。若様と姫様の遣り取りが余りにも微笑ましくて可愛くて、不覚にも六郎と二人で居るにも拘らず連絡手段や合流場所の取決めをするのを忘れていたのだ。普段なら陣屋近くの大きな一本杉の近くと決めているのだが、今回は最低限の忍びにしか知らせていない若様と姫様の城下巡り。そこを利用すれば城下を巡回する他の忍びなどに露見してしまう。狼煙など以ての外だ。
「五色米を蒔く訳にもいかねえし、大筒ぶっ放して場所知らせるわけにもいかねえし」
長である佐助ならば変装でもしてうまく誘導するのだろうが、生憎十蔵はそれも苦手だ。とことん実線向きな我が身と、自分達を指名した才蔵が恨めしい。腐りながらぼやいて首を振る。駄目だ駄目だ、今は姫様の護衛をしなくては。
改めて見れば小間物屋の品を店主夫妻に見せてもらっていた姫も、弁丸君と逸れたことに気づいたらしい。途端に不安そうな顔をして眸いっぱいに涙を溜めていた。ああどうしよう、姫様が泣いてしまう。十蔵のやきもきは否応なしに上昇してゆく。
小間物屋の夫婦が必死に慰めている。幸いにも相手は人の良い夫婦のようだ。これが少しでも邪な心根の持ち主であったなら、人買いにでも売られていたかもしれないし、姫の身形が良いのをいいことに、家を探し出して金を要求するかもしれなかった。無論、十蔵も警戒を解いた訳ではないが、真田忍隊とはいえ姫と話したことのない自分が現れて慰めるより遥かに姫の心は落ち着くであろう。
「ああもう若様、早く気づいて戻って下さいよ」
そしてもう一方、弁丸君を追った望月六郎もまた焦りに焦っていた。
「いかんっ! を見失ってしまった! どうすればいいのだ!」
自分の片手にあった温かい存在が居なくなってしまったことに気づいた弁丸君は、城下の往来で絶叫していた。あ、やっと気づいた。めでたしめでたし、と六郎が思ったのも束の間、若様は腕を組んで八の字を描くようにうろうろ動き回り思案に暮れ出す。
「ええと、こういうときは……あっちから来たから……」
戻って下さい、来た道戻ればいいんですよ! 木の上に身を隠している六郎は両の手の掌を握り締めて精一杯応援する。よしよしいいぞ……。
「むぅ、確かこういうとき父上は……そうだ! 陣屋に行けば家臣が居ると! うおおー!! っ今行くぞおぉ!!」
そう叫ぶと来た道とは間逆の方向へ駆けて行くではないか。陣屋で身分を明かせばこれはもうお忍びではなくなってしまうし、いや、姫様と逸れている以上緊急事態なのでしょうがないのだが。というかそもそも何故来た道を戻るという選択肢が思い浮かばないのだ!
目の前が暗くなる六郎をよそに、弁丸君の声は高らかに響く。
「おたずねもうす! 真田の陣屋はどちらにござろうか!」
「おお、ハキハキと元気な子だねぇ。陣屋かい? それならこの筋の二つ隣の大きな通りを抜けてね、南のほうへ行けば大きな陣屋が並んでいるよ」
「ありがとうございまする!」
礼儀正しく一礼すると、弁丸君は言われた方角へ全力疾走する。二つ隣の筋に抜けてしまえばがいる筋から完全に離れてしまう。来た道を戻ればいいだけの話であるのにどんどんややこしくなってゆく様に六郎は脱力せざるを得ない。
筋を二つ抜け、
「ぬ! えっとこっちだな!」
逆です若様……。
南へ向かう。
「ええとこっちだな!」
だから逆ですって……。
若様の方向感覚に一抹の不安を覚え、これは早いうちに矯正するように佐助に伝えたほうがいいかもしれない、と思案しながら六郎は木々の上からあの手この手で陣屋に向かうように誘導する。陣屋があるほうへ匂い袋を置いてみたり、心中住人に土下座しながら逆の方は通れないように除けられていた材木の束を撒いてみたり。
「すまん十蔵、当分そっち行けそうにないわ」
見事に引っかかる若様を尻目にそう呟いて木々を伝い彼を追うのだった。
そうして最後の一方。
「弁丸とはまだ見つからぬのか!」
城から馬を飛ばし陣屋に駆け込んだ真田家当主真田昌幸は吼えていた。佐助からの報せを受けて先行した忍びらは陣屋に待機していた家臣らに用件を伝え、家臣共々陣屋から出る支度をしていた。幸い有力な手がかりとして先程饅頭屋の店主が、身形の良い兄と妹の童が供も付けずに市に来ている。人攫いに遭わぬか心配だと伝えに来ていた為、家臣らも検討とつけて動こうとする矢先であった。
「まだ出ておらぬのか!」
「昌幸様、早過ぎです。忍びも万能じゃないんですよ。全力疾走で飛ばした馬より早く着いたことだけでも褒めて欲しいくらいですって」
「う、うむ」
努めて冷静、いや若干の呆れ顔の佐助の言に昌幸は心持ちたじろき小さくなる。佐助は控える配下の忍びらに問うた。
「で、十蔵や六郎からの連絡はない?」
「はい」
「何も起こってないならそれでいいんだけどね。散!」
号令に忍び達は一斉に散る。忍びらの素早さに惚けていた家臣らも我に返れば昌幸に一礼して急ぎ陣屋を後にする。慌しさの後に残るのはがらんとした陣屋と、何故か気まずい雰囲気。昌幸ははあと息を吐いた。
「何故城下に下りたのだ。そもそもあんな幼子二人でどうやって」
「そうっすねぇ」
帰城時の佐助と同じ疑問を声に乗せて首を振る当主に佐助は相槌を打ちながらちらりと後ろの才蔵を見る。彼は素知らぬ振りのまま、陣屋勤めの水仕女に茶の用意をさせると天井裏に姿を消した。
「才蔵、そちも探しに行け」
「出来ません」
「何故じゃ」
「殿の周りが手薄になる」
「佐助がおるぞ」
「長はすぐに多忙になる」
その言葉にうむぅ、と当主は唸って茶を啜り、佐助は何を知った風なことを、と思わざるを得ない。知っている情報を流さずに何を言うのか、さっさと言え、と言いたい。いや、才蔵にそれを求めるのは徒労というものだ。当主は落ち着かず立ち上がって部屋中をうろうろと動き回り、忍隊の長は気鬱を抱えながら時は過ぎる。昌幸付きの小姓らも所在無げで気の毒だ。
「ああ落ち着かぬ! まだなのか!」
蝙蝠扇を掌にバチリと当てる昌幸に、落ち着いて下さい、とも言えず皆は黙したままだ。
「城に近く他よりは治安が良いとはいえ攫われたら何とする。村上の残党が居らぬとも限らぬのだぞ!」
真田氏が治める上田の地、ここは元はと言えば前領主村上義清の勢力圏内であった。真田は信濃の名族滋野氏流を称する海野氏の傍流であるとはいえ、この地の者らからすればまだまだ新参の領主、昌幸の心配も尤もなことだった。
「十蔵と六郎が付いておっても、相手にそれ以上の忍びがおってはことぞ!」
無論、佐助らとてそんなものに遅れをとるつもりはない。だが、伝説の忍び風魔小太郎並みの忍びと当たればそうも言ってられないだろう。やれやれ、と首を振ったところだった。大きな足音が耳を突く。皆がそちらに目をやれば出入り口が騒がしい。それは確かな収穫を得ての騒ぎであった。
- continue -
2012-06-02
陣屋が交番状態。