桐始結花(二)

 何時経ったのか、鳥が啼き空の色も変わり始めそれが黄昏時だとぼんやりと眺めている。あれからすぐ遠慮したのか小十郎らは下がり、は政宗の腕の中でさめざめと泣いた。その間も彼は何も言わず寄り添い、時折頬の雫を拭ってくれた。
「――政宗様」
「うん?」
「もう、大丈夫にございます」
「そうか」
 がそっと身を起こすと、まってな、と言い置いて政宗は中心を出されたままになっていた匕首を手にした。その地鉄の様を見、問題がないことを確認し頷く。
「じゃあ元に戻すぞ、文は大切に文箱に入れときな」
「いえ、これも元に」
 そう返せば、夫は手際良く油塗紙を塗る手を止めて少し怪訝に妻を見た。心配に覗く政宗に対し、は穏やかに頷いた。
「いいのか?」
「はい、一度読めば十分です。兄は照れ症でございますから何度も見たら落ち着かぬと怒ります。――それに、もう読まずともこれがあれば兄様の想いが分かります。ようやっと合点がいきました」
 は本朱漆の鞘を手に取り懐かしみそっと撫でた。
「少し、聞いてくださいますか? 止め処ない話なのですけど」
「ああ、いいぜ」
「ありがとうございます。……この匕首は私の鬢批と嫁ぐときの為にと兄が誂えてくれたものでございます。頂戴したときは上巳が近くて、節句のお祝いならもっと可愛らしいものを贈ればよいのにと皆に言われておりました。けれど私はこれが一番嬉しかった」
 温かく幸せだったあの日々。ほんの少し湛えられた笑みが花のよう口許を彩る。
「……こちらの皆様は、きっと真田の家紋は六文銭だとお思いかと存じます」
「Ah――そうだな。違うのか?」
「はい、六文銭は戦の時のみの紋。普段は結び雁金や州浜、割州浜などが通紋でございます。女子の私には六文銭は縁の少ない紋なのです」
 紅くはためく六文銭は兄幸村の象徴、その許で槍を振るう兄は勇ましく誇らしかった。だが、その影で出陣の折は心切なく遠くで眺めた我が身が思い起こされる。
「上田が落ち、甲斐に逃れて、私は戦えぬ我が身がいつも役に立たぬように思えて悲しゅうございました。兄はきっと気づいていたのだと思います。不器用で、余り女子のことには口を挟まぬ兄でしたけど、わざわざ通紋ではなく、六文銭を施した匕首を贈ってくれた。私は認められたような気が致しました」
 戦局の苦しい最中、足手まといとも言われることもなく気遣われたことが何より嬉しかったのだ。
「だから死ぬ時は此れで死のう、真田の女として戦いの中で戦紋を持って死のう、恥だけは晒すまい、そう決めておりました」
……」
「でも間違いでございました。兄は生きて戦い抜けと、そういう想いで此れを下さったのですね」
 は頭を振るい瞼を伏せた。
「愚かしいことです。政宗様に怒られて、時を頂いて、今頃になって気付くなど」
「あの時は随分手酷く叱ってしまったな」
「いいえ、叱られなければ気付かなかったでしょう。情けのうございます。政宗様は兄の気持ちを汲み取ってらしたのに、私は露ほども気付いておりませんでした。兄には死して後も心配をかけたかと思うと」
 文を受け取った政宗は悔恨を聞きながら中心にしかと括りつけ、はばきをかけ、から受け取った鞘に納めて柄の目釘を抜く。手際よくはかどらせ手入れを終えると丁寧に差し出してきた。
「ありがとうございます」
「いい誂えだったぜ」
「……政宗様」
「an?」
「脇差をお預かりしておいて僭越なのですけど、竹に雀の懐刀、きっと下さいませ」
、無理してそれを遠ざけなくていいんだぞ。俺も小せぇことは言わねえ。無論懐刀は贈るが身に着けるのはそれでかまわねえぞ」
「いいえ無理など一つも。――政宗様、私は兄の今際の言葉を知ることが出来ました。その御心も違わずちゃんと。ですからこれはもう懐になくてもよいのです。私はもう顔を上げて、前を見て心通わす方のことも想いたいのです」

「でも捨てることは出来ません。私は存外欲張りなのです。伊達の御家も真田もやはり大事」
 とても真摯な眸で語るを政宗もまた真剣に受け止めた。けれど次には少し困ったように首をかしげ、どう言えば伝わるのでしょう、と花唇が形作り眉が八の字になるのを見て政宗は笑い出した。
「ま、政宗様っ」
「Haha! そんなに難しく考えなくても分かってる。アンタが大事なのは家ってより俺と幸村だろ?」
「え」
 政宗はさも可笑しそうに、満足げにククと喉を鳴らしている。
「――そうかもしれません。政宗様が大事です。でも兄様との思い出も捨てられないのです」
「いいさ、その代わり一生、俺に惚れてろよ? You see?」
「! はい」
 いつもどちらかと言えば伏せ目がちな眸を真ん丸に見開いたかと思えば、すぐに紅くなって破顔する。
 今度は政宗が己が目を見開いた。ああ、と政宗は得心する。微笑む顔は何度も見た、けど憂いなく笑う顔を今初めて垣間見た。自分はずっとのこの顔が見たかったのだ。心が疼き堪らなくなって妻を掻き抱く。
「あのっ、政宗様?」
「結び雁金が真田の通紋と言ったな」
「はい……」
「お前たちそのものだな」
「え」
「幸村はその生き様のままに六文銭が似合うだろうな。だが雁ってのは便りを運ぶ鳥だ。衡陽帰雁幾封書って言うだろ?」
は不勉強にございます……」
「haha.正直だな。――奴は、口には出せねえからこれに乗せて想いを運んだ」
「兄様……」
 哀切を含むの声音を受けて少しだけ明るく政宗は続けた。
「そしてこっちの雁は信濃から甲斐、この奥州に渡る渡り鳥。――参った、雁がこんなにも可愛い鳥だとは思わなかった。もう、撃てねえ」
「女子の雁ならば、雲井の雁のように嫉妬深い女になるかもしれません」
「雲井の雁なんて可愛いもんだな。いいぞどんどん嫉妬しろ」
「貴方様には一生かなう気が致しません……」
 咄嗟にそう返すに政宗は堪えるように笑い彼女の頬を撫でて、そんな立場には置かねえよ、と囁いた。頬を染める妻の唇をなぞり彼はまた甘い言葉をのせてくる。
「いつか、いつかな」
「はい?」
「アンタとの子が欲しい」
「子っ……」
「俺、餓鬼苦手なんだぜ? 信じれるか? 俺自身一番驚いてんだ。だがアンタとの子なら欲しい」
「私と、」
「アンタに似た娘なら可愛過ぎて嫁にやらねえかもしんねえ」
「まあ」
 は可笑しそうに吹き出した。政宗の胸に手を置き身を起こして少し挑戦的に見返してくる。
「政宗様、それは許しません」
「huh?」
「私は政宗様のような方のところへ嫁いで幸せになって貰いとうございます。ですからそれを阻止なさったら私、政宗様に反旗を翻します」
「uh-huh? どんな反乱を起こしてくれるんだ? darlin'」
「そうですね、では娘と共に口を利かないとか。あとは栽松院様と喜多殿たちにあることないこと吹き込みます」
「やめろ、本気で泣かなきゃならねえだろ」
「まあっ名高い独眼竜のお言葉とは思えません」
 ついにころころと笑い出した。元来彼女はこういう人なのだろう。大人しい彼女も今の彼女も政宗には選びがたい。
「今自覚した。アンタは俺より強い。そして俺は自分でも驚くくらい奥方にべた惚れらしい。アンタは俺の一番の強みで弱点だ。アンタに叛かれたら奥州は大混乱だ。だから反意なんて抱くんじゃねえぞ?」
「それは政宗様次第にございます」
「流石は日ノ本一の兵の妹、困った奴め」
「しっかり私の手綱を握って下さいませね?」
 すると政宗は真顔になって、の耳元で囁いた。 
「前に言ったろ? 離しゃしねえって。ずっとな」
 更に先程より強く抱くと、静まりかけていた妻の頬が途端朱に染まってゆく様に政宗は勝利を確信し、は敗北を喫したと自覚した。

 青葉が揺れ鳥の鳴き声が聞こえた。見上げて政宗は雁か、と言った。が雁の季節ではございませんよ、と笑うと彼は再戦とばかりに一層低く甘く囁くのだ。
「季節はずれの雁なら此処にも居んだろ?」
 と――

- continue -

2012-02-04

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