桐始結花(一)

 上杉伊達同盟が成立した。
 このことはすぐに近隣諸国に知れ渡り、小国の領主などは献上品を携えた使者を寄越したり、有力大名は透波を放つ者が殆どだった。対織田を想定し身近で争っている場合ではないと組んだ同盟であったが予想以上に他国を刺激したことは確かである。
 だが当の織田はと言えば冷戦状態であった豊臣と刃を交えることになったらしく伊達どころではないようだ。
 奥州侵攻に際し、濃姫、森蘭丸、そして魔王の妹であるお市を失った織田軍は戦果も精彩を欠いているようだが、対する豊臣軍も病床に臥せっていた軍師竹中半兵衛が身罷り、一部強硬派がの動きが内部に混乱を来し、どちらが勝つか判らない状況である。それに乗じて中国の毛利が動き出す可能性も捨てきれない。というのが、佐助からもたらされた情報だ。
 彼は先日、里を通じて件の返事を寄越してきた。返答は”否”。
 誰も彼もがやはりと頷き、真田家を見限らず最後まで従った佐助らしいと心の何処かで安堵した。彼自身はといえば、政宗が嫌いだとか大将とか筆頭とか呼びたくないなどと顔を見せる度に言ってはいたが。
 現在、佐助は”特例で城への出入りを黙認されている忍び”という待遇だ。言葉そのままにたまにふらりと来ての様子を見、その代わりに他国の情報を寄越す。噂では風魔小太郎とも渡り合った程の腕の持ち主だが戦忍として手を貸す気は毛頭ないらしい。
 尤も、政宗はそれで十分だった。の様子見と言いながら情報を流すのだから少なくとも敵対する気はないのだろうし、黒脛巾組が劣るとは決して思わないが甲州信州の内情に詳しいのは彼だ。相変わらずに親しげに接する態度は非常に、非常に気に食わないが。
 糸を手にする愛妻を横目に見ながら、自分の嫉妬深さに呆れる政宗だった。

 今日は天気が良い。庭の緑も空の青さも、時折聞こえる鳥の囀りもとても心地よい。は政務がはやに終わった政宗に呼び寄せられ提案されたのは、外を眺めながら各々気ままに過ごそうというものだった。要は顔が見たかったんだ、と添えられた言葉に異論など沸く筈もない。
 は新たな狭織の為の糸の選別を、政宗は刀の手入れを。互いの様子を見ながら過ごすだけというのも悪くはない。
 だがふと手を止めて彼を見ると打粉を片手に黙然する政宗は機嫌が悪そうだ。が話しかければ優しく返してくれるのだが何処となくそれが滲み出て、そう雰囲気が少し険悪なのだ。勝手を知る成実などは触らぬ神に祟りなしといわんばかりに特に気にする風でもなくだけが首を傾げた。
 そのうち何通りかの組み合わせを選び終える頃、自分の刀を手入れし終えた政宗が話しかけてきた。
、匕首も手入れしておいてやろうか?」
「よろしいのですか?」
「ああ、アンタが嫌じゃなけりゃな」
 彼の言葉に険はなかった。
 そういえば落城前夜、兄に手入れをして貰ってから一度もしていない。使うことは最早ないだろうが大切な心尽くの品を錆びさせていい事はない。匕首を手にして想を練れば拒む理由など無かった。
「お願い致します」 
 ありがたく渡すと、政宗は少しだけ驚いた顔をしたがすぐに笑んで手に取った。
 目釘を抜き鞘を外し、姿、地鉄を確認する。刃を見つめる彼の姿は凛々しい。兄もそうであったが武人の顔に一気に変わる。戦場で真剣勝負をするときはこんな顔をするのかもしれない。
 暫し見惚れ我に返ると、そそくさと今度は政宗に合う柄の選定に着手する。今日は何組分選んだだろう、多少欲張りすぎたかもしれない。

「はい」
「最後に手入れしたのはいつだ?」
「一年以上前です。なにか変になっていますか?」
「そうか」
「如何なさいました?」
 刀剣を扱うことから少しばかり離れていたは糸を置き躙って政宗を見た。
「アンタ宛てだ」
「え?」
 彼の手には小さく畳まれていたのか折れ目の沢山付いた鳥の子紙らしきものがある。それが自分を驚かせるものだとは露ほども思わず、静かに受け取った。折られた紙の表には小さく、”どの”と書かれており、何だろうかと思いながら裏を捲れば、同じく小さく送り主の名を表す文字が記されていた。
 只一文字、”幸”と。
「これ……っ」
 政宗を見れば彼は小さく頷いた。
「中心(なかご)を数箇所削ってそこに糸で括り付けられていた」
 夫の低い声が耳を撫でる。はそっと鳥の子紙を開いて目を走らせ、そして声を詰まらせた。手が震えて言葉が続かないに小十郎らも驚いて注視する。政宗はただ静かに見守った。
「兄様のっ……兄様のお手蹟っ……」
 ああなんて、なんてものが。
 懐かしい筆蹟、忘れるはずもない。政宗から渡されたそれは兄幸村からの文だった。融通の利かぬ武骨者とも取られがちの兄だったが筆跡は驚くほど繊細な人で、周囲の者は舌を巻いたものだ。優しい字を、書く人だった。
 懐かしさだけが只込み上げて止め処なく字をなぞる。そうすれば文机の前に座る兄の姿が像を結び瞼は熱くなった。
「いつ、こんな……」
 中心を削って忍ばせるなど手の掛かることいつしたのか。いいや今は、ただ何を書き残してくれたのかそれを知りたい。
 は一字も見逃すまいと、ゆっくり、丁寧に、鳥の子紙の端に目をやった。
 

 ――出来れば、この文が其方の目に入ることなく、後々誰かが見つけて笑い話にでもなれば良いと思う。
 だが其方の行く末を思えばここでしかと書き記しておかねばと思い筆を取っている。

 先程、姫をお逃がしし俺と共に城に残ると其方は選択した。
 真田の娘として良い心がけよと褒め誇りに思わねばならぬが俺としてはやはり諦めきれない。
 止め処なくあれこれと考えた。
 不思議なことだ、其方のことは勿論大事。
 だが武人としてはお館様や姫が第一だと思っておったのに。
 其方が害されると思えば死ぬに死ねぬ。そう思い至った。
 故に明日、其方を政宗殿に託すと決めた。
 多分、其方は何故生かしたのかというのだろうか。
 我が好敵手伊達政宗は敵の大将であるが信じるに足りる男だ。
 かのものならば、其方を託しても何も心配ない。 
 何故であろうか、政宗殿に預けると書き記した瞬間、心中は凪のように穏やかだ。
 これならば幸村最後の戦にも心置きなく望めよう。

 最後にしかと其方に伝えたい。
 このような惨状に晒し、申し訳なく思う。
 不甲斐なき我が身をよく支えてくれた。その優しき心根ありがたく。
 よくよく申し含めるが命を粗末にせぬように。
 真田のこと、俺のことは気に病むな。
 我等のこと、刃を交えた者らが正しく伝えてくれる。

 政宗殿の意に従い幸せに暮らすこと切に願う。
 
五月某日 幸村
 殿――


 ほろりほろりと頬に雫が流れ落ちて留まるところを知らない。拝むように鳥の子紙に両の手を添えて咽び泣いた。
「――っ……兄っさ……」
 ずっとずっと、兄様は願っていてくれた。切実な程に幸せを。それなのに最後まで引かず、家臣にも我を通して、死にたいなどと願って、政宗に怯えて。政宗に心惹かれることは不実だと嘆いて。
 なんて愚かだったのか、兄はそんな料簡の狭い男ではなかったというのに。
「ああなんて……」
 なんて不器用な兄様、どんな想いでこれをしたためて下さったのか。決戦前夜のあの焦燥の中、休まずに書き忍ばせてくれたに違いない。
 口では言わない幸村心尽くしが溢れていて心は千々に乱れ交錯する。肩が震え眸に映る筆蹟は歪んでいく。
「――っ……ぅ」

 政宗は右横に座しての肩を支えるように手を添えてきた。
「ま、……っ」
「かまわねえよ、泣きな」
「っ――」
「だがそれは少し離せ、涙で字が滲んじまう」
 大切にとっときてぇだろ? と続けた愛しい人の声はどこまでも優しく、は胸に頭を預けはらはらと涙した。

- continue -

2012-01-28

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