紅花栄(十)

 謙信は隣国の国主の扱いに相応しく城の中でも美しく趣味の良い誂えの部屋を用意され、かすがや佐助にもそれに次ぐ部屋を宛がわれ下にも置かぬもてなしを受けている。おおよそ忍びが宛がわれるには上等すぎる居室にかすがなどは口には出さないが浮かれ、主君と遠出など初めてなのも相まってまるで新婚の新妻ように謙信を眺めている。
 もうおめでたいったらありゃしない、と昔馴染みのくの一に内心苦笑しながら佐助自らは部屋の周囲や配置を検分していた。政宗の居があるであろう主殿や奥御殿からは若干遠いが格段入り組んでもおらず、孤立する場所でもない。どうやら囲んで暗殺に及ぶ、といった気はないらしい。
 一通り見回って戻ると、謙信が柔らかに笑んで頷いた。
「しんぱいはいりませんよ」
「そのようで」
 やれやれこの軍神様にはお見通しらしい、苦笑で返して丸窓の障子の側に腰を下ろした。かすがが少し睨んだ気がしたがあえて無視をした。申し訳ないがいちいち彼女の空気を読んでいたら日が暮れてしまう。
 彼女もまたそう思ったのか、かすがは気を取り直して謙信に向き合った。
「少し遅いですね」
「そうですね、しかしかまいませんよ。おまえとこうしているのもわるくはない」
「ああっ謙信様」
 佐助など一気に目に入らなくなったらしいかすがは頬を染めて謙信に熱い視線を送っている。
 はいはいもう勝手にして下さい、そう突っ込むのも億劫で思わず欠伸が出てしまう。これなら亡き主君らの殴り愛のほうがなんぼかましだったかもしれない。いや、壁や塀が壊れないだけ目の前の二人の方が遥かに健全か。
「ん?」
 ふと渡殿の方から気配を感じて佐助は身を起こした。
「お二人さん、悪いけどお客さんみたいよ」

 謙信らを訪ねてきたのは政宗の側近達である片倉小十郎、伊達成実、原田宗時の三名だ。いずれも一騎当千の武将であったが、佐助とは直接刃を交えたのも口を利いたこともあるのはこの中はで小十郎だけだった。成実、そして左馬之助と呼ばれる原田宗時の両名は兵の運用がうまく、武田騎馬隊は何度も煮え湯を飲まされた相手だと記憶している。
 用意された茶菓子を口に運び当たり障りない会話が暫し続く。終始眉を吊り上げるかすがを今日は意に介さないのか、独眼竜の従弟だという伊達成実がにこやかに忍びの佐助に気安く礼を述べてきた。
「いやー、昨日はありがとう。梵を嗾けてくれて」
「へ?」
 凄腕の忍びと評される佐助だが予想外の言葉に間の抜けた回答が零れ出る。
「いやーよかったっす」
「おめえら、客人の前でする話じゃねえだろ!」
「まあまあ」
「かたいっす」
 政宗の腹心と言えど一門の成実より格下の小十郎だが、政宗の傳役時代に一緒に躾けた成実を窘めるときはたまにこういう口調になるらしい。成実もそれを気にするような男ではなく格段咎めたりはしないようだ。
 へらりと笑って交わすと再度佐助を見て彼は続ける。後ろで左馬之助に拳骨が落ちているのは見ないことにした。
「もうねー、梵ったらここ一年ずーっと女っ気なかったし、世継が生まれる前に枯れちゃったのかと心配してたんだけど」
「――え?」
 今なんて言った? 佐助は目を瞬き、絡まる細糸を一本一本解すように思考を働かせ、そして声を上げた。
「嘘だろー! あの竜の旦那に限って女っ気がないとか!」
 冷静な忍びはどこへ行ったか、なんて声はもう耳に入らない。そんな仮面を装うことを忘れ、それを恥じ入る前に目を剥く話が続いていく。
「いやまじなんだなこれが」
「ねーっ」
姫引き取ってから側室のとこにも全然行かないし、かと言って姫に手を出した風でもないし」
「美人で評判の娘を召抱えようとか、後家のとこに誘ってみても忙しいとかそんな気分じゃないとか言われたっす!」
「左馬之助、てめえそんな事を……」
「梵が遊んでくれないと俺らも遊び辛いじゃん! 左馬之助は悪くない!」
「っす!」
「悪びれねえその態度が気にいらねぇ……」
 青筋を立てる小十郎を余所に、成実と左馬之助は熱弁する。
「もう甘酸っぱかった! 口では姫のこと知らねって感じだけど、もう少し優しくしてやれって注意した瞬間、身の回りの物から何から選んで贈ったりさ、身辺には常に黒脛巾組つけて護らせたり……」
「あんな筆頭初めてだったっす……」
「それは俺も否定できねぇ……」
「そもそも杉の目にお暮らしの御祖母様にわざわざ一番気の利く侍女を姫につけて欲しいってお願いしたりさ」
「ああそんなこともあったっすね……」
姫からお礼に贈られた狭織をずっと腰につけてたりしたよね」
 あの独眼竜が! 佐助はなんと言ってよいやら分からず額に手を当てて下を向いた。内偵に忍び込む度に別の女が侍り、そして無碍に扱うところなど何度となく見てきた。だから知っているのだ。政宗がいかに女に冷淡であったかを。
 奥州派の面々の言葉に佐助は解れた筈の思考の糸がまたぐちゃぐちゃに絡まり合いあっけに取られた。軍神は判らないがかすがも恐らくそうだろう。
「なにそれ、純愛くさくて誰? って言いたくなる」
「俺らも散々思ったよ……」
「あのりゅうがあいをしりましたか、ふふ、よきこと」
「はいっ謙信様っ」
 正直、今は軍神様とかすがには黙っていて欲しかった。二人の存在を脳の隅に追いやって真田忍隊の長は思考をまたまた目いっぱい巡らせる。
 嗾けてくれてありがとう? よかった? 一年間女ッ気がなかった? 純愛くさい?
 理由もなく何か嫌な汗が出て、脳裏に浮かんだ疑問を恐る恐る口にした。
「ちょっとまって、何かいろいろ見逃しそうになった気がするんだけど、姫今まで手を出されていなかったとでも……?」
「うん」
「っす」
「君の一言で火がついたよ」
「『臥所でしがみ付いたりして来なかった訳?』とか、『俺様、竜の旦那より一歩抜きん出てるー?』とかっすねぇ、きっと」
「う、嘘だろおおぉおおぉお!!」
 絶叫した。まさか本当に図星だったとは。
「最近やっと寝所が一緒になったんだけど朝は変わりなく二人とも出てくるからあーなんも進展なさげだわーってお互いの侍女や近自習なんかもみんなヤキモキしてた訳。でも今日は明らかに寝不足な梵が姫臥せってるから寝かせとけって言ってたし!」
「んなっ!」
「おいこらもう黙れ!」
 家の恥というよりが気の毒になったらしい小十郎に、成実と左馬之助は同時にこめかみを攻撃され悶絶する。成実の発言に思わず声を上げてしまったかすがは頬を染め下を向いている。佐助は頭を掻きながら何を問うたらよいか考えあぐねた。
「えー、あー、姫は無事なんだろーね?」
「た、多分無事……いや無事じゃないかも、湯殿で倒れて騒ぎになったし」
「助けに行った筆頭に抱えられた時は声枯れてたっすね」
「なっ!!」
「ぐはっ!!」
 止めだ。免疫のないかすが共々直撃を食らった。
「な、なんて破廉恥なんだっ!」
「成実殿、左馬之助、覚悟は出来てるか?」
 おまえは俺様の主君ですかとか、悪餓鬼の説教はお外でお願いします、などと突っ込む気はもうない。かすがはわたわたし、佐助は畳に突っ伏した。
 にわかに起こる喧騒を余所に、障子の向こうに近自習らしき気配がする。
「謙信公、申し訳ありません。わが主君は所用によりしばし猶予が欲しいと」
「かまいませんよ。いっそあすにいたしましょう。わたくしもじょうかけんぶつなどさせてもらいたいとおもっていたところです」
「はっ、お心遣い痛み入ります」
 謙信は立ち上がり、涼やかに笑んだ。
「では……まいりましょう」
「佐助」
 かすがなりの気遣いだろうか。ごめんでも今は無理。突っ伏したまま手を振った。
「俺様今父親の気分……」
「は?」
「そっとしておいてやるのがよいやもしれません」
「はぁ」
 謙信らの足音が遠のくのを聞きながら、未だに伏せたまま再起する気が起こらぬ佐助は何ともいえぬ気分だった。
「だ、大丈夫っすか、この人」
「あらー……」
「軍神が言っていたろ、そっとしといてやれ」
 右目の旦那どうもありがとう、今すっごく男前だよ。
 成実と左馬之助を引きずりながら悠々と出て行く小十郎に謝辞を送りながら佐助は大きな溜息をついた。

- continue -

2012-01-21

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