紅花栄(九)

 それから政宗はを寝所に押し込んで薬湯を飲ませた。疲れを帯びた身体は寝ても寝足りないようですぐに寝息が聞こえるようになる。昨夜から急に饗応役が足りぬという名目で駆り出されていた喜多が戻ってきて何か言いたげに青筋を立てていたが侍女頭が実に巧みに誘導して事なきを得た。
 広縁に控える近自習が落ち着かぬ風で座しているのに気付くと、政宗は放り出してきた用事を思い出して扇をぱちりと鳴らして告げる。
「所用により暫し猶予が欲しい、時間の目処が経たぬ故ゆるりと寛いでくれ、と」
「はっ」
「それから暫く人払いだ」
「御意」
 足早に近自習と侍女の衣擦れの音が遠ざかると、眠るの頬をそっと撫で首を振った。
「だせぇ、本当に無理させちまった」
 昨夜の情交を振り返れば、伏せる妻への申し訳なさに居心地の悪さを覚える。初めてであったのに自分を呼ぶ声が愛おしくて聞きたくて何度も抱いた。破瓜の印が痛ましく、優しくしてやりたいのに止まれなかった。現金なものだ。愛しさを自覚した時には心が欲しかったのに、心を手に入れたら身体も欲しくなった。その身にしかと己がものだと刻んでやらねば気が済まなくなったのだ。心さえあれば満足などというのは全くもって幻想だ。
 女を抱いたことなど棄てる程ある。欲の捌け口にも軽い遊びにも不自由をしたことはない。なのにこれほどまでに焦がれたことなどただの一度もなかった。
 武将として名声、天下を狙えるほどの国力、それを補う富、信じるに足る家臣、見目麗しい女達。男として欲しい物は揃っていた。だが、ふと省みれば何かぽっかりと空いたものがあった。天下を狙う焦燥かとも思えたが何時の頃かそれが情愛だと気付いていた。いつか伴侶たるひとが埋めてくれるとも。
 しかし女はどこか信用できなかった。母のような女も側室のような女も、皆利害があって城にいるだけの女達だ。
 けれどは違う。
 保護という名目で多少の思惑もあったが自分の意思で傍に置くと決めた。
 そうして傍に置いて知った。
 母のように実家の為に意見し美醜が気に入らぬと口汚く罵倒する女でもない。
 側室らのように己が家の繁栄の為、自らの栄誉の為腰をくねらす女でもない。
 実家を滅ぼされても憎悪も向けず、かといって媚も売らず、自分が手を離せば露と消えてしまいそうなくらい嫋やかな、だが簡単には堕ちない女。
 そうだ。最初は婚礼の夜、自分の首を掻けばよいと言った時だ。傷ついた顔をして恐ろしいと襖の裏に逃げ込んだ。人を恨み手に刃を握ることを恐れ、震えながらも涙を見せまいとする姿はなおも美しかった。
 こいつだと思った。
 気付けば自分が堕ちていた。この女だけは違う、失うまい、そう決めてからはひたすら待った。近づけばその身を我が物にしたい衝動を必死に抑え愛しみ、心の雪を溶かしていつか自分に向き合って欲しいと願った。
 掌中の珠のように扱おうと心密かに気にかけていた彼女が織田に襲撃され敵の手に堕ちたと聞いたときには我を忘れた。漸く手に入れた安寧を横から掻っ攫われるのかと焦慮に駆られ小十郎の制止も耳に入らなかった。
 駆けつけた自分の姿を見とめて名を呼ぶ姿も魔王の妹の囁きに動揺する姿も愛おしかった。伊達男の名などかなぐり捨てて、自分のものに手出しをするなとばかりにあの妖婦に刃を向けた姿は、心根を覗いた者にはさぞ滑稽だったに違いない。
 もう分かっている。彼女こそが自分にとってただ一人の人。
 が自分を慕ってくれていると彼女自身の口から聞いたときどれ程歓喜しただろう。少し身を寄せれば慌てふためく様も自分を見上げる眸も新たな一面を知るたびに嬉しかった。徐々に警戒を解いていこうと思いながらも、心を手に入れてからは不安になった。
 慕ってくれても何時か実家を想い苦しみ、母のように我が身から離れていくかもしれない。そうなったとき自分は諦めきれず力ずくで止めるかもしれない。そうなる前に、一線を引いて手出しはすまい。夜毎眠る彼女を腕に掻き抱きながらそんな考えを抱いたことさえある。
 彼女は笑うだろうか、昨夜あれだけのことをしておきながらこの独眼竜が手出しすることを躊躇していたなどと。
「まあ、笑っちまうよなぁ」
 政宗はの唇を一撫でした。ぐっすりと眠れているだろうか、それとも何か夢でも見ているのだろうか。
 は以前、夢ならば醒めなければ良い、と言った。今は自分がそう思う。目を醒ませば愛を語るこの唇も、確かに腕に抱いたその身体も砂のように消えてしまうのではないかとさえ思える。
 情愛とはこんなにも切なく心を疼かせてそして甘いものだったのか。
「……あの、政宗様?」
「Oh―― 悪い」
 触れすぎてしまったか、いつの間にか彼女は目を醒ましていて不思議そうな顔をしている。擦れていた声は先程よりは戻っており政宗は内心安堵した。
「気分はどうだ」
「少し……へんな感じです」
「そうだろうな、何かいるか?」
「いいえ、今は何も」
「して欲しいことがあったら言えよ?」
「はい」
 は恥ずかしそうに衾で口を隠して政宗を見る。嫌われた訳でも拒絶された訳でもないらしい。政宗はふと懸念を思い出して口火を切った。
「そういえば……悪かったな」
「はい?」
「聞いたぜ。雷苦手なんだろ? 今まで近くで鍛錬してたから怖かったろ」
「え?」
「Huh?」
 のきょとんとした顔に政宗も釣られて左眼を屡叩いた。
「猿の奴が雷が鳴ると部屋の隅で縮んで震えるほど苦手だと……」
「? 何の話で御座いますか?」
 は本当になんのことか分からぬようで首を傾げしばし思案したがふと表情が変わる。
「あ、」
「ん?」
「お恥ずかしゅうございます、それは子供の頃の話でございます」
「子供の頃?」
「はい、もうずっと前のことです。今はもう大人ですから震えるほどでは――どうなさいました?」
 苦笑しながらそう答えると何故か額に手を充てて下を向く政宗には益々首を傾げた。
 ……っ野郎!!
 対して政宗はそう心中悪態を吐きながらあの小憎たらしい忍びの顔を思い出していた。完全に一杯食わされた。それだけではない挑発されて嫉妬に狂い焦りに対してはこの様だ。
「政宗様?」
「いや……」
 陰鬱になってしまいそうな政宗とは対照的に鈴を振るような声が耳に触れる。
「父君様の脇差、本当にお預かりしても良いのですか?」
「ああ」
「とても嬉しゅうございます」
「アンタは……」
「はい?」
「いや、匕首はそのうち誂える。それはお守り代わりにでも飾ってな」
「心得ました」
「そうだな、どんな柄がいい?」
「……政宗様が下さるならなんでも。でも、ちゃんと竹に雀の御紋が入ったものが良いです」
「ああわかった。kittenが俺のもんだって一目で分かるようにとびきりのやつを誂えてやるよ」
 相好を崩す彼女に自分はこれから何度見惚れるのだろう。微笑む妻に口付けをしながら腕の中の幸せをかみ締めた。
 と、同時に佐助への報復に思案を巡らせる政宗であった。

- continue -

2012-01-14

**