紅花栄(七)

 夜の帳が降りて随分経った。
 政宗は客人らと夕餉を共にした為、は近頃では珍しく一人で夕餉を取り、日頃は彼に遠慮して後から浸かる湯を先に堪能した。文机の先の障子をほんの少し開け、湯上りの火照る身体を涼しい夜風に晒しながら揺れる灯台を眺める。
 その為様に灯りが暗かったかと気を回した侍女が菜種油を差しに来てはふと、
「政宗様は今宵は何時頃来られるかしら」
と問うた。侍女は少々困り顔で、
「今宵はお客様と難しいお話をされているやもしれませんので何とも」
と答え遠慮がちに下がっていった。
 それもそうだと思い直し、ほうと息を吐く。
 今日は本当に心の痞えが取れた一日だった。姫と佐助の無事を知ることが出来たのだから。伝え聞いた姫の様子、そして再会した佐助の様はの知る二人のままだった。戦は人を変えてしまうとはよく言うが心根の変わらぬ二人で居てくれて嬉しかった。
 政宗が今宵こちらに来てくれるなら夜半となろうとも待って一番にお礼を言わなければ。彼が許可してくれなければ知ることも出来なかったのだから。
「でも……」
 謙信の前で話したあの日の顛末を聞いて彼は不快感を覚えなかっただろうか。思い返せば何故残ったか、政宗に叱られ推測されはしたが、自身の口からすべてを話さねばならぬほど言及されなかった。それは彼なりの配慮であったろうと思える。
 だが図らずもの口からでなく、軍神の口から聞いた今となっては一年余り保護した女に後味の悪い隠し事をされたと感じたかもしれない。
 もしそうだとしてどう言えば良いのだろう。兄と姫の仲を話しても結果的に攻め手であった政宗をなじるようにしか聞こえない気がする。自分達は永きを共にした夫婦ではない。これを思い出として語るには余りに青く未熟すぎるのだ。

 白小袖姿に羽織った打掛を掛けなおし文机に置かれた書物を見る。政宗を待つ間は大抵読むのだが今日ばかりはその気にもなれない。掛衿を胸元に引いて我知らず懸念が口を吐いた。
「政宗様、怒っていらっしゃるかしら」
「怒っちゃいねぇが……まあ面白くはねぇな」
「!」
 情けなくも思わず身が跳ねた。驚きを隠さぬままそちらを見れば、いつの間にか開け放たれた襖にも凭れ掛かり腕を組む政宗の姿がある。
「今夜はもういい、休め」
 を見ながら控える侍女らにそういい含めると敷居を跨ぎ寝所へ入ってくる。侍女らはそれを受けて一礼すると襖も、が少し開けていた障子も閉めて足早に去って行き、近づく政宗には慌てて頭を下げた。
「お戻りなされませ」
「ああ」
 どうしよう、気を損ねている。侍女達は皆下がってしまったし助け舟も出そうにない。
、顔あげろ」
「はい」
 聊か憮然とした声がして逃げ場がないことを悟り言われるままに顔を上げれば、立て膝姿の政宗がじっと見ていた。何時になく硬いその眼差しに、心細くなってしまったのは仕方ないことだった。
っ」
「――!」
 心ともなく視線を逸らそうとするの両肩を政宗が掴む。
「そんな顔するな、怒ってねぇって言ったろ」
 そうは言うがやはり彼の表情は硬い。それは出会った当初の彼を思い起こさせて身を竦ませた。何を此処まで怯えるのかと自分でも戸惑いは隠せない。彼の怒りか、否、嫌われることだ。
「お許しくださりませ」
 それこそ、消え入りそうな声で懇願すると政宗は目を見開いた。
「……Ah――」
 舌打ちして、髪を掻き上げて、一呼吸置くと先程とは打って変わって優しい手付きで頬を撫でてきた。
「怯えんな、頼むから。それなりに傷つく。怒ってねえのは本当だ。どんな顔していいか自分でも判らなかっただけだ」
「ごめんなさい……」
「手、出しな?」
「? はい」
 首を傾げ両の手のひらを差し出すと、政宗は自身の腰に差していた脇差を外しの手に添えた。見れば彼の持ち物らしく洒落たもので竹に雀の家紋も螺鈿で丁寧に細工が施してしてある。
「脇差を女のアンタに持たせるのは物騒だが持ち合わせがねえ。暫くこれで我慢してくれ。まあでかすぎて懐には入れれねぇな」
「政宗、様?」
「これは親父から貰ったもんだ」
「そんな大切なお品」
、野暮はなしだ。猿から聞いた」
「あ……」
「――だから俺が親父から譲り受けたこれをアンタに持たせるだけの価値はあんだよ」
 合点がいった。匕首のことを佐助は政宗に話したらしい。夫はそれを受けて覚悟に見合うだけの想いで報いてくれようとしているのだ。それをあの日のことを話さなかったことを咎めているのだと思うなど彼をどれだけ器の小さな男と捉えていたのだろうか。
 恥ずかしくて申し訳なくて政宗を見上げると、彼は目を細め頬に手を添えてきた。何も言わなくても良いと言うかのように、親指の腹が花唇を撫でてきて彼も笑む。
「だがな、捨てなくていい」
 低い、けれど優しい聲が耳を伝っていく。
「幸村の想いまで捨てなくていいんだ」
「――っ」
 脇差を渡されたままのの手を取ると、今度は所縁深いあの匕首をそっと添えた。触れる手がとても暖かい。
「正直に言う。猿から聞いたときすげえ嬉しかった」
「ま、さ……」
「俺を好いてくれたのは分かってる。だが愛おしいと想う気持ちと恨みってのはどう足掻いたって別の感情だ。可愛さ余ってって言うだろ? 複雑な感情は生涯付きまとうだろうと覚悟はしてた。だがアンタは俺のことをなじりもしねぇでそんなこと考えてたのかって。そう思い至るまでにアンタはどれだけ悩んだんだろうな」
 手渡された脇差と匕首を胸に当てて政宗の一挙手一投足を見守る。
「俺は俺でな、アンタが俺の処にいたら辛くなるときが来る。だからいずれは手放せるようにしなければいけない、そうとも考えたんだぜ」
 瞼に熱が帯びるのを感じる。
「だがもう手放せねえ、傍に置いておくだけじゃ足らねえ」
「……っ……」
「泣くな」
 嬉しいからです。
 言わなくてはと思うのに胸が詰まり声が出ない。震える唇をまた政宗の指が伝い、頬を撫でる。あまりに優しい手つきに、只々心が溶けてゆく。政宗の腕が背に回されて彼の鼓動を感じ名を呼ばれ顔を上げると、彼の唇が優しく触れてくる。それが啄ばまむような口付けから貪るように変わっていき、暫し開放されたときには息が上がっていた。
「っ……ま、さむねさま……」
「俺は十分待った、嫌なら逃げろ。俺は止めねえ」
 これから何をされるかなんて分かりきったこと。恐ろしいが拒絶する理由などもうない。彼は少し困ったような顔をした。
「だが、拒んでくれんな」
 それはもう懇願に近かった。返事を待たず再度抱きしめられ、は手にした脇差と匕首を横に置くと空いた両の手を彼の背中に回した。
「俺も情けねぇな」
 そう言うと彼は我が身を横抱きにして隣の間へと攫ってゆく。敷かれた褥にゆっくりと押し倒されて視界に映るのは愛しき背の君の顔。艶やかに笑う政宗に侵食されるのを感じながら、は目を閉じた。

- continue -

2011-12-24

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