「――姫ちゃん」
「はい」
「外が怖い。あの人殺気全開なんだけど」
「ぁ」
佐助がに触れたことを咎めているのか、襖の外からはえも言われぬ気配が漂っている。
「それだけで殺られそうだわ。流石右目の旦那のおねーさん」
「心配してくれているの。怒らないでね」
困ったように口に手を添えて笑う姿に、佐助は目を細めて頷いた。
「綺麗になったね、姫。一年見ないだけだったのに。女の子は変わるなぁ。――ちょっと前まで俺様や旦那の目盗んで城下に下りて旦那に怒られたり、もっと小さい頃はお館様の兜の毛むしって遊んでさ可愛いいたずらしてたのに」
「ちょっ! そんな昔のこと!」
懐かしい再会の場で何を言い出すのか。喜多達が控えてるのになんて手痛い暴露をするのだ。そうだった、この人は優しいが時に意地悪だった。
「竜の旦那にはどんないたずらした?」
「し、しません!」
むしろ際どい悪戯をされているのは自分の方だ。日々されたことを思い出せば顔は朱に染まり茹蛸のようになる。恥ずかしさにかまけて言えるはずもなく口をパクパクさせると、佐助は安心したように息を吐いた。
「姫、良かった。ちゃんとそういう顔出来るね? 能面になっちゃ駄目だよ? ちょっと心配してたんだよね、評判聞いてさ」
”真田の姫は京の血に違わぬ奥ゆかしい姫御前。けれど頼りなげなその様は泡沫夢幻の如し。”
佐助が越後で耳にしたの評判はこうだった。お転婆と言う程ではなかったが可愛らしくコロコロ笑う姫だったのに、まるで違う評価に身が案じられたものだ。人を痛めつける方法はいくらでもある。その身が無事でも心を壊されていないか、彼は幾度となく気を揉んだ。ただの嫁入りなら正室として自覚が出来たかと喜べたのだが。
「俺様の知ってる無邪気で可愛い姫は何処にいったんだろうってね」
「佐助……」
「ん? 俺様やさしーでしょ?」
その通りだ。忍びであるが故、時として冷酷な一面を持つ彼だったが、には底抜けに優しかった。佐助からすれば家を継ぐ必要のない主家の姫、厳しくする必要がなかっただけかもしれないが、は彼が大好きだった。
子供の頃から聞いた優しい声音でもう一言慰められたら泣いてしまうかもしれない。それでは駄目だ。何時までも彼に心配をかけてしまう。すでに雇い主であった真田家は無い。程なくすれば彼もまた別の家に仕える筈だ。ひょっとしたらもう他に決まっているのかもしれない。そんな相手の心に掛かるようなことは出来ない。彼にも里と抱える忍びがあり、とは別の道を歩むのだから。
「姫、俺様御遣いがあったんだ」
「御遣い?」
「ん、流石に旧知の仲とはいえ会いたいって理由だけで忍びが堂々とここにはこれなくてさ。まー甲斐なら普通なんだけどね。で、軍神に形見を預かってくる役を貰ったって訳」
でまぁ成り行きで黒脛巾組さん寝かしちゃったんだけど、と気まずそうに頬を掻いた。
「渡すもの、決まった?」
「ええ」
はそっとそれを広蓋に詰め差し出した。佐助はまじまじとの顔と広蓋の中身を見る。
「これって」
「兄様の御遺髪と、兄様が姫様に贈った打掛です」
「旦那……」
佐助の眸が一瞬揺らぎ、対してはひどく寂静に語りかけた。
「覚えている? 姫様はあの日、これを着ていらっしゃったわ。とても大切にされていたけどお逃げになるには目立ちすぎる、それ故私がお脱がせしたの。そして私はこれを着て姫様のふりをするつもりでした……」
忘れるはずもない、と佐助は独り言つ。あの時の悲壮な姫の顔も、ただ愛らしかっただけのが見せたこれ以上にないくらい覚悟を決めた顔も、どちらも見たくなかった表情だった。
「でもそれは愚かでした。政宗様に大層叱られました」
緋色に牡丹の文様の打掛を撫でながらは柳眉を下げる。こんな表情をする人になったのかと佐助はただ黙って見つめた。
「袂に……血糊が付いてしまったの。兄様の血です。仏門に入られた方には物騒かもしれません。悲しみを誘うかもしれません。けれど、兄はこれを選ぶ時、姫様の為にと、とても心を砕いておりました。だから今お返しすべきだと思うのです」
女子のことには不器用な幸村が、朝な夕なや佐助をはじめ家中の者を片っ端から捕まえてどの柄が良いかと問うて何日もかけて選んだものだ。皆苦笑し蔭ながら応援した。もう迎えることのない上田での懐かしい日々が二人を過ぎる。
「これ以上にない品だと思うよ」
佐助はおどけた様に笑顔を貼り付けたがすぐに目を伏せた。手は、少しだけ震えている気がした。
「らしくないね、俺様も」
「佐助……」
「ごめんね、姫」
「佐助は謝らなきゃならないことなんてしてないわ」
「……姫」
「そんな顔しないで」
兄幸村の命を受け落城の前夜、佐助は姫を連れて落ち延びた。彼のことだ、最後まで幸村に付き従う気で居たのかもしれない。命は果たせたが最後を共に出来なかった彼の悔恨を察するに余りある。それ程忍隊と真田家の情は深かった。
「佐助、貴方にも渡したいものがあります」
「俺様に?」
は佐助ににじり寄るとあの懐の匕首を取り出し彼の手に添えた。
「姫、これは」
「兄様に頂いたものです」
「知ってるよ。これはね、鬢批じゃなくて本当は嫁ぐ時に渡すつもりで誂えたんだよ。装飾すごく綺麗でしょ?」
「ええ」
「だからこれは」
「佐助」
「ん?」
「私、これにずっと縋っていたの。悲しくて寂しくて。でも泣き喚けば真田の娘はなんとつまらぬと兄様の名を貶めるかもしれない。真田の女としてそんなこと出来ないって」
佐助は黙って、肩を震わせるを見た。
「泣かない為の、挫けない為の拠り所にしていたわ。でもそれは違うの。それでは何時まで経っても真田の女のまま。誇り高い武人の兄様が恥を忍んで私を政宗様に託して下さったお気持ちも分からない性根の座らぬ愚か者のままなの。――だから」
にとって匕首は真田の名と兄の具現だった。伊達の者の前で泣かぬ代わりに何かあればこれを手に取り覚悟を決めた。伊達にあって政宗の庇護にありながらも政宗に心許さず、僅かに沸いた思慕も、揺れに揺れた心もすべてこの匕首に隠した気がする。
匕首に添えられた手にわずかに力を感じ佐助は目を細め、の言葉に静かに相槌を打った。
「これはもう私には不要のものです。不要にしなくてはいけないもの」
「私は伊達の女になります。政宗様のお傍で」
「姫……」
「もし、また匕首が必要だと感じたら竹に雀のものを頂きます。でも、死ぬ為ではなくて生きる為に使います」
そう言って顔を上げた彼女の眸は滴に濡れながらも穏やかで、口元には零れるような笑みが覗いていた。佐助はつられるように微笑んだ。
「そっか、ちゃんと真田の旦那の気持ち解ったんだ。竜の旦那のとこで生きていく決心がついたんだね」
「はい」
「旦那ね、最後まで姫のこと考えてたよ。でもあの人のことだから多分別れ際まできちっと言わなかったんじゃないかな。まー俺様の愚痴みたいなのでも聞いてくれる?」
は黙って頷いた。その顔には昔の無邪気さはやはりなく歳若い女性の艶やかさが垣間見えた。
「旦那ほんと不器用なんだよね。見ててハラハラしてた。本音と建前の板ばさみ……違うな旦那の場合は両方本音なんだけど。本当は心配で姫と一緒にすぐに逃がしたいって思ってたのに忠義が邪魔して言えなくて落城の間際まで決断できなかった。まー、最後に決断できただけでも褒めてやりたいよ」
佐助は匕首に視線を落とした。
「お館様の姫さん逃がすって決めた後あれこれ思案したみたいでさ、姫のことは竜の旦那に頼むって言ったんだ。落ちる城の中をただ逃がすよりそのまま竜の旦那の手元にいたほうが安全だしね。あー、旦那は最初からそのつもりだったのかもしれないな、単純そうに見えて結構考えてる人だったから。……俺様もまだまだだね」
逃がしてくれと命じられたなら母方の実家にでもすぐに連れて逃げただろう。権力はなくても京の公家衆だ。余程のことがない限り出せと圧力もかけられまい。ほとぼりが冷めたらどこぞの家に嫁ぎ子を産み、天下取りの濁流に飲まれることなく平穏な人生が送れたかもしれない。
でもその生より、政宗に預けたほうが道が開けると幸村は思ったのだろう。政宗の評判を知らないはずはないのにそれでも彼に望みを繋いだのは、幾度となく好敵手として渡り合う中で、妹を託すに値すると感じる何かがあったのだろうか。
ややあって佐助は首を振った。
「柄にもなく言いたいこと纏まんないや。でもね、きっと旦那は喜んでるよ。望むとおりになってくれたって」
「そうだと嬉しいわ」
は佐助の言葉の一つ一つを胸に刻みつける。彼と幸村を忍ぶなどもうないかもしれないのだから。
「佐助」
「うん?」
「佐助、あの……」
帯に右手を添え、心に爆ぜる言葉を旨く繋ぎあぐねるに佐助は柔らかく笑んだ。いいんだよ、よく頑張ったね。彼の形の良い唇がそう動き、の心の箍(たが)を簡単に外してしまう。
「佐助っ……」
「泣かないで、笑って見送って、ね?」
言われるまま懸命に笑めば佐助は静かに頷いて音もなく立ち上がる。
「さて、と。じゃあ形見は頂いてくよ。この匕首も」
が瞬きをした次の瞬間には、彼は出口である襖の傍で背を向けていた。
「元気でね姫。……旦那、護れなくてごめん」
再度の謝罪をは黙って聞いた。彼もまた悔恨の渦の中にいる。そうしての返事も待たず、黒い靄が佐助を包んでゆく。彼の姿が消え靄が融けゆくと彼に手渡した打掛に焚き染められた香が名残惜しく香った。
「貴方もお元気で」
ゆっくりと歩を進め襖に手を掛けそう呟けば、傍には口を押さえ下を向く喜多がいる。
「喜多殿、どうしたの」
「だって姫様」
それだけ言って喜多ははらはらと泣いていた。伊達に保護されて以来一番心を砕き世話を焼いてくれたのはこの喜多だ。政宗相手にも物怖じせず壁にもなってくれた。
「喜多殿がいれば、私怖いものなんてないわ」
政宗がいて、自分になにかあれば涙してくれる喜多がいる。それだけでずっと此処に居れる気がした。
- continue -
2011-12-03
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