紅花栄(三)

 名高き軍神から思いがけず主家の姫の無事を知りは眦を伝う涙を止めることが出来なかった。誰からも伝え聞くことも出来ず、半ばその生を諦めていた姫の無事を兄の小祥忌を過ぎた頃に知ることが出来るとはなんの導きであろうか。喜びと安堵が広がり、謙信の言葉そのままに、心に痞えていた憂いが一つ取り除かれた気がした。

 政宗達の前を辞して広縁を渡りながら兄の位牌が安置された一室へと向かう。軍神の、武田の姫の願いをかなえる為に。
 軍神はこう言った。
――おくがた、あなたにたのみがあるのです。なにかとらのわこのかたみになるものをいただきたい。あなたもこちらにこられたみ……おもいでをうばうようでもうしわけないがなにかのかけらでもよいからいただきたいとひめからせつなるねがいをうけました――
 髪を下ろされた姫は未だ兄の戒名すら知らず、仏に手を合わせている日々だという。歳若い姫がなんとお寂しいことかと、あの日逃がしたのは間違いだったかもしれないと悔やめば、自分の心を覗き見たかのように謙信は微笑んでいた。
――ゆきむらへのおもいがあるからへいき、なのだそうですよ――
 その言葉に兄と姫の繋がりがとても固いものであったことを思い出し、涙に濡れた花唇にも少しだけ笑みが宿った。
 あれだけ想い想われていた恋人達であったのに死が二人を別ってしまった。そんな強い言葉を言えるまであの御方はどれだけ嘆かれたのだろう。
 は足を止め日の暮れ掛かる庭に目やり、もう会う事もないであろう御人を偲んだ。

「喜多殿、紙と筆を先に用意しておいてください」
「かしこまりました」
 喜多が一礼し動き出すと、は侍女と共に目的の部屋へ足を踏み入れる。
 兄の位牌を安置する厨子の横には長櫃が置いてあり遺品の殆どはそこに入れられていた。は神妙にそれに手を掛け蓋を持ち上げと侍女たちが慌てて傍に寄ってくる。
「あ、そのように大きなものは私共が」
「いいの、私がやりたいの」
 奥州へ来て兄の仏前に佇むことは何度もあった。けれど気付けばこの長櫃を開けることは終ぞなかった。開けてほんの一瞬でも懐かしい兄の痕跡を目にしてしまえば声を上げて泣いてしまいそうだったからだ。でももう、憂いと共にそれを断ち切らねばならない時期に来ているのかもしれない。
 中身をそっと取り出していると遠慮がちな若い侍女の声が耳を打つ。
姫様、あの、僭越ながらそちらを本当にお渡しになるのですか?」
「ええ、私の手にあるよりあちらにあった方が兄も喜ぶわ」
 そのうち喜多が戻ってきて文机に紙と筆が用意されると静かに筆を走らせた。
「私共は外に控えておりましょうか? 積もる話をお書きになるには気が散りましょう」
「戒名を書くだけだからもう済みます」
「御文を書かれても政宗様は何も仰らないと思いますよ」
「あちらも御文は添えてらっしゃいませんでしたし余計な言葉はきっと不要です」
「まあ、左様でございますか」
「十分です。ご無事が知れただけでも」
 実際、何を書いても互いの傷を舐めあう言葉しか出ない気がする。自分の無事を喜んでくれた姫の、兄の形見が欲しいという気持ちに答えることが一番相応なのだ。

「うーん、でも俺様姫とおしゃべりしたいから人払いがいいなぁ」

「――え」
「っ! 何者か!」
 途端、ビュウッと突風が起こった。
 思わず顔の前に出した手の隙間から黒い靄が起こるのが見て取れ、あっと声を上げた。
 風が止む頃、細めたの眸に映るのは橙の髪、忍びとはおおよそ言いがたい目立つ装束、人懐っこい笑みがそこに在った。その姿形、纏う気配、すべてを忘れるはずがない。
「さ、すけ?」
「はーい姫ちゃん」
 だが喜多はを庇うように前に出て、訝しむように突風の原因を見据えた。
「其方は何者か! 黒脛巾組は如何した!」
「あはー、喜多さんだよねこんにちは。俺様は猿飛佐助、真田忍隊の長やってましたー。姫のことは乳飲み子の頃から知ってまーす。それからそこらにいた黒脛巾組さんは一応許可貰ってるって言ったんだけど襲い掛かってくるから仕方なく寝てもらってますー」
「なんですって!」
 伊達が誇る黒脛巾組を難なく伸したという侵入者に対し、流石竜の右目の姉と言うべきか、喜多は一歩も引かない。喜多の剣幕にはっとして控える侍女達は懐に手を添えた。対して、の知る佐助は記憶そのままに忍びらしからぬ言動でかわすのだ。
「やーんこの人怖い! 姫ちゃん俺様無害だって言ってやって!」
「あ……喜多殿、この方は私のよく知る方です。皆も懐のものから手を退けてください」
「そう、でございますか、わかりました」
 髪を逆立てんばかりの彼女であったが、奥御殿の主の命ならばと渋々後ろに下がり侍女達もそれに倣う。と佐助の前を塞ぐものはなくなった。だが、佐助はなおも続ける。あろうことか喜多の方を向いて満面の笑みを浮かべこう言った。
「せっかくの再会だから人払いしてくれたら嬉しいなぁ。空気読んで?」
 ね? と笑顔を向ける彼に喜多は眉を吊り上げる。ぴきっと青筋を立てる音が聞こえたような気がした。心なしか侍女らも震え上がっている。成実、左馬之助辺りが見たら逃げ出すに違いない。
「き、喜多殿」
「心得ました。ですけどお部屋の外で控えておりますわ。姫様に不埒な振る舞いはさせません」
 打掛を翻し襖の外に下がるも、彼女から暗雲立ち込めるというかゴゴゴゴと擬音が聞こえてきそうなほど恐ろしい気が渦巻いてるように思えて、は今後の佐助の無事を祈らずにはいられない。
 当の佐助は何処吹く風での前に跪き満足そうに頷くとにこりとした。よく見知った彼の表情だ。敵方からは凄腕の忍びだと、蒼天とも言われた彼であったが、優しい顔をする人だった。
 姫のことと言い彼といい今日は何という日か、懐かしさが溢れ出て止まらない。
「佐助、本当に佐助なのね。ああよく無事で」
「うん、当然。俺様だもの」
 考えてみれば武田の姫が上杉まで逃げられた時点で彼の無事も想像できた。姫は兄の命で佐助に護られて落ち延びたのだから。兄の信頼の通り彼は姫を無事生かした。
「改めて、お久しぶり。――少し痩せたね」
 暗器を扱う忍び特有の手が頬を撫でる。緩んだ彼の表情は親が子に向けるかの如く柔らかいものだった。父も母も早くに亡くなり、兄は愛しんでくれたが弱年故に真田家と主家の行き来で手一杯だった。が寂しい想いをしていると気付いて遊び相手を付けてくれるのは彼であったし、時に彼自身が世話を焼いてくれることも多々あった。彼は優秀な忍びであったけれど、自分にとっては兄でもあり父でもあり時として母でもあった。
 は郷愁を感じ、しばし彼の手のされるがまま頬を預けた。

- continue -

2011-11-26

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