鴻雁北(四)

 瞼にかすかに明かりを感じては身じろぎした。今日は暖かいなと、そういえばもう四月だと遠い意識の先で思考が働く。、と声が聞こえたような気がした。そうして前髪に触れる手を感じると、ようやく誰かに呼ばれていることに気付いた。
「んぅ……」
 ぎゅっと縮こまりそのまま寝伸びをし、ゆっくりと瞼を持ち上げる。視界と思考はぼんやりとして目の前に広がる蒼い布地にまだ眠っていたい、とそっと顔を摺り寄せた。暖かくて心地よくて堪らない。顔を寄せた布地の先を薄目に見れば網代の地紋が入っている。そうしてふと思う。
 蒼い衾なんて持っていたかしら。
「朝だぜ? Kitten」
 ええと誰だっけ、と醒めきらない頭で記憶の断片を手繰る。
 ああそうだ、きとぅんって子猫のことだっけ、あれそれはきてぃだったっけ、そう言うのは……――
「っ!!」
 はたと目を見開いてまじまじと見れば蒼い布は衾などではない。小袖の掛衿だ。そしてそれが誰のものか分からぬでもない。
 どうしよう、顔を上げれない。いっそ寝たふりをしようか。いや狸寝入りを決め込んでもこのまま密着し続けることに変わりはないしその姿を眺められるのはどうしようもなく恥ずかしい。それにきっと目覚めているのはもうばれている。
 一気に脳が働き出すと同時に途方に暮れる。寝起きから嫌な汗を感じながら意を決してそおっと仰ぎ見た。
「……ぉ……おはよう、ございます……」
「Oh――Good morning, darlin'」
「ぐも……?」
「朝の挨拶だ」
 その先には予想通りの人が居て、殿方のくせに妙に目許に色気があって唇は綺麗に弧を描いている。近すぎる程の位置にいるのに綺麗なところしか見えない。対して自分はと思い気恥ずかしくなっていると急に腰を引き寄せられた。顔どころか身体が密着し、羞恥でどうにかなってしまいそうだ。
「!! まっままっ」
「んー? あ、臭うか? 昨日あれから酒呑んだし」
「いえいえいえちが、ちがっちかっいちかっ」
 いえ違うんです近いですなんて他愛のない言葉が出ない。反射的に身を剥がそうとすればいつの間にか肩に回された腕に阻止されてしまう。
「逃げるな、アンタが素直なのは寝る前後だけか?」
「ままっ政宗公……っ」
「No,Kitten.昨日の夜俺がなんて言ったか覚えてるか?」 
「!?」
 そう言われればえらく回転の速い回り灯籠のようにくるくると、そして鮮明に昨夜の情景が思い浮かぶ。は、ああ今日は逆らえそうにない、と観念し首を縮めて夫を呼んだ。
「ま、さむね……さま」
「Good」
 悔しいくらい端整な顔がふっと笑みを浮かべ身を起こす。次いで見惚れるのと恥ずかしさと後ろめたさが入り混じり未だ混乱の真っ只中にいるを座らせると大きく欠伸をした。
「眠ぃー」
「眠れなかったのですか? 私がお褥を頂いておりましたし」
「いや、正直に言うとあれから宴に顔出してな、出たが最後明け方まで開放してもらえなかったんだ」
「まあ」
「一人にして悪かったな」
 自分は寝ていて気付かなかったのだし責める気もないが、おもむろに頬に手を添え顔を近づけられれば心の臓は慌しく波打って何も言えない。お気遣いなくとか気の利いたことが言いたいのに政宗の顔が近づくだけでどうすればいいか完全に頭が真っ白になってしまい首を振るのが精一杯だ。
「す、少しお休みになられますか?」
「Ah――、いや湯浴みにする。昨日は結局入ってねぇからな」
 そう言われてははっとし自分の身形を見る。打掛は褥の横に脱ぎ捨てられていて、白小袖ではなく間着姿だ。昨夜は身支度もせぬまま夫の腕の中で寝入ってしまったのだ。
「一緒に湯殿行くか?」
「っ!」
 口も利けぬ子供でもあるまいに咄嗟にまた首を振った。政宗の機嫌を損ねないかと不安になるも、口元が笑っている彼はの態度を若干楽しんでいる感がある。自分とは対照的に常に余裕のある彼は人差し指をの鎖骨の少し下に当ててこう言い放った。
「そのうち、ココ全部みてやるから覚悟してろよ?」
「ぜっ……」
「逃げるなよ?」
 整った目鼻立ち、纏った蒼は若芽や清水の如く澄み切って涼やかで、眉目清秀とは彼に相応しい言葉だろう。疱瘡の痕なんて問題外だ。そんな眸で言われれば射竦められて動けない。
「Haha! 耳まで赤けぇ」
「そんなことっ」
「アイツの妹だし破廉恥でござるって逃げ出したらどうしようかと思った」
「に、逃げたいです、腰が抜けました」
「そりゃいいこと聞いたな」
 ぐいっとまた腰を寄せられたかと思えばしかと抱きすくめられた。いい加減もうからかわないで下さいと言おうとすれば耳元で、と名を呼ばれる。反則だと思った。
「良かった、魔王の妹の言葉で近づいた距離が遠のくかもしれねぇと思ったがアンタはちゃんと俺の腕の中にいるな」
 反則だ。やっぱり反則だ。少し切なげに低く張りのある声でそんなことを言われたら免疫のない自分は素直になるしかないではないか。
「お傍に、置いてくださいますか?」
「離しゃしねーよ。……あんまりなこと言ってると味見すんぞ」
「あ、味見っ!?」
「あんまりからかうとKittenは毛を逆立てて近づいてくれなくなりそうだからこれで止めとくか」
 悉く、政宗の発言に驚かされていいように遊ばれてる気がした。とんでもない人の妻になったかもしれない……、と内心少し恨めしく政宗を見てやりたい衝動に駆られた。
 そのうち政宗が一つ手を打つと襖の先に人の気配を感じる。
「おはようございます政宗様、姫様、お呼びで御座いますか」
「ああアンタか、朝早くからで悪ぃが湯殿の用意を」
「はい、出来ておりまする」
「流石手際がいいな」
 声から察するに襖の先に居るのは侍女頭らしい。政宗の言葉にも、それを聞いてホホホと笑う侍女頭にも気安さがある。そういえば、と侍女頭は幼い頃の政宗の世話をしていたのを思い出した。
「アンタだけか? 喜多や俺の小姓や近自習はどうしたよ」
「皆撃沈しておりますのよ、珍しく喜多さんですら」
「なんだ、皆酒にやられたのかよ。アンタは大丈夫なのか?」
「ホホ、栽松院様に長年お仕えする私にはあれくらいの量造作もありませんのよ。酒樽ぐらい持ってこられませんとねぇ」
「まじかよ……歳考えて程ほどにな」
 政宗は昨夜瓶子片手に浴びるように酒を呑んでいた乳母を思い出しあれより呑むのか、と半ば閉口した。
「今日は執務も何もかも出来なさそうだな、ったくこんな時に攻められたら終わりだな」
「危のうございますね」
「大丈夫でございますよ。片倉様などは先程から書簡と睨めっこされておられましたし」
「流石竜の右目は一味違ったか」
「ですけど二日酔いを押してのご様子、御目がギンギンでこのか弱い老婆など一睨みされたら吹き飛ばされてしまいそうでしたわ」
「酒樽持ってこいとか言ってる老婆が吹き飛ばされるわけねーだろ」
「あら手厳しい。いま少し優しくして下さいな」
「ったく」
 政宗は参ったとばかりに苦笑して立ち上がった。音を察してか、侍女頭は失礼しますと言い襖を開けた。
「小十郎にどやされねーように寝てる奴らの口に梅干でも突っ込んできてくれ」
「心得ました。どやされる前に終われればよいのですけど」
「An?」
「従軍された方はもちろんですけど御家中の主だった方々まで皆さん寝込まれてますもの。政景様も成実様も綱元殿も。何故か左馬之助殿だけが寝てるというより伸びてらっしゃいましたけど」
「それ、死んでねーか」
「あら大変」
 昨夜喜多に伸された左馬之助を思い出しいささか案じる政宗に対し、侍女頭は白い歯を零さぬよう手を当てて笑っている。政宗はやれやれと言わんばかりに首を振って、に行って来る、と一言告げるとそのまま襖の向こうへ出て行った。
 政宗が湯殿へ向かい、それと入れ違うように付きの侍女達がやってきた。遅いですよ、と侍女頭が窘める前には目を瞬いた。侍女達の口の中には梅干が入っていたからだ。更に続くお小言と酸っぱさに耐える彼女らを見て、侍女頭はよく分かっている、と必死に笑いを堪えるのだった。

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2011-11-05

そういえば筆頭の陣羽織の文様ってなんでしょう?
三成は紗綾形なのは確認したんですが。