それからどうやって行ったかは覚えていない。
行っておいで、と言ってくれた成実に挨拶もせず打掛の衿先を掴むのも忘れて部屋を飛び出した気がする。
妻ならば夫が休めるようすぐ御召し替えの用意をして、何か口に運ぶものも用意をして、ああ外に居たのだから湯殿の用意だってしないといけない。国主の妻として毅然と座して夫が部屋に近づいてきたら嫋やかに頭を伏して。そんな考えが過ぎるのに、私は何故走っているのだろう? きっと呆れられてしまう。だけど足が止まらない。顔がみたい、無事を確かめたい。
普段通らぬ広間を横切り広縁を抜けてただ人の気配がする方へ向かう。きっと喜多は驚いて追いかけて来てるに違いない。
何度か角を曲がって求める人の姿を見止めた途端、止め処なくはらはらと涙が頬を伝った。
「政宗、公っ……」
「――?」
驚いたように彼が振り返った。低く通る背の君の声。
声を聞いたらもう駄目だった、姿を見たら止まれなかった、政宗の胸に飛びついて咽び泣いた。ああ鎧を濡らしてしまう、疲れてるはずだから早く主殿になどと頭の隅で声がするのにどうしても彼から離れたくなかった。
「どうした?」
政宗の手が自分の両腕に添えられた。心配する声音が優しすぎて陣羽織をぎゅっと握り締めた。これでは子供のようだ。
「お怪我、は?」
「見ての通り傷一つねえよ」
「……っ良かったっ」
「本当にどうしたんだ」
泣き顔のまま見上げれば、当惑と案じる気持ちを織り交ぜたような表情とぶつかる。それはそうだ、今まで彼にこんな姿見せたことがない。
「私、ずっとっ……」
「Um?」
一月も城を空けた政宗の顔には疲労の色が見える。支城を転々とし野営だってしただろう。きっと今言うことじゃない、けれど今言わないと一生言えない気がしては吐露する。嗚呼、こんな時までこの人に甘えてる、と思いながら。
「貴方への恨みつらみを隠してきました。自分でも気付かぬ振りをして。気付いてしまったら、恩のある貴方に顔向け出来ないことを仕出かしてしまうと思ったから」
「ああ」
「感情のまま泣いて喚いて同情を誘うのも、貴方に刃を向けるのも、真田はなんとつまらぬ娘の命乞いをしたかと謗られる気がして、ずっとずっと目を背けてきました。けれど」
政宗の手が頭を撫でてまた胸元に引き寄せられる。は抗わなかった。
「貴方を恨みたくないのに、慎ましくいたいと思うのに言葉が止まらない、どうしていいかわからない」
「……」
いつも鋭いと感じる隻眼はその鳴りを潜め、眸に優しく妻を映す。
「そうだ、吐き出せ。俺がアンタの兄と主君を殺した、城も国も俺が落とした」
「会いたい……、兄様、佐助、お館様……」
「ああ」
「か、ぇして……かえして、会いたい、兄様、寂しいの、一人は嫌」
「死んだんだ、死んだものは返してやれねぇ」
聞き分けのない幼子のように落涙するを政宗は両の手で抱きしめた。篭手も手甲もしているはずなのに武骨さをまったく感じることはなかった。暖かく何処までも優しい。
「だがアンタには、――俺をやる」
「こ、う?」
「俺はこの奥州の国主だ、この国の奴らや攻め滅ぼした国の奴らの為に生きなきゃなんねぇ。生きて、生きて、戦乱を終わらせる。だから命はやれねぇ」
彼の手がの髪を何度も撫でる。
「だが傍にいる、ずっとアンタの傍にいる。独りにはしない。俺の番(つがい)はアンタだけだ」
はゆっくりを顔を上げた。眸に映る政宗はひどく穏やかで、その色の深さに心が爆ぜる。目頭が一層熱を帯びて涙が溢れ彼の姿が歪んでいく。その言葉が嬉しくて。その眸が優しすぎて。
政宗はの顔に右手を添えて涙を拭うと、そっと頬に触れてきた。
「伊達藤次郎政宗は、アンタのもんだ」
「――」
「真田幸村の妹姫、は奥州筆頭の俺を恨んでくれればいい。だが、伊達藤次郎政宗の正室は、俺だけのもんであってくれねぇか?」
「公っ……」
「俺は正直、アンタじゃなければ駄目なんだ」
愛しい人の端正な顔が、形の良い唇がそんな言葉を紡ぐ。
幸せすぎて死んでしまいそうだ。こんなのは夢だ。夢だから素直になれるのかも知れない。の花唇は震えた。
「兄様に会いたいと思うのに、貴方は仇だと思うのに、貴方がいないと寂しかった。傍にいて欲しかった」
「うん」
「恨みより愛しさが勝ってしまって、酷く不実でそれを思うたびに苦しかった」
「うん」
「私は、武田で一番の裏切者になってしまいました」
「ああ」
そう言うと政宗はを横抱きに抱え上げた。思わず悲鳴を上げそうになったがすぐに背に感じる彼の腕にひどく安心してしまった。
「初めてだな、俺の前で泣いたのは。いつも蔭で隠れて泣いていたのは知っていた。もう隠すな。罵倒だって構わねえ、全部聞いてやる。俺を頼れ」
武田の滅亡を知らされたときは誰も居なくなった陣幕の中で泣き、兄の遺体と引き合わされた時は敵に見せる涙はないと必死に堪えた。城に残ったことを咎められた時は声を殺していたし、祝言の夜は政宗に背を向けて、耐え切れず零してしまった涙を見せまいとした。知っていた、この人はちゃんと見ていたのだ。こんなにも案じてくれていたのにどうして意地を張ってしまったのだろう。この人の腕はすぐ近くにあってこんなにも暖かかったのに。
政宗の腕に包まれては泉下の人となった者に想いを馳せる。
――兄様ごめんなさい、仇に心を寄せてしまいました。
亡き人の顔が過ぎれば只々、雫が伝う。だが眸から止め処なく落ちるこの水滴に苦渋が何もかも流れてしまうような、そんな感覚を覚えて拭いもせず夫に総てを預けた。
対して自分の首に腕を回して縋って泣く妻の姿に、本当に子猫になってしまったと政宗は眦を下げる。そして聊か困ったように口を開いた。
「アンタが感情を露わにするところを見てみたいと思ってはいたが、いざ泣かれると心が痛むな」
「言って、ること、違うっ……」
嗚咽に、ああそうだな、と頷いて政宗は後ろを向いて声を張り上げた。
「おめぇら! 蔵にある酒思う存分呑め! 小十郎! いいの見繕ってきてやれ! それから奥の連中にも声かけろ! 無礼講だ、楽しめよ!」
「はっ」
「うおおお筆頭ーー!」
「Cooooooool!!」
「漢だぁあああ筆頭ーーーー!」
「奥方さまぁああああああ!!!」
「Yeaaaaaaaaaaaaaaaaah!」
「こんぐらっちゅれーしょんっす!!」
「うおおおぉおおおおおああああああ!!」
歓声とも喚声とも取れる声が多数上がり、その時初めて周りに人が居たのだと気付いた。それだけ夫の姿しか目に入って居なかった自分に驚き、戸惑い、そうして、ああ、やってしまったと顔を青くし赤くするの耳に政宗はこう囁くのだ。
「今日のKittenには添臥が必要みてぇだな」
途端赤一色、あらゆる所から火を噴いてしまいそうな感覚が抜ける。どう応じればいいのかと焦る間に兵達の歓声が徐々に遠のいていく。微かにそれを仕切る小十郎や綱元、左馬之助そして政景の声さえ聞こえると、明日からどういう顔をすればいいのかと更に途方にくれた。
「てめぇら祝いだ!」
「呑むぜぇえええええ!!!!」
「Yeaaaaaaaaaaaaaaaaah!!」
声は政宗の主殿に入るまで聞こえ、ますます所在なげになってしまう。穴があったら入りたいとはこのことだ。だが、あの雪の中の濃姫との会話を思い出せば、諦めないで良かったと心から想う。足枷になったと悔いて死んでしまっていたら政宗にもう逢えなかったのだから。
「こらKitten,俺の腕の中にいんのに他の事を考えるとはいい度胸だな」
「あ……」
気付けば政宗の褥の上で二人きりだ。互いの御付の小姓も侍女も居ない。あれだけ派手に家臣の前で思いの丈を披瀝してしまったものだから皆気遣って近寄らなかったのかもしれない。
政宗はお構いなしに手際よく手甲も篭手も外して陣羽織を脱いでゆく。
「悪い、胴取るの手伝ってくれ」
気が利かなかったと、すぐに胴に手を掛けて次いで佩楯と脛当を外す。話す言葉が見つからずカシャカシャと鎧の音だけが響き、やがて鎧直垂姿になった政宗と目が合うと思わず横を向いてしまった。
政宗は目を細めてにやりと笑うとの腰を引いて頭に手を添えてきた。えっと驚くと同時に視界に入っていた見事な文様の襖が、いつの間にか天井と人の悪そうな笑みを湛えた政宗の顔に変わっている。押し倒されたと気付き本能的にまずいと思ってしまった。
「ま、政宗公っ、夕餉は? お湯殿はっ」
「要らねぇ」
「あ、あのっあのっ」
「んー?」
政宗の顔が近づいてきて、逃げられないと目を硬く瞑る。だが何時まで経っても次の一手がない。恐る恐る目を開けると笑いを堪えた政宗の姿がそこにあった。
「夜泣きの酷い子猫には添い寝が必要だと思っていたが……」
「え?」
「Oh―― 本当の意味での添臥がお望みだったか? Kittenは積極的だな」
「――! は、はっ……」
破廉恥だと叫ばなかった自分を褒めてやりたかった。首を思い切り振って違うと否定する。
「That's a shame」(それは残念)
からかわれたことが悔しくて怨めしくキッと見上げても政宗は何処吹く風で。
「腕枕は拒否しないでくれよ? それからもう”公”はナシな?」
そう言って引き寄せられた手を拒むことなど出来なかった。誘われるまま彼の腕の中に身を置いて、吐息と匂いと体温を感じればそれ以上考える必要がない気がしてくる。
とくんとくんと胸の音が聞こえ、もう何もいらないとは目を閉じた。
- continue -
2011-10-22
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