鴻雁北(一)

 本城に戻ってすでに一月が経とうとしている。政宗は未だ戻らなかった。領内に侵入した織田兵は思いの外多かったらしく何度か戦闘を繰り返しているらしい。
 政景らの差配ですでに援軍が送られたがそれ程の数は割かれなかった。皆気を揉んだが、北の南部、最上、そして南の佐竹等を警戒しあまり派手な行動を取るのを控えろとの指示が出された為のようだ。
 生きていると解ってはいるが、戻らぬ政宗の身を案じは一人胸が締め付けられる。ひたすらに待っても戻らなかった肉親と重なるからだ。
「梵のこと、心配?」
 未だ床に就く成実から不意に声を掛けられ、は手にした薬湯を零しかけた。成実は帰城してから四日程で目を醒ましたがその後は発熱を繰り返した。軍議に参加出来るには程遠く今も褥から身を起こすのがやっとの状態だった。彼が極力身を動かさなくていいように薬湯を手渡しながら静かに頷いた。
「はい、なんのお怪我もなく戻られたらいいのですが」
「そうだね。――ねえ姫」
「はい」
姫にお願いがあるんだ」
「何か、お持ちします?」
「ああ、そうじゃなくて」
「私に出来ることでしょうか?」
「うーん、というより姫にしか出来なくて断られると正直途方に暮れるというか」
 は首をかしげ、成実は少し困ったように受け取った器の中の薬湯を回して遊ばせながら続けた。
「これはお願いというか、俺個人の希望かな」
 いささか言いあぐねる様を隠すように莞爾として笑うと少し真顔になって目を合わせた。
「――ほんの少しでも、梵のこと憎からず想っているなら、梵の傍にいて?」
「え」
「俺さ、餓鬼の頃から梵の傍に居たけど後悔ばっかりなんだよね」
 成実は器に視線を落として揺蕩う薬湯を見つめる。
「一番の後悔は二年前かな。俺の失態で目の前で輝宗様攫われて、梵はうちの奴らが見てる中で父親を亡くさなきゃならなかった。子供の頃から確執のあった母親の義姫様はそれで一層梵に憎悪を募らせて、甲斐に出陣する前の梵に毒を盛った」
「毒……」
「うん、ひどいもんさ。片目になった梵を奮起させる為に冷たくあしらったって、心から愛してるって言ったその口で附子を盛った」
 母が子に毒を盛る、には理解できないことだった。政宗が女性を信頼せず冷酷だ、という話は上田に居る頃に耳にしたことがあった。子供の頃から続く確執が彼に蔭を落としているということなのだろう。
「あの時はまだ奥州近辺の国力差はそれ程でなくて、ことに義姫様の実家最上が煩くてね。義姫様を処断出来なくて、混乱する家中を纏める為に義姫様が掲げる実の弟を犠牲にする形で殺すしかなかった。――父と弟を死なせて母に罵倒されて梵の家族は居なくなっちゃった。なのに梵は一言も俺を責めなかったよ」
 成実の手にある薬湯が揺れる。水面のように定まらぬそれが彼の悔恨を表しているようにも見えた。
「そんな時だよ、姫。甲斐で君を手に入れた」
 は少し目を見開いて、成実は後悔をすべて飲み込むかのように薬湯を呷った。
「今思うとね縁談が面倒とか、真田の遺言とか理由はあったかもしれないけどそんなの只の建前。梵はきっと家族が欲しかったんだ。そしてその伴侶が君であって欲しかったんだよ」
「わた、し、を……」
「俺、梵には幸せになって欲しいんだ」
 成実が見るに、政宗の行動は不可解だった。女を信用しない、否、女に執着がなく使い捨てのように扱っていた彼がを助けた。死に臨もうとする彼女を叱咤し、敵将の娘と扱わず出自を整え正室にまで迎えた。
 当初それは真田幸村への敬意だと思っていた成実達は、成実の諌言でいとも簡単に気遣い始めたり接触を図ったりする政宗に酷く驚いた。触れられれば迷うことなく相手を処断した右目のことさえもにならば許した。女性に対して頑なだった政宗を知る者達からすれば考えられないことだった。
 もしかしたら、政宗は変われるかも知れない、心通う相手と添えるかもしれない、そう期待させるに十分だった。
「こんな風に縋られるのは姫には不本意で苦しいだろうね、けど……」
「違います」
「……姫?」
「成実殿、縋っていたのは私のほう……」
 両の掌を握り締め伏せ目がちになるを成実が覗き込む。自然と声が震えた。
「私はどっちつかずの卑怯な女です。兄の仇と思いながらあの方を殺せず、仇を盾にあの方の優しさに甘えました。私は一番浅ましく残酷な女子です」
 自害するところを止められ、叱られ、そして保護された。国を家を滅ぼし兄を殺した相手ではあったが自身は酷いことなど一度もされなかった。思えば、自分を殺せといった言葉は彼の優しさだったのかもしれない。会わずとも大切にされていた。側近の小十郎や主だった家臣が何かのたびにご機嫌伺いにくるのがその証拠だ。いつも危険から遠ざけられ護られていた。
 そのありがたさも判らず憎しみに塗れていたのなら、一歩間違えばあの魔王の妹のように狂っていたかもしれない。
 ありがたいと思っていた。反面、その度に脳裏を翳めるのはやはり亡き者達のことで。主君の気質の影響からか暑苦しくはあったものの気安く快かった家臣や忍び、娘のように可愛がってくれた主君、不器用ながらいつも気遣ってくれた兄、そして逃がしたまま見つからぬ主君の姫と佐助、そのすべては政宗に奪われたのだ。今際の顔を思い出せば心苦しかったしほんの一片でも恨みもした。何度も何度も兄の位牌の前で声を殺して泣いた。
 その者達を忘れて一人幸せになるのか、お市に叩きつけられた言葉は常日頃より心に影を落としていた想いだった。
 そして自分が愛し愛された環境を奪った政宗と、自分に手を差し伸べる政宗、その落差に苦しんだ。彼をどう思っているのか、正確な答えに至るのが恐ろしくて穏やかに過ごそうと意識的に避けた。けれどそのうち意に反して彼を慕い始めた自分の心に気付いた時、罪悪感で押し潰されそうになった。
 答えを出すのが恐ろしくて、それに蓋をしてただ暖かい場所でのらりくらりと優しさだけを享受しては逃げたのだ。
「いつも気にかけてくださったのはあの方で、私は……」
 正室にすると言った時も、自分を殺せと言った時も、大量の衣裳を送ってきた時も、中傷から護ってくれた時も、動いてくれたのは彼だった。
 自分はどうだ、一度として政宗に少しお話をしてくれませんかとでも歩み寄ったことがあったろうか。恨みも思慕も自分の想いを一つでも彼に披瀝したことがあったろうか。
 は耐え切れず顔を覆った。
「ああ、こんな時に気付くなんて」
姫大丈夫、大丈夫だから」
 成実の声は幼子をあやすようだ。ずっと控えていた喜多が寄ってきて背を擦ってくる。それがたまらなく暖かかった。

 しばらくして表のほうから足音が聞こえた。それは成実付きの家臣が政宗の帰還を告げにくる音だった。

- continue -

2011-10-15

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