草木萌動(五)

 と成実は砦に連れられ、自軍の兵と完全に分断されてしまった。残った兵や女達は無事か、非道と名高い織田軍のこと、自分達の命を盾に抵抗すら出来ず攻撃されてるのではないかと危惧せずにはいられない。
 身に着けていた腰紐の一つを引き抜いて成実を足に巻きつけながら、近づく足音に息を呑む。濃姫だ。
「その手にあるものを渡して頂戴」
「形見故、お断り致しとうございます」
「お前! 生意気だぞ! 貸せよ!」
「っ……」
 蘭丸は乱暴にの手を掴む。成実が思わず身を乗り出すが、足に走る激痛に思い通りに動くことが出来ない。匕首はそのまま蘭丸から濃姫の手に渡り、濃姫は目を細めてそれを眺めると、得心したように頷いた。
「……六文銭、ね。いいわ蘭丸君。返してあげて」
「濃姫様?」
「貴女、甲斐から連れて来られた真田の姫ね」
「真田……、あのあかいのの?」
「そう、そして今は独眼竜の正室。武の成実が護っているくらいだから近しい縁者だとは思ったけど、思わぬ拾い物ね」
「へんなことしたら、すぐに撃つからな!」
 蘭丸から面白くなさそうに匕首を返され、はしかと握る。
 彼に言われなくとも自分は戦うことなんて出来やしない。成実は動けないし短慮な行いは避けて、今は時を稼がねばなるまい。
「彼をおいて逃げなかったのは立派ね。でも逃げてそのまま討たれるなりしていれば私達に利用されずにすんだのよ?」
 確かにその通りだ。自分達が捕らえられていると分かれば政宗達の足枷になるかもしれない。でも、とは内心頭を振るう。
 今はその揺らぎを見せるわけにはいかないと真っ直ぐに濃姫を見据えた。
「――ご心配なきよう。政宗公はそのようなことで手足をもがれる方ではありません。奥州筆頭を馬鹿にしてくださいますな」
「良い覚悟ね、それでこそ武将の妻。名高き紅蓮の鬼の妹姫」
「兄は、鬼ではございません」
 ここでも兄幸村は鬼らしい。戦場の兄がどれだけの敵を葬り武田の活路を開いたかは見ていない。長篠で多くの銃口を向けられようと怯まず鉄砲隊を撃破したなどと聞いてもの中にある兄はそれに程遠かった。いくら鍛錬をする姿を見ようともには実直でどこまでも優しい兄だった。
 戦場での勇猛な姿だけが人の心に残り伝聞となり後世に伝わって、身内が知る姿などこうやって淘汰されていくのだろう。
「……私の父も、蝮ではなかったわ」
 ほんの少し表情を変えて濃姫は言った。その眸に映る色にどれ程の想いがあるかには分からない。と濃姫は互いを見、先に目を逸らしたのは濃姫の方だった。
「――故郷を焼かれ、兄を殺した男の正室となり、今はその男を呼び寄せる為の贄となる。……貴女もまた、乱世に翻弄される一人ね」
「……」

「……ねぇ」
 ふと、可憐だが場に似合わぬ、ゆらゆらと地に定まらぬような声が聞こえた。濃姫がその方を向けば今まで所在なげに佇んでいたお市が口を開いていた。
「夫に兄を殺されたの……?」
「ええ、要害山城で兄真田幸村を伊達政宗に討ち取られたそうよ」
「じゃあ市とおんなじね? 市とは逆だけどおんなじ……」
 声音と同じようにゆらゆらとした足どりでに近寄るお市の姿に皆異様な様相を感じる。お市は胸元を押さえてに語りかけてくるのだ。
「ここが痛いよね? 苦しいよね?」
姫!」
「長政さまが…………全部殺せって……全部……全部……全部全部全部全部全部……! 全部全部全部全部全部全部全部全部……」
「っ!」
 ざわりとしたかと思った途端、彼女の周りから闇色の無数手が湧き上がる。異形のものに覆われていながら悲愁を帯びたその眸はとても美しくて吸い込まれそうだ。成実が足を引きずりながらもに飛びついて離し背に庇う。
「お市、様?」
「何を……? お市、答えなさい」
 彼女の様子に目を離す事が出来ないのはだけではなかった。濃姫も蘭丸も成実も固唾を呑む。お市は濃姫の声にふと気付いたように、ゆらりと幽鬼のような形相で振り返った。
 チャキッ――
 薙刀を握る音が耳を掠め風が吹いたかと思えば、彼女は濃姫と蘭丸にむかってそれを振り下ろしていた。
「!」
「何なんだよ、何が起こってるんだよ!」
「長政さまの敵は……全部殺すの……」
「長政? まさか、死者に憑かれたの?」
「濃姫様、どうしたら!」
「くッ……仕方ない、死ぬわけには……!」
「市もね、長政さまをにいさまに殺されたの……目の前でパアンって」
 その言葉に、は何時の頃か綱元に聞いた他国の情勢を思い出した。織田信長が浅井長政を攻め滅ぼし、長政の正室であったお市の方は実家である織田家に連れ戻されたと。
 相思相愛の夫婦であったのだろうか、背の君を亡くし、この女性は心を持っていかれてしまったのか。
「大丈夫……、貴女にもきっと聞こえるわ……貴女のにいさまの声が……」
 その声はもはや悲しい呪詛にしか聞こえなかった。

 と成実はお市らと距離を取るが、逃げるまでには至らなかった。下手に動けばその異様な凶手がこちらに向くかもしれず只、この異常な光景を心の臓を掴まれた様に立ち尽くし見つめるしかなかった。
 対して濃姫達はもうすでに達など眼中にないようで必死の応戦をしていた。
「お市、正気に戻りなさい!」
「市は正気よ、長政さま……うふふ」
「蘭丸、稽古をつけてあげる……嬉しいよね……嬉しいでしょ……?」
「う、嬉しくなんかない、目を覚ませよ!」
「甘い香り……みんな死んで行く……ふは、は」
 あれ程強力な濃姫の銃も、蘭丸の弓も、全く意に介さず薄紙を弾くように払って、二人を確実に死に誘っていく。これが魔王の妹かと皆が背筋を凍らせた。
「ねぇ、市と一緒に行こう?」
「!」
「貴女のにいさまもきっと、殺せって言うわ……。独眼竜を殺しに行くなら市も一緒に行ってあげる……」
「なにを……」
姫、この女はもう人じゃないよ。俺が引き受けるから逃げて」
「置いてなどいけませんっ」
 濃姫も蘭丸も歯が立たないくらいの相手に手負いの成実が無事で済むはずがない。彼女らが交戦している間に距離をとり、お市の気を引いて政宗達を待つほうが安全だ。が、それはあの危険な女人を政宗に近づけてしまうことになる。
 だがやはり危険だとどちらともなく立ち上がり下に向かって距離を取り始めた頃、無数の手が蘭丸を掴み、濃姫を貫いた。嫌な音が耳を劈く。
「うあぁああああ!」
「!」
姫! 見ちゃ駄目だ!」
「濃姫……様……どこ……?」
「おい、ち……あなたは、生きる……の……」
 濃姫と蘭丸はそのまま血溜まりに伏して動かなくなった。二人の間でお市はまたゆらゆらと揺れて、焦点の定まらぬ眸のまま嘲りとも哀調を帯びたものともつかぬ笑い声を上げていた。

- continue -

2011-09-24

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