東風解凍(二)

 唇が触れるか、触れないかの距離に捕らえられては瞬きすらしてはいけない様に感じていた。無論目を反らすことなど及びも付かない。明らかに違う政宗の様子に、自身がどうなってしまうのかなんてとても遠くに思えて許しを請うこともせず、只管、夫を見た。
 成実達は来ない。近しい言葉で政宗に意見することを許された彼らも、その国主に人払いだと言われれば足を踏み入れることなど出来はしないのだから当然だ。
「政、宗公……っぁ!」 
 彼の右手は見上げるの左手首を、そして左手はの顎を逃がさぬとばかりに掴み上げる。六の爪を自在に操る男の力に抗えよう筈もなく只力なく懇願するしかない。
「御手を、どうぞ御手をお放し下さりませ……」
「Noだ、奥方」
 顎を掴んだ左手の親指がの花唇をゆっくりと撫でる。その手付きが左手首を締め上げる力とは余りにも対称的でをさらに混乱させた。
「アンタは本当に綺麗な顔だな。……愛情一杯に育てられて後ろ暗ぇ処はなんざ知らねえって見せ付けてくれやがる」
「公……っ……」
「震えているな、
 今度は彼の人差し指がツ……との右目に触れる。は反射的にぴくりと身を縮め瞼を閉じた。
「俺が怖いか、kitty? そうだろうな。ならもっと怖ろしくしてやろうか」
「公……?」
 政宗は少し下を向いて一層低く笑いの手首と顔から手を離した、かと思いきや勢いよく自身の右目を覆う眼帯を取り払った。そして今度は、その為様に驚き目を見開くの顔を両手で掴み視線を逸らすことを許さない。
「よおく見な」
「っぁ!」
 強められる力に引き寄せられ身の均衡が疎かになる。遠慮のないそれに思わず声を上げたを政宗は晒した右目と共にまるで射殺すような色を湛えて凝視してくる。
 幼少の頃、疱瘡を患った彼の右目は周囲の願いもむなしく、見るという機能を停止した。それだけでは飽き足らず右目は飛び出して凄まじい容貌になったという。
 が今直視する右目はその形跡はなく瞼を閉じた状態だ。瞼は少々膨らみ、周りには刀傷らしきものがみえる。疱瘡の跡も眼の周りと額にかけて多少はあるが、眼帯と髪で隠されていればそれほど判らない。だが傷のない部分の容貌がなまじ秀麗なだけに、その右目の悲惨さを一層酷く感じさせるのだ。
 まさか目の当たりにするとは思わなかった。彼と自分の距離はもっと遠いものだと思っていたからだ。
 なんと痛ましい傷痕か、今尚彼の心を抉り続けている。
「どうだ?」
 こんなに目の前に居るのに政宗の声が遠い。疱瘡の傷痕は皆裸足で逃げるという。けれど怖ろしいとは思えなかった。気持ち悪いとも思えなかった。只悲しかった。
「穏やかに接したところで所詮畏怖が消えねえなら、いっそアンタの目も抉ってしまおうか」
 その声音に心を締め付けられる。
「俺の姿を、見えなくしてしまおうか」
「公……」
 怖れはもう霧散していた。あんなにも覇気に溢れた武将を、命を助けてくれた人の心を傷痕と共に塩を塗りつけた気がして後悔だけが漣のように去来する。疱瘡の傷痕を見てもには政宗を嫌悪する理由にはなり得ない。それ以上のものが既にの心に在るからだ。
「――政宗公、私はきっと貴方様が望まれることは申せません。私がどう形容しようともどんな言葉も公は薄ら寒くお感じになられる気がするのです」
「Ha! 酷ぇ顔だってのは否定しないか!」
「そんな、そうではなくて」
「What?」
「痛ましい傷痕でございます。けれどこの傷を否定しては貴方様を否定することになる気が致します」
「Hmmm――知った風な口を利くじゃねぇか」
「政宗公、先程までは射抜かれると思うほど怖うございました。でも今は」
「今は?」
「……とても泣きそうな顔をなさっておいでです」
「泣きそう? 俺が? 莫迦なことを」
 それ以上、どちらも言葉が続かなかった。政宗は息を吐き手を離すと、立て膝をし襖に凭れた。そうして、先程とは違い心持ち力を抜いた声音で話し出した。
「……あの女は」
 きっと側室のことだろうと静かに頷き政宗の傍に寄って居住まいを正した。灯明の明るさが揺らめき、チリリと音を奏でる。
「俺の目に触れたいと」
「……」
「――病が移ってもよいから見せてくれと。……Ha! 俺は病菌らしいな!」
「そんなことを……」
 政宗は吐き捨てて髪を掻き上げた。その所作が颯爽とした彼の面影など打ち消していて身につまされる想いが駆け抜ける。側室がどういう想いでそう言ったのかは分かりかねた。本当に政宗の心に近づきたかったのかもしれない。
 図らずも政宗を傷つけたのはも側室も変わらない。だからといって只の謝罪はまた彼の心を傷つけ、壁を作るだけにしか感じれなかった。
「もし、貴方様に触れて病に罹るなら近習の者や片倉殿や成実殿、皆とうの昔に発症されておられます」
「わかっているさ」
 過去に触れれば病に罹ると、そんな目で見られたことがあったのだろうか。わかっていると答えた彼の声はどこか物悲しく聞こえた。の知る政宗は強くて、自信家で傍にいるだけで絡め取られてしまいそうだった。けれど今は。
 政宗の過去を、想いを、忖度することなどおこがましい。が、きっと先程までの彼の怒りは憤激ではなく悲憤だったのだろう。 
「とても意外です。政宗公らしくございません」
「俺らしい?」
 政宗はほんの少しだけ驚いたふうに反芻した。
「私の存じ上げる政宗公は、初めから隻眼の殿方でした。兄から御名やお話を聞いた時から、武田を攻められた時も、私をお情けで助けてくださったときも……、それが当たり前で御座いました。故に私には政宗公が右のお顔に傷があって、隻眼でいらしてもさして問題はないのです。きっと、伊達軍の方々も」
「只の気まぐれだ。――アンタ、俺のこと勘違いしてねえか? 俺は聖人君子でも何でもねえ。気に入らなければ撫で斬りも厭わねえ男だぞ」
「気まぐれでも、助けて下さいました。本当に無慈悲な御方なら私は此処におりません。否定してしまったら、今私が此処にいることも、私の知る政宗公もすべて淡い幻となってしまいます」
 は一心に政宗を見上げた。彼の科白に警戒や一線を置こうとする様が見て取れてそれが底の見えぬ政宗らしくなく、根が深いと感じるには十分だった。
「成実殿や原田殿を見て思います。きっと、御目にはまだ病巣があって疱瘡が移るかもしれないと仰る事態があっても、御二人や伊達軍の方々はきっと貴方様から離れることはないと」
 それは武田が翳っていくことを知りながら離れなかった兄と佐助のように。去来する懐かしさと思慕に心を苛まれながら唇を紡ぐ。
「貴方様は御目の事以上のことを成し遂げてらっしゃるではありませんか? 御目を見たらすべてが消えるのですか? 誰もが逃げるのですか? それは貴方を支える方々への侮辱に他なりません。大将たる貴方様が臣下を信じておられないのですか?」
「……」
も、逃げません」
 少し間が空いて、徐々に落ち着いた目の色になる政宗をはじっと見つめた。そうして彼は再度問う。
「――、俺が怖いか?」
「お怒りになられた貴方様は怖ろしいと申しました。でもお話を聞いて下さる貴方様をその様には思えません」
 側室に刃をつき立てたあの姿、を逃すまいと腕を掴んだ時の氷のような視線と声音、それは確かに怖かった。けれど彼の目が怖かった訳ではない。怒りに駆られていても自分の話を聞いてくれたではないか。彼にはそういう度量もある。右目の傷より心根だ。はそう想ったし伝えたかった。どうか知って欲しい。だがどうすれば伝わるのだろう。
「アンタは逃げないと言ったが、悪いな、実は疱瘡は再発するんだ。離れろ、その顔が醜くなるぞ」
 ほんの少し目を見開くに政宗は目を細めた。そして――
「――! !」

 虚を突かれた、というのは今のことだろう。
 の右手は政宗の左頬に、左手は彼が忌み嫌い病巣だと自嘲した右目に添えられていた。疱瘡の跡が残る右目は触れられても何の反応もない。ここにある右目はもう本当に死んでいるのだろう。
 唖然とする政宗に、は政宗の右目に添えた手を今度はゆっくりと自身の右目に合わせた。
「移ったら、これでお揃いです」
「……とんだKittyだ」
 政宗は半ば呆気に取られていたが、暫くすると手を添えたままのの手首を掴みそっと目から離した。そうして口元には薄っすらと月を描き、どこか幽玄さを抱えた妻を見る。
「随分な事を言うし、してくれたな? Kitty」
「どうぞお許しを」
 その表情に先程の峻険さはもうない。の知るいつもの政宗だった。

- continue -

2011-08-18

現在は疱瘡系の治療にはステロイドを使い、皮膚がかさかさし皮がはがれてもゆっくり時間をかけて綺麗になるそうです。
疱瘡で眼が見えなくなると症状は筆頭に限らず結構多くの方がなられてるんですね。
筆頭の場合は疱瘡の出来物をかきむしり、その菌が右目に入った為失明したという説と発熱の影響で白内障になったという説を見ました。
ちなみに疱瘡は本当に極々稀に再発する事例があるそうです。
疱瘡(天然痘)は撲滅宣言をされていますが「仮性天然痘」や類似の種痘もあるようです。オセロの人がかかったとかびっくりしました。