東風解凍(一)

 政宗に指示通り、翌日からは彼の居を構える主殿の中に部屋を与えられ過ごすようになった。
 喜多達が懸念した通り、主殿は政宗付きの近習や家臣達がよく出入りする。庭に出て雪景色を眺めたり、部屋で箏でも掻き鳴らせば誰彼となく見られ聞かれ、翌日には御正室様は何をされていたかなど表に話が行くらしく、何とも面映くて仕方ない。
 けれど政宗に仕置きだと言われれば抗う訳にも行かず、また、奥に居て要らぬ中傷の文を受け取るよりも心安らかに居れると思えば許容出来るというものだ。
 は息を吐いて政宗の部屋の方を見つめた。
姫様、如何なさいました?」
「いえ、ごめんなさい」
 厨の諸事一切を取り仕切る女が不思議そうに話しかけてきた。奥御殿の主であるが奥から離れてしまったので、昼は彼女を始め奥の役職を預かる者達が引っ切り無しに主殿のの御座所まで足を運ぶ。
 彼女達の労力を増やしてしまうことにも、政宗にも五月蝿い思いをさせているのでは気兼ねしたが、政宗自身は彼の言の通り日中はほぼ政務で出払っており、たまに近くで鍛錬の声と音がする程度で気兼ねの半分は徒労に終わっている。
 鍛錬の声は上田での日々を思い起こさせて只懐かしく、は心密かに楽しみに聞いていた。喜多達は気付いているだろうか。
 政宗との関係は比較的良好である。夜にはたまにではあるが一緒に夕餉を取ることもあり、以前ほどの苦手意識はなくなっていた。
 側室達の中傷に彼が気づいて対処してくれたことは嬉しかった。それ故に苦しく思う。彼は義務感から自分の命を助け、出自を調えて今の地位に据えてくれた。彼が掛けてくれたのは情けであって情愛ではない。勘違いしてはいけない。兄の遺言があればこそ、だ。
「殿のことがお気になられますか?」
「え」
 図星だ。
姫様は殿のお部屋の方ばかり見ておられます故」
 厨方の女はホホホと笑いは赤くなるしかなかった。

 その日の夜は雪も冷たい風も止み、庭は白化粧をしたままだったがどうにか耐えることの出来る寒さだった。夜になれば格段することもない。眠くはないが夜更かしをすれば侍女達もそれに付き合うことになる、そう思ったはそろそろ寝支度をしようと喜多に声を掛けようとした。
 すると、大きな物音と荒々しい声が聞こえ、二人は目を見合わせた。
「何事でございましょうか……」
 と訝しむ喜多がそちらの方を見ていると、暫くして今度は慌しい衣擦れの音と共に侍女頭が転がるように入ってきた。らしくない所作に驚く達を尻目に侍女頭は悲鳴にも似た声音で告げる。
姫様、大変でございます!」
「如何しましたか?」
「政宗様のお部屋にて御側室のご無礼があったらしく、お手討ちにすると!」
「ええっ」
「お怒り凄まじく、今にも斬りかかりそうな勢いにございます!」
 も喜多も息を呑んだ。一体何があったというのか。たとえ家臣と云えど、相応の後ろ盾のある家の娘を手討ちにするなどそんなに簡単に出来るものではない。一大事だ。
「参ります」
姫様!」
 きっと喜多は制止したかったに違いない。とて子供ではないから察しは付く。夜に側室が政宗の部屋に居る、ということはそういうことなのだろう。胸裏に沸いた微かな違和感に首を振り、は足早に部屋の外に飛び出した。
 政宗の許へ急ぎながら真っ青な顔付きの侍女頭に問う。
「一体何があったの」
「分かりません。お声が聞こえて曲者が侵入したかと私がそちらに参りました時には既に御側室が広縁にお逃げになられて、政宗様が御手に太刀を。近習の者がとっさに押さえ申し上げておりましたが」
「――成実殿達をお呼びしておいて」
「はいっ」
 もう屋敷に戻っているかもしれない。けれどあの四人のうち誰か一人でも居てくれればと半ば縋る想いでも侍女頭も動いた。
「小十郎ならば本日は宿直すると、呼んで参りますっ」
「頼みます」
 喜多と侍女頭はそれぞれの方向に向きを変え、心得た残りの侍女達は急いでに付いてくる。もう曲がれば政宗の部屋だという所までくると必死に止める近習の声と側室の叫聲が聞こえ一同は戦慄した。
 一層足を速め曲がりきり目にした光景は、打掛の裾に刀を刺され、柱に身を預けて震え動けなくなっている側室の一人と、もう一本刀を肩に担ぎそれを見据える政宗の姿だった。
「政宗公っ」
「ああ、アンタか。下がってろ、今居たらアンタも如何こうするかもしれねぇぞ」
 慌てて二人の間に入り膝を突くに、そう言った政宗の声は心の芯が冷えるほど低く、怒気を孕んでいるくせに側室を見据える眼は只冷淡で吊り上げた口元が恐ろしい。
 こんな政宗は見たことがなかった。戦場で、あの要害山城で初めて会った時も、本陣で叱られた時も自分には向けられたことのないものだ。喉元を絞めつけられそうになる程の殺気にも似た気配に身も心も竦み、こんな面を持つ人なのだと今更ながら知る。
 自分を側室からの中傷から守ってくれたのはこの政宗で、二人の間にどのようなやりとりがあったかは存ぜぬが、ここで側室を庇う側に回るのは恩を仇で返すことになってしまうかもしれない。しかし、今の政宗なら本当に側室を殺してしまいそうに感じられ、は恐れ戦いた。
「そうは参りません、奥向きのことは正室である私の責でございます。どうぞお許し下さいませ」
「Huh? アンタには関係ねぇ。もう一度言う、下がんな」
「公、伏してお願い申し上げます」
下がれ、その女は尤も言っちゃいけねえtabooを犯したんだ」
 政宗はそう言うや否や肩に抱えた刀を側室の前に勢いよく刺した。は思わず眼を閉じ、ひっと悲鳴を上げるのがやっとの側室は打掛を脱いで逃げるという思考も既に働かないようだ。は身体を伏せながらも政宗を見上げて懇願した。
「御自らお手討ちは暴君の謗りを受けます! どうぞ刃を収め下さりませ!」
「Hum? ならアンタが」
 三つ指を付くの腕を掴み、鼻白んだ様子で政宗は続けた。
「アンタが俺の相手をするんだな!」
「公? あっ!」
 ぐいっと強い力で上に引っ張られたは動作が追いつかず体勢を崩し、政宗は構わずそのまま部屋の中に放り込んだ。何が起こってるのか一瞬分からず、手を突き身を起こして後ろを振り向く。
「梵! 正室に無体は駄目だ!」
「Ha! 自分の妻に手出しすんなって? 笑わせるな!」
「政宗様!」
「人払いだ。全員去れ!」
「梵!」
姫様!」
 が来た方向とは逆の方から成実と小十郎の声が聞こえたかと思えば、政宗はを見据えながら強引に舞良戸を閉めた。そしてまた腕を掴み御小書院と呼ばれる御座所の、書院や上段の間をすり抜けて奥へ奥へと連れて行く。が不安に駆られて公、公、と呼べども彼は答えない。
 これまでが政宗の御座所を訪れたのは昼だけ、夜に来たことなど、まして書院や上段の間の奥など足を踏み入れたことはなかった。手酷く掴まれた腕が開放されたのは最奥の、政宗の寝所だった。整ったままの褥によろけて膝を突いたが、視線はすぐに政宗の姿を追う。視界に入れるのは怖いのに、彼の姿が見えないのもまた恐ろしかった。

「なかなか気が強えじゃねえか」
「ま、政宗公」
 口元は笑っているが相変わらず冷たい眼は変わらない。
 ――ひどいことを、されてしまうかもしれない。
 は両腕を床についたまま心に沸いた不安を隠すように政宗を見る。
 乱れた打掛やそれに散らばる素絹のような彼女の髪の様は落花繽紛。眺めながら政宗は鼻で笑った。
「流石は真田の女だな、俺が怖くないのか?」
「怖ろしゅうございます、政宗公のそんなお顔初めて拝見致しました。今どんなお顔をなさっているか鏡をご覧下さいませ。そのように殺意を宿された表情では皆逃げてしまいます」
 仁王像のような憤怒を露わにした顔ではない、しかし眼光烱烱とするその左眼から漏れ出る憤激は誰も彼も萎縮するには十分だ。
 だがそう言った直後、は後悔する。
「Huh...?」
 途端、政宗の眼に宿る光は昏く翳り、ぞくりと薄氷を踏む思いを抱いたからだ。窘める言葉は愚かにも彼の神経を逆撫でするものを言ってしまったらしかった。
 慄然とするを尻目に政宗の喉からはクククと低く笑いが漏れ出る。
「Ha! この俺に鏡見ろたぁ臆面もなく言えたもんだぜ」
「こ、う?」
「アンタもか、結局アンタもそうなのか」
 闇夜を背に近づいてくる政宗、畏怖に捕らわれたはなすすべを知らない。逃しはしないと歩みを進める政宗は夜露に陣を張る蜘蛛の様で、そして皮肉にも我が身に纏う打掛の文様の蝶が自身だった。
 灯明の揺らめきにさらに鮮明になるかの人の顔に、その番(つがい)の視界は否応なく埋め尽くされた。

- continue -

2011-08-15

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