雪下出麦(二)

 奥御殿に来たのは何時振りだろうかと考えてみれば、思い出すのは祝言が決まったあの日だった。そういえばお床入りの儀も政宗の寝所に近い所で行われたはずだ。ああそんなに前か、と腕を組んでいると見知った侍女の姿が見える。
「まあ政宗様」
「喜多、はどうしている?」
「痛みで寝付かれぬ御様子です」
「そうか」
「政宗様、これを姫様にお持ちください」
「Why? 俺が?」
姫様にお会いに来られたのでしょう? それぐらい持って行っても罰は当たりませんよ」
 鳥梅でございます、と湯のみを手渡され思わず頭を掻いたがそれを咎める程政宗の心は狭くない。
「Okay, 喜多も今日は休め」
 喜多は少し驚いた様子だったが、何も言わず一礼する。休めと言ってもこの侍女はそうはすまい。おそらく宴の手伝いにでも行くだろう、そう思いながら通り過ぎて政宗はの許へ進む。

 いよいよの居室につくと微かに灯りが漏れている。寝入っていないのならと障子に手をかけた瞬間、控えめだが鈴を振るような声が耳を撫でた。
「喜多殿? わざわざありがとう。どうぞ貴女も休んでください」
 自分の妻の声だ。喜多と話すときはこんな声音で話すのか、漠然とそんな考えが掠めてゆく。
「残念、俺だ」
 戸を開けてみれば脇息に身を凭れたが居る。打掛を羽織ることも億劫なのか肩に掛けてあるだけで髪も気だるげに少し乱れていた。
「あ、」
 と声を漏らして身を起こそうとするので政宗は少し慌てた。近づいての横に腰掛けて喜多から渡された湯飲みを見せながら言う。
「そのままでいい、辛そうだな。――鳥梅だそうだ」
「ありがとうございます」
 答える姿も辛そうに見えて、政宗は二人の間にあった脇息を退けて彼女の肩を抱え、支えた。驚きか抗議の声でも上がるかと思ったが、身体のだるさと腰周りの痛み、加えて意識が朦朧としているのか相手は素直に身を凭れる。
「脇息よりこうした方が楽だろう?」
 安定させようとの右脇から左にかけて手を回し、胸元に引き寄せて湯飲みを渡す。やはり彼女からの抵抗はなくされるがままに身を預けてきた。
「横にしたほうがいいか?」
「いえ……腰周りが痛くて、横になると重さで一層痛くなるのです。なんというか身の置き場がなくて」
 ですから起き上がっておりました、と鳥梅に口を付けながら言う正室に政宗は何か思い出し行動に移す。
「此処か?」
 月の障りの酷い時は腰を暖めるといい、ずっと昔侍女達が話していたのを聞いた覚えがあった。あの頃は相当子供だったが。耳年増ってやつか? と内心笑いながらの腰に手を添えた。多少酒を呷った自身の身体は通常よりは温かいはずだ、などと考えながら。
「あったかい……」
「I'm glad to hear that」
「…ぁぃ?」
「それは良かったって言ったのさ」
 そうなのですね、とはゆっくり頷いた。痛みと気だるさによる疲労の為か弱々しく聞こえる声であったが、珍しくふと気付いたように話しかけてきた。
「あ、お聞きしたいことがあるのです」
「An?」
「”きてぃ”とはどういう意味なのでございますか? 喜多殿も成実殿も教えてくれないのです。公にお聞きするようにと言われて」
 あいつらめ、と心内では悪態をついたが、初めてかもしれないからの質問だ。ちゃんと答えてやるのが粋な男というもの。政宗は少しだけ目を細めた。
「Ah――、kittyってのは子猫ちゃんって意味だ」
「……私、子猫ですか?」
「虎の若子の妹は、残念ながら虎には見えないからな。可愛い子猫で十分だろう?」
「噛み付きませぬけど、引っ掻くかも、しれません」
「お手柔らかに願いたいね」
 こんな受け答えをする女だったのかと見つめ口元は緩む。
「……この日ばかりは……おのこになりとうございます」
「俺は男の腰をさするのは御免だな」
 ククと喉が鳴り笑いだした。今日は本当に珍しい。身を預けてくることも、こんな会話をすることも。しかしこんな時間も悪くはない、そう思えた。
「温石は? 用意してるか?」
「今整えてもらっております」
「ならそれまで俺が温石代わりだ。You see?」
「まぁ」
 彼女は笑いかけて、そのままゆっくり目を閉じた。余程辛いのだろうと声をかけることはせず、心行くまま妻の姿を眺めることにした。
 肩に掛けてあるのは自分が贈ったあの雪持笹文に雀を配した打掛だ。豊年を願って身に着けていたのだろう。自分が選んだ家紋に近い文様を身に纏わせて、自身の腕の中にいるのは予想外に良い気分だった。
 俺も大概だな、と自嘲しながらも今日はどうしてそう思うのか、酒を呑んで歯止めが効かなくなっているのか、傍にいるのが心地よくて仕方がない。昨年はこんな風に過ごすことなど想像もつかなかった。新年早々幸先が良いことかもしれない、政宗はそう思った。

「失礼致します。姫様、温石をお持ちしまして御座います」
「入れ」
 侍女頭だ。驚いたように返事を返され、冷たい外気を入れぬように素早くそして静かに戸内に入ってくる。
「まさ」
「shhh...」
 おやまあ、と口に手を当て侍女頭は得心すると、手際良く温石を包んだ布を腰周りにあて、衾を掛けた。温石役は御役御免になるところではあるが動けば彼女が起きるかもしれない。
「しかし困ったな、動けねえ」
「まあ政宗様」
 ほほほ、と侍女頭は笑う。彼女は祖母栽松院に長く仕え政宗とは気心がしれた老女だった。祖母ほどではないが場合によっては頭が上がらない。それを心得てか侍女頭は優しさを含みながらも子供に言い聞かせるように苦言してくる。
「相当お辛いのでございますよ? 御身の周りもお変わりになられたのでご心労が祟っておられるのでしょう。月の障りは御心の影響を受けやすうございますもの」
「女の身体ってのは厄介だな」
「まったくです。ですので政宗様はその責をお取りになって本日はあちらの代わりをなさって下さい」
 侍女が手を指した方には、褥(敷布団)がある。政宗は噴出した。これは伊達軍の者らには見せられない。特に生真面目な小十郎がみたらなんというか。
「奥州筆頭を褥代わりにするとは奥の主とその侍女はてぇしたもんだなァ」
「竜の御方様とその御付にございますよ。そのくらい肝が据わっておりませんと、ねぇ?」
 また相変わらずほほほと笑う侍女頭に政宗は降参だと言わんばかりに首を振り、そして腕の中のに視線を落とすとまるで独り言のように呟いた。
「女ってのはこうも儚げなもんかねぇ」
「まぁ」
「ああ、アンタら見てたからそうは思えなくてな」
「あらあら、お小さい頃とお変わりありませんね。御口の減らない政宗様ですこと」
「ハイハイ」
 彼女達の強さはこの奥での歴戦を超えてきた証だと思う。母義姫に一歩も譲らず自分を守ってきた祖母、喜多、そしてそれに添い続けた侍女達。彼女達には十分な敬意をもって接せねばならないだろう。この老女は特に気が利いて祖母のお気に入りだった。だからこそ祖母に頼んで付きの侍女頭として来てもらったのだ。
 女がすべて嫌いな訳ではない。祖母、喜多、侍女頭、三人共信頼しているし大切だと思いもする。彼女たちは母でも妻でもない。しかし、それ以外の女には、ことに妻、そしてゆくゆくは政宗の子の母となる女に対してはどうしようもなく疑念を抱いてしまう。それは今日まで受けた痛手の偏見であるとの自覚はある。恐ろしいのだろうか、政宗は少し客観的に考えた。
「……寝息も穏やかにおなりですね。お褥にお移し致しましょう」
 どうせ俺が運ぶんだろう? などと野暮は言わない。繊細に、用心深く妻の身体を抱えあげる。腕の中のは少し身じろぎし政宗の小袖を握って譫言を紡ぐ。
「公……?」
「An? どうした?」
「……夢なら、醒めなければ、いい、のに……」
 政宗は眼を見開いた。彼女はどういう想いでそう言うのだろう。だが、本当にそうであればとも思う。彼女が目を醒ましたら、普段に戻れば今日のような対応をしてくれるだろうか。自分も警戒せず、ただ彼女と裏表なく過ごすことが出来るだろうか?
 政宗は至極不意を付かれた気がした。そのまますっと眠ってしまった彼女を褥に横たえながらその寝顔をまじまじと見る。
 彼女に深入りしないならこのまま戻った方がいい、だが惜しい。戻ってしまったら明日の彼女はいつも通りの彼女のままかもしれない。いつもにない彼女を見たのにそれがなくなるのは惜し過ぎる。成実の言う予防線ではないが、少し警戒を取り払ってみるのもいいかもしれない。

 分かってはいる。だがもう少し、もう少し彼女がどんな人間なのか客観的に見定めたいのだ。
 だからゆっくり、徐々に距離を詰めてみよう。
「戻る。落ち着くまでゆっくり休ませるように。無理するようなら俺がそう言ったと言え」
 読めぬ表情のままそう言い立ち去る政宗に、侍女頭は内心素直じゃない若様だこと、と溜息をついた。

- continue -

2011-07-30

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