鶺鴒鳴(一)

 政宗の言葉どおり、婚儀以来奥州筆頭に相応しい正室としてまた奥御殿の主として取り乱すことなく淑やかに日々を過ごしている。
 奥御殿の管理にも慣れないながら采配を振るい、嗜む茶道をはじめとする習い事を危なげなく静かにこなすの様を上田で暮らしていた時を知る者が見ればなんと様変わりしたかと眉を顰めるに違いない。泣き虫で子供っぽいと兄を困らせ窘められ、無邪気だと忍頭に笑われた本当の自分を此処では誰も知らない。
 自身、真田の名に恥じぬ正室であれと振舞ううちに、婚礼の夜、あれほど否定していたものの今では顔も心も作られた能面を被ったようだと感じていた。
 喜多や侍女頭をはじめとする周囲にも嫋やかで儚げといった印象が強くあるようでそうではないのに、と言いたくもあったが、常に先行する心象に次第にもうどうにでもなってしまえと、半ば捨て鉢になっていた。
 あれから奥の諸事を預かる侍女たちも何かにつけて相談を持ちかけてくる。それに笑顔で対しながらも心の底が冷えてゆく様を否応なしに感じ、孤独とはこういうものかと認識せざるを得ない。叩き付けられるそれに打ちのめされたの気持ちに誰が気づくだろうか。
 心に去来する寂しさは消えようもなく、また一層故郷への思慕が募るのだ。
 もっぱら冷え固まってしまったこの心を乱すのは政宗のことだった。相変わらず本人はまったく会いに来なかったが。
 祝言が決まった日や、初めて過ごした夜、成実、小十郎になにかと言付けて贈り物をしてきた日、考えてみれば奥州に来てから泣いたり動揺したりするのは彼が何かした時だけであった。皮肉にも彼と何かあれば心は揺れその度に、嗚呼、心はまだ生きているのだと気付かされた。
 瞼に浮かぶのは夫たる人の顔、最近はよく政宗のことを考えることが増えた。何故だろうと、は自分の気持ちを量りかねている。そういえば、と灯明に揺らめく灯りを眺めながら沈潜する。

 私は彼のことをどう想っているのだろう。兄を殺され、城を奪われ、国を滅せられた。はっきりとした憎悪を向ける前に行動を叱られ保護された。衣食住の保証をした後はついぞ来ない。
 今は亡き生家や国を思うなら、あの祝言の夜、あの人の言うとおり背を向けた彼の首を斬りつければ良かったかもしれない。
 嗚呼、私はなんと恐ろしいことを思いつくのか。あの人がわからない、酷いのか優しいのか、憎んでいいのか恨んでいいのか。
 ――恨む? 何故かそう考えたくはない。今思えば怖いとか恐ろしいとか、そんな理由とは違う。私はどうしてしまったのか、今は自分が一番わからない。

 の手には達筆だがどこか乱雑に書き散らされた文が握られている。内容はに対する中傷だ。
 何事も平穏に、と思ってもうまくいかないのが世の常なのか、心穏やかに暮らしたいと願うを残念ながら悪意ある者達は逃してはくれなかった。
 政宗の正室となって幾日かたった頃から、喜多や侍女頭の目を掻い潜って何度となく届くようになった。最初は短い嫌味の文だったが徐々に痛烈な内容になっていった。政宗がの許へ来ないことを知ってか、捨て置かれる正室と取ったのだろう。回を重ねる毎に相手も興奮しているのだろう、文の端々に中傷の相手の特徴が分かり誰からの文なのか予想は付いた。三人いる政宗の側室の誰かだ。いや全員かもしれないが。
 命に関わるようなものでも、また文以外に何かされたことはなかったが、孤独に耐える身には白い御料紙に墨を一滴落とすようにじわじわと心を浸食するには十分だった。こんなもので、と自嘲するもどうしてかその染みを取り払うことが出来ない。
 この文を取っておいて政宗に訴えることも可能だろう。だがそうすることも厭わしい。水面下でこのような嫌がらせをしてくるということは、表立って正室である自分に如何こう出来るものではないという証拠だ。
 彼女達から見れば、政宗が敗残の将の娘を連れて来たのなら、側室の末端に加えると思っていたことだろう。だが蓋を開けてみれば後ろ盾も無い娘が正室となって自分達の上にいるのだ。
 喜多から聞いたが政宗の正室と側室の扱い方はかなり違うようで、政宗の遣いで小十郎たちがくる、といったことはにしかしていないらしかった。侍女を呼びつけられたり、来ても近習が来る程度だったらしく、新参者にそこまで差をつけられては心穏やかなはずがない。このような文で溜飲を下げるしかないのだろう。
 だがなんと愚かなのだろう、とも思う。自分と違い、彼女達は夜になれば政宗の腕に抱かれているにも関わらず寵を信じることが出来ないのだから。いっそ哀れでもある。そう思えばいちいち目くじらを立てるのも大人気ない気がする。
 それに政宗になにかされたり言われたりする時に比べれば、痞えはあるものの心を抉られるほどのことでもない。ほんの少し冷静になれば耐える心積もりも出来た。
 はもう一度文に目を落とす。相変わらず綺麗な御料紙に似合わぬ内容だ。
 自分が黙っていても喜多の目に触れればたちまち政宗の耳に入るだろう。これ以上手を煩わせたくもないし、必要以上に接触したくない。弱った心根も定まらぬ性根も見られたくはない。
 そう思い至ると、静かに灯明皿の火に文を焼べた。
 文はすぐに燃え尽きて皿にかすが残った。文はなくなったはずなのに心が締め付けられる。
「政宗公……」
 絢は雪輪文の打掛に包まれた身体を掻き抱く。そうして切なげに口を付いて出たのは仇の名だった。

- continue -

2011-07-14

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