菖蒲華(二)

 宴はまだ続くが、主役である二人にはお床入りの儀がある為退出することになる。白小袖に着替えさせられては政宗を待つ。
 彼は手を出さないと言った。婚礼の夜もそうなのだろうか、一糸も暴かれることなく夜を過ごすのだろうか。手を出されても困る、けど出されなくても困る。
 翌日、どんな眼で皆見るのかと思うと、いや、それ以前に政宗と二人きりで何を話せというのか。途端に身の置き所がなくなってしまう。
 酷い顔をしていたのか、侍女頭に大丈夫でございますよ、と言われ益々隠れてしまいたくなった。
 伊達政宗という男は冷たいのか優しいのか、未だによく分からない。冷たいだけの男であれば兵はあれだけ従わないだろうし遺言だって無視しただろう。けれど、あの隻眼に射竦められたらどうしていいか分からない。その男とこれから二人きりなのだ。
「殿のおなりでございます」
 歳若い侍女が報せるとおり政宗が入ってきて、簡単な酒の用意が整うと侍女頭や政宗付きの小姓などは早々に立ち去ってしまった。は頭を上げることも出来ず、只伏した。
「Ah――、畏まらなくていい」
 口調にはいつものような尖鋭さはなく、内心驚きつつも言葉に従い顔を上げた。
「祝言の席での対応は良かった。正直意外だった、下を向いて泣くかと思ったが」
 彼の望む正室としては及第点だということなのだろう。場を乱さず慌てず、只微笑む。の母がそうだった。いつも穏やかに笑って、いくら腹が立っていても男達が揉めれば間延びした声で話し、息を飲むような話のときは育ちの良さを漂わせて静かに微笑むのだ。
『――声を荒げるより笑った方が勝ちなのよ。殿方たちが粋がっているときに笑顔一つで止めれるなんて女冥利に尽きると思わない?』 
 と母はよく言った。分からないと答えると、そういう場に身を置かないほうが楽だけど大人になれば分かるわ、と頭を撫でてくれた。
 今は分かる。それは確かに賢い女のすることなのだと。でもそれは自分を殺していないか? 母は自分を殺していたのだろうか? 今の自分のように。そう思うのは、まだ子供だからだろうか。
?」
 陣幕で検められて以来、初めて名を呼ばれた。
「いえ、気の利いた物言いが出来ませぬ故あのような」
「金持ち喧嘩せずだ、千金の子は盗賊に死せずともいうな。あれでいい」
「はい、ありがとうございます」
「――、アンタに渡すものがある」
「私に?」
 相変わらず無遠慮に、ずいっと腕が差し出され反応するままに彼の手に視線を這わすと思わず、あ、と声をあげた。
「要害山で、アンタから取り上げた匕首だ」
 見間違えようがない。本朱漆に真田の六文銭と凝った細工が拵えてあるこの懐刀をは落城のあの日まで肌身離さず持っていたのだから。あの日以来、自害を避けるように刃物をはじめ鏡まで使い終わればすぐに下げられていたのにと、考えあぐねて政宗を見る。
「アンタはもう死ねねぇはずだ」
「――!」
 何を指してそう言うのか察すれば、唖然として隻眼から眼が離せなくなる。彼の左眼には自分が映っているが、その奥にある彼の心根は読み取ることは出来なかった。
「だからこれは返す。俺が許せないのならこれでいつでも寝首を掻け」
「――っ……」
「俺が憎くなったか? ――違うな、最初から憎いはずだ。そう思うなら遠慮なく振れ。俺も国がある、簡単に殺られてはやれねぇがな」
 政宗の低い声音はが聞きたくなかった言葉を螺旋の如く連ねてゆく。まるで呪詛のようだ、と堪り兼ねて首をふるふると振った。
「そのような、……恐ろしゅうございます」
「自分の命は絶てるのに、仇の命を絶つのは怖ぇか? Ha! 分かんねぇ女だなアンタ」
 政宗は眉を少し吊り上げて鼻白む。対しては両の手をぎゅっと握って両耳にあて幼子の様に、聞きたくないと何度も首を振った。
「何故、そんなことを仰るのですかっ……」
「Ha...!」
 思いの外、声を震わせ逃げ腰な態度に興味が失せたのか面白くなくなったのか、政宗は鼻で笑った。そしてややあって舌打ちをし少し険のある顔付きでを見据えた。
「もういい寝ろ。何もしねえ」
 そう言っての腕を掴み衾に引きずり込む。腕を握られても、身体に触れられても、呆然として何の抵抗もしないに一瞬眉を顰めたが、政宗自身も衾に入ると背を向けてそのまま休んでしまった。

 どれ程たっただろうか、半時か一刻か、政宗の言葉が頭に響いて一向に寝付けなくて、でも背の後ろにいる政宗に気取られるわけにもいかず、必至に涙を堪えていた。
 だが何度目か鼻につんときて、しゃくりをあげそうになるのをもう堪えきれないと、匕首と自分の衾を掴んでは隣の間の襖の後ろに身を置いた。もっと離れたかったが、そうするときっと侍女や小姓に気取られてしまうだろう。
 政宗と離れたと思うと、途端に堰を切ったように涙が溢れ出した。
 彼の言う通り、仇を討つには絶好の機会だ。政宗自身の刀は少し離れた所に置いてあり、何より今背を向けて寝ている。
 仇だと思いながらも殺す程の憎悪を抱けず、そして匕首を目の前に出されても刃を向ける気力さえない自身の不甲斐なさになんと情けない女かと目を覆う。
 幼い頃から武具や戦の嗜みが苦手だった。兄が勇ましく槍を振るう姿に頼もしさを感じたが、それでも自分は握れなかった。兄や家臣は女子はそれで良いと言ってくれ、可愛がられたし幸せだった。だからこそ足手まといにはなりたくなかった。いつの頃か己が命はいつでも絶てる心積もりでいた。
 武田滅亡より数ヶ月前、兄が贈ってくれたのは家紋の入ったこの匕首だった。自分の成人を気にしてくれたことも嬉しかったが、六文銭の入った懐刀を贈られたことが何より嬉しかったのを覚えている。武勇誉れ高い兄から、すでに兄の象徴でもあるような六文銭が入ったこれは、武門の家に生まれながら戦えぬ自分を許してくれる証にさえ思えたものだ。拝領したその日よりこれは一番の宝になった。ゆえに、落城のあの日、これで命を絶つつもりだった。
 政宗は、死ねないはずだから返すと言った。暗に菊亭家の援助のことを指しているのだろう。昼間見た祖父からの文は、孫娘が生き残ったことの喜びが書いてあったが、その後の文面は援助を期待するものばかり、また子を生すことを期待したものだった。
 祖父の文面といい決して心を許さず距離を置くような政宗の態度といい本当にここに「正室」で在るだけで構わないという意図がありありと見えて苦しくて寂しくて只々涙を流すしかない。
 何度も此処から消えてしまいたいと思う。自分の浅はかさが兄を死へ近づけたのだと言われた、ならどうして生きていられようか。なのにその言葉を叩き付けたはずの仇は自分が生きることを望む。
 どうしろというのか、死んでしまいたい、尼になってしまいたい、いいえ死ねない、今此処から逃げ出せば会ったことのない祖父への援助もなくなる。兄の名にも傷が付き、対面を穢された政宗は烈火の如く怒るだろう。それは甲州信州の民にどのような影響が及ぶか判らない。
 頭の中で反芻するも結論は出ず堂々巡り、そのたびにちらつくのは兄の顔で。
 匕首を贈られたあの日、これを鬢批以外に使う日が来なければよいがと笑う顔と、伊達本陣で見た今際の顔。
 はたまらなくなって絞り上げるように声を出した。途端、心が溢れ出した。
「私のせいで、死んっだ……、なのに今更っ……」
 憎めだの殺せだの何を言うのか、自分のせいで死んだと、ただ罪悪感に苛まれるなら憎まず恨まず、言われるまま正室で居られたのに。
 憎むなんて怖い、殺すなんて恐ろしい、ただ笑ってるだけの正室が欲しいなら大人しくしてるから私の心を掻き回さないで。
 寂しい、帰りたい、返して返して、私は泣きたくない、生きろと言うのならせめて兄様の名を貶めないように生きたいの。恐ろしい想いを抱かせないで。
 兄様は鬼なんかじゃない、私だって何も感じず能面のように静かにしてる女じゃない。私はどうしてここに在るの? 違うの、全部違うの。これは間違い。
 本当は分かってる、気付かなかったんじゃなくて気付きたくなかっただけ。 

 殺がれるなんてものじゃない。すべてが抉られ蹂躙される。
 なんてことだ、暴かれたのは衣ではなく心だった。

- continue -

2011-06-25

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