乃東枯(三)

 あれから、は熱を出した。薬師によれば輿の揺れからくる酔いなどではなく疲労と心労が一気に出たものであったらしい。二日もすれば下がりはしたが。
 奥州に着いて数日、丁度梅雨に差し掛かる時期でもあり外は雨が支配している。もうしばらくすれば夏を迎えようというのに聊か肌寒い。故郷上田も比較的寒い地域であったがその寒さは段違いで、病み上がりのには腰巻姿では心許なく紗の打掛を羽織る程だ。昨日から降り続く雨は所々にじめりとした気配を漂わせ、その憂鬱な天気と呼応するかのようには頭を抱えていた。
 奥州についたあの日、気を失った自分を抱えて奥御殿まで運んだのは政宗だという。皆の目の前で盛大に倒れてしまったのだから家臣らの手前一番近くにいた彼が放置できるはずもない。
 そのおかげで、城内は噂が一人歩きしてしまっていた。
『筆頭がお手ずから抱き上げられてお運びになったお姫様、甲斐で見初められてご寵愛は留まる所を知らず』
『鬼のような真田に託された儚く嫋やかなお姫様、筆頭が放っておけないはず』
『お姫様がお出ましにならないのは、筆頭がお身体を気遣って終始大事にされておられるから』
 寒いと羽織ったこの打掛姿もまた拍車を掛けたらしく、倒れたあの日と重なるのか城内の人間がに抱く印象は『儚げでか弱い姫君、御身体は大丈夫かしら』になってしまっていた。
 まったく失礼な話である。兄幸村は鬼ではない、戦場に出れば苛烈な武人であったが、平時は女性が少し苦手で不器用で、には優しく穏やかな兄であった。とてそうだ。格別お転婆と言うわけではないが、はっきり物を言うほうであったし、身体が取り分け弱い訳でもない。今は環境になれるのに精一杯なだけで本調子ではないだけだ。
 噂の裏に見え隠れする意図は、格別真実が必要なのではないということなのだろう。つまるところ殿様大事の奥州の民達は、伊達政宗と真田幸村の美談を引き立てるための一つの要素として『か弱い姫』が欲しいだけなのだ。
 なんにせよ噂の最後は、
『好敵手に託されたお姫様を言葉どおり愛して大事になさる筆頭カッコイイ!』
で締めくくられるのだ。
 政宗はこの噂をどう思っただろうか。きっとさぞ不愉快だったに違いない。政宗には側室がいると聞いた、真に寵愛の相手がいるなら傍迷惑な話でもあったろう。次に政宗に会うのが怖くてたまらなかった。あの眼で射竦められたらと思うと震えが止まらない。
 は深く深く溜息をついた。
「そんな溜息ついたら幸せが逃げちゃうよー?」
「成実さ……殿」
「よく出来ましたー」
 独眼竜によく似た、だが彼よりは聊か柔和な顔立ちの男が顔を覗かせていた。伊達成実だ。
 政宗の身内である成実を、当初どう呼ぶかは悩んだ。苗字で呼ぶのを拒否され、名を様付けで呼べば、姫は梵の正室になるんだから俺は格下だよ、と返され結局は平凡に『成実殿』と呼ぶに至った。
姫様、御前失礼致します」
「みんなで来ちゃったー」
 成実に遅れて、小十郎、綱元、左馬之助が入ってくる。そういえば奥州に来て四人と話すのはこれが初めてだ。
「今、お席を用意致します」
「お構い下さいますな」
 と言われても、はとても困った。政宗の正室になる身とはいえ今は只の敗将の娘。勝者たる政宗の側近中の側近達を円座もなしに座らせるのは無礼だろう。ならばせめてと、敷物より降りて座したところ、凛とした声が響いた。
「先触もなしに何をしていらっしゃるのです!」
 喜多である。
「あー喜多来ちゃったね」
「来ちゃったねではありません! 正式な祝言もまだの未婚の姫君のお部屋に伊達の重臣が四人もきたら皆何事かと思うでしょう! しかも病み上がりの御方の所に大勢で!」
「梵の説教に行ってたみたいだからこっそり姫のご機嫌伺いに来たのにー」
「鬼の居ぬ間にっすね」
「なんですってお二人とも! そこへお座りなされませ!!」
「わー喜多怖いー」
「シワができるっすよ」
「お黙りなさい! 幼き頃より貴方がたを見知ってる私にその様な口をお聞きになるとはいい度胸です」
 に接する時の凛として優しい笑顔を向ける彼女とは違い、この豹変ぶりはまるで仁王の如く。とはいえ、政宗の血縁である成実にこの態度、お叱りを受けないかと新参の身は一人危ぶむ。
「小十郎、綱元殿! 貴方達もですよ。首根っこ捕まえてお止めしなくてどうします! 四人とも正座なさい!」
「姉上、姫様の御前です。どうぞご勘弁の程を」
「何を言うのですか、御前だからこそ贔屓は出来ませんよ」
 喜多の独壇場は留まる所を知らない。左馬之助がの方をチラリと見てくる。助けてという意図なのだろう。見捨てるのも気が引けるし小十郎達の態度も喜多の言葉も気になる。 は意を決して、ことさら場に合わぬゆっくりとした口調で聞いてみた。
「姉上とは喜多殿のことですか?」
「まあ姫様、私ときたら年甲斐もなく失礼を」
 意外にもあっさりとホホホと笑いながら言う喜多に、態度が違うっすと呟くのは左馬之助で、それを命知らず! と止めるのは成実だった。
「左様でございます。小十郎は母を同じくする弟で、綱元殿は父を同じくする弟にございます。私は鬼庭家で生まれ片倉家に母の連れ子で入りましたので、今は片倉の娘にございます」
「お二人を挟んで姉君がいらっしゃるのは伺っておりました。でもお会いするのは奥州だと聞いていたので喜多殿のことだとは思わなくて」
「そうでございましたか」
「ご容赦を姉上、まさか甲斐まで来られるとは我らも思わず」
「政宗様が侍女を呼び寄せられるのに私が来ぬはずはないでしょう」
 下出に出る小十郎や綱元に対して喜多はことさらピシャリと言ってのける。会話はすぐに不穏なほうへ動いてしまう。
姫様、この者達にいじめられませんでしたか? 小十郎は無骨で女子相手に気が利きませぬし、綱元殿は優しげに見えますけどお役目第一で意地悪なきらいがあります。さぞ嫌な思いをなさったでしょう?」
 居辛そうに姉上、と呟く小十郎や苦笑いをする綱元が小さく見える。甲斐では身の振る舞いのことや政宗の子をあげて欲しいなどとは言われたが、不自由なく暮らせるよう手配してくれた彼らだ。そう考えると若干気の毒ではある。
「政宗様の片腕を担うのですから、もう少し強くお諌めしなくてどうするのです。お城への帰還の道すがらといい調子に乗りすぎです。姫様がお倒れになったのも、今の噂も憂いもすべて貴方達のせいですよ!」
「か、甲斐にいる間にね、お二人には気を遣って頂いたの。お二人の姉君が私付きの傳役になってくださると教えてくれて、いつ来られるのか楽しみにしていたの。喜多殿で嬉しいわ」
「まあ嬉しいことを言って下さいます。二人がもっと早く姫様にお伝えくだされば姫様を驚かすようなこともありませんでしたものを」
 残念ながらには助け舟は出せそうになかった。
「お言葉ながら姉上、姉上が甲斐に来られてから、姉上ご自身が姫様と我らを接触させて下さらなかったと記憶しておりますが」
「そうだったかしら」
 小十郎の反撃もひらりとかわす様は、暖簾に腕押し。自分より十歳以上年上の男がこのように女子のいいようにあしらわれるのはなんとも物珍しくて、また戦々恐々の想いで見ていた。
 するといつの間にか喜多の眼を掻い潜った成実が近くに来て、心持ち小さな声音でに話しかけてきた。
「打掛着てるね、大丈夫? 寒い?」
「雨が降っておりますので少し涼しく感じてしまって」
「そっか、でも今から余り着込まないほうがいいよ。冬が耐えらんないよ」
 噂を聞く者達より身近な成実がそう言うくらいだ、彼の眼から見てもこの格好は心許なく見えるのかもしれない、そう考えては頷いた。
「そうですね。後で腰巻姿に変えてもらいます」
「うん」
 成実満足げに同じように頷いて、涼やかに笑みを作った。ふと思う。政宗もこのように笑うのだろうか。
「どうしたの?」
「いえ……、あの、政宗公も喜多殿にお説教されたのですか?」
「うん、帰還の時の暴走を怒られてたよ。傳役の強みだよねー。てか姫、梵のこと政宗公って呼んでるの?」
「え、はい」
「梵の奥さんになるんだし、そんな他人行儀な呼び方じゃなくてもいいと思うよ。なんというか俺を呼ぶ時より遠い言い方だよ?」
 途端に消え入りそうに、はい……と眼前の姫御前が応えるに、こりゃ当分溝は埋まんないなと思う成実であった。

- continue -

2011-06-07

呼び方密かにとても悩みました。 政宗とか、成実とか、今でいう名の部分は当時は諱(いみな)と言われ=忌み名という意味もあったそうで、呼ぶのを憚られるものだったそうです。
家臣が主君の名前を呼ぶのはご法度で無礼極まりないことでした。だから小十郎が「政宗様!」と呼ぶのは本来お手討ちモノだったり……。
お屋形(館)様は○。これも屋形号というものを朝廷から貰った人のみに許されたものです。武田、北条、毛利、今川、上杉、朝倉、最上、大友など。
伊達は屋形号を所持していないので『殿』です。また、主君が家臣を呼ぶ時には名を呼んで良かったようですがあまり使われず官位や通称で呼ぶそうです。

ですので政宗のことを呼ぶ時の区分けとして
小十郎とか側近、一門など⇒『政宗様』(呼ばんと夢小説成立しないし)
他家臣団や伊達軍の皆さん⇒『筆頭』
侍女や下男など下位の身分⇒『殿』『お殿様』
など、一定身分より下は名前を呼ばないように心がけてみました。
夢主はお嫁さん候補なので政宗様と呼ばせるのがいいんですが、背景が背景ですので距離を少し出したくて『政宗公』にしてみました。