乃東枯(二)

 心の整理が付かぬままは奥州に向かう輿の中にいた。
 別れの日、世話をしてくれていた娘は簪を握り締め、お姫様お元気でと頬を濡らし、老婆にはお心辛い時は甲斐の緑を思い出してくださいと励まされた。二人には随分自分の悲愁を晒してしまった。側に居て心苦しい想いをしたことだろう。
 きっともう甲斐や信濃に戻ることはないのだろうと思えば激しい寂寥の念に包まれ、時が止まったように甲斐の景色を眺めていたが、政宗に輿に乗るようにと言われれば従うしかなく、まるで罪人が乗る籠のように感じられた。
 輿から外を覗けば兄の葬られた寺が見えた。結局、幸村の墓参りは一度しか行くことは適わなかった。その一回も成実が護衛として付いて来ていたため、墓前に縋りついて許しを請い泣いてしまいたいのを堪え、取り乱すまいとただ物静かに手を合わせるに留まった。
 沢山の未練を残して甲斐を後にしたには、新しく付いた侍女が話す奥州の話も煩わしいものでしかなく、誰にも胸のうちを話せず一人零れ落ちる涙を拭い袖は乾くことがない。
 救いだったのは政宗が手配したらしい侍女達は至極有能で、そうしたの心情をすぐに汲み取ると奥州の話も必要以上しなくなり、移動の中、の姿を一目見ようとする兵が近づかぬ様に手配し、小十郎はじめ政宗の側近ですら拒んでくれた。
 あれこれ世話を焼く侍女に対しただ一言礼を言えば、大丈夫でございますよ、と包み込むような笑みを浮かべる彼女らに、何も出来ぬ子供のような自分を情けなく感じてしまう。
「何でも遠慮なくおっしゃってくださいませね」
 と言う大分年上の凛とした印象を持つ侍女に、不覚にも亡き母を思い出した。
 京の御前と呼ばれ、もう何年も前に泉下の人となった母と、この侍女の所作はよく似ていた。道中彼女はずっと自分の身近にいて、それだけでいくらか心を和ませてくれる。
「気を遣わせます。ありがとう」
「そのようなこと仰って下さいますな。姫様のこと、甲斐の娘と老女からもよくよく頼まれておりますれば、私も誠心誠意お傍にお遣えさせて頂きます」
 あの二人がそんなことを言ったのか、自分に気を遣っても金にはならぬだろうにと酷く捻くれた想いと、ありがたさが胸を去来する。
「――武田の統治はとてもよいものだったのでしょうね。あの二人からは旧主の悪口など一つも出ませんでした。他の土地では新しい領主に気に入られようと旧主を貶める物言いをする者は多くおります」
 ならば何故、そんな国を攻め滅ぼしたのだと叫ぶほどは物のわからぬ娘ではない。今は理想だけでは成り立たない。悲しくて虚しいがそれが世情だ。
 いくら世を儚んでもには何も出来ない。そう、と呟いてただ静かに目を伏せた。

 日数が経とうとも、いや過ぎ行くからこそ、心に芽吹く寂寥は確実に大きくなっていく。頼るはずの相手は仇で、彼によって絶たれたものはの全て。
 二人の間の隙間は果てが見えず、だからこそまた失われた者らへの思慕が募る悪循環に打ちのめされてゆく。
 兄が恋しくて、故郷が恋しくて、更に遥か昔に露と消えた母が恋しくて。
 ある夜、庄屋の家を一夜の宿に宛がわれ褥に入る前、は耐え切れなくなって呟いた。
「私が寝るまで手を握ってくれませんか?」
「御手をでございますか?」
 侍女は驚いたがすぐに柔和な笑みを湛えて、私でよろしければと快く手を添えてくれた。侍女の手はとても温かくの手を包み込む。
「……母上」
 どうしようもなく感情が溢れ口をついて流れて行く。
 十六にもなって恥ずかしいとなけなしの理性が叫ぶのに、は感情の吐露を止めることが出来なかった。侍女は何も言わず手を擦ってくれ、その優しさにすっかり安心しきったは久方ぶりに穏やかに眠りに付くことが出来た。

 翌日目を覚ませば、その侍女が昨夜と同じ温顔で控えており、気恥ずかしいばかりのとは対照的に、重ねた年齢の余裕か涼やかな笑みを浮かべて彼女は言った。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、あの、昨日は……ごめんなさい」
「お気になさらずともよろしゅうございますよ、私でよろしければなんなりと」
「とても子供のようなことを言いました」
姫様がお恥ずかしいのでしたら二人の秘密に致しましょうね」
 まあ、と破顔して彼女は提案した。
 侍女の名は喜多といった。
「長くご不便をおかけしましたが、明日にはお城でございますよ」
「そうなの」
「すでに奥には御座所を用意させて頂いておりますので御着きになったらゆっくりして下さいませね」
 喜多は声音も優しい。の身支度を整えながら、彼女は溜息をつく。
「御正室様をお迎えするのですから、本来は新しい御座所を造らねばならぬところですが何分急なことでございましたのでお許しください。きっと政宗様がよい頃合の時にお造り下さいますよ」
「今の待遇だって身に余ります。そんなに金子を使わないで下さい」
「まあ姫様」
「片倉殿や鬼庭殿にそういう話をしたら御正室になるだから慣れて頂かなくては困ると言われて。でも使えるものを使えばいいと思うの。なんというかその、伊達軍の方は皆持ち物も派手で豪華でしょう? 私、目が慣れなくて」
「まあ! そんなことを? いい歳した男が説教じみると嫌ですわね。 ――調度や御衣裳に関しては体面というものがございますから、お好みのままにとは私も一概に申せませんけど、時と場合をみてご一緒にお決めいたしましょうね。なるべく意に添うようにさせて頂きます」
「ありがとう」
 小十郎や綱元をいい歳してだの、説教じみてだの言ってのけるこの侍女をはまじまじと見てしまった。素性はどのような人なのだろうかと。

 時間に合うように支度され、今日もまた輿に乗る。その前にどうしても政宗と会うのは避けられず、眼が合えばおはようございますと頭を垂れるが、彼はああと言うだけでそれ以上の会話は続かない。好かれていないことは分かっているが、今まで兄であれ、忍頭の佐助であれ、主君である信玄公であれ、男に面と向かってそのような態度を取られたことがなかったは途方にくれるしかない。
「また姫様の食が細くなってしまわれるわ」
 二人の様子をみて喜多は溜息をつき、案の定その日の昼や休憩の折、はほとんど手を付けず弱々しく輿に戻ってしまうのだった。

 沈鬱な心持ちのせいなのか夕方になるにつれ、は段々気分が悪くなってきた。加えて間の悪いことに輿の揺れが激しくは泣きたくなった。
 何かあったのかと喜多に聞けば明日城に着く予定だったが、ことのほか進みが良く、急げば今日中に城に着く為、皆速度を上げて移動しているということだった。
 喜多に頼めば先頭の者に伝えて速度を落としてくれるだろうが、早く郷里に着きたいという者がほとんどだろうし、喜多を酷使するのも気が引けた。輿を止められて休憩する間視線を集めるのも嫌であったし、形だけでも様子を見に来るであろう政宗に会うのも嫌だった。
 は結局我慢するという選択肢に至った。輿の後ろに背を凭れ足を崩す。輿の後ろを抱える者はさぞ比重がかかるだろうがどうしようもなかった。楽にして、眠ってしまえばこのやり場のない気分も落ち着けることができるだろうと必至に眼を閉じるが、外は歓声に満ちてなかなか眠りを迎えさせてはくれない。すでに城下に入ったのか、外より熱狂的な声が絶えず上がるのだ。
「お殿様おかえりなさい!」
「大勝利おめでとうございます!」
「やっぱり伊達軍は最強だぜ!」
 領民であろう者達は口々に祝いの口上を述べ、子供達は兵に纏わり付く。武将も雑兵も勝利に気をよくしているのか無礼を咎める事はせず、頭を撫でたり歓声に応えたりするのだった。朦朧とする意識の中で、上田でも勝ち戦の折はそうであったと思い出せば、押し込まれていた孤独が胸を抉る。何の因果で家を滅ぼした者達の祝福の中にいるのだろう、は益々気が遠くなっていった。
 そうして歓声に包まれて半時、日もすっかり落ちて篝火が焚かれた門をくぐり城へと到着した。
姫様、着きましてございます。長くご不便をおかけ致しました」
 喜多ではない別の若い侍女の声が聞こえるが、朦朧として答えようがない。口を押さえて耐えるのが精一杯だ。
姫様? 失礼致します」
 御簾を上げる音の次は慌てふためく侍女の声が響く。
「姫様! いかがなさいました! 誰か!」
 は、なんと頼りない女子かと皆に思われてしまう、凱旋気分を損ねてしまうに違いない、と途方にくれた。だがもう身を上げる気力がない。
「Hey! どうした?」
「殿! 喜多様! 姫様のご様子が……!」
 そうだ、彼が気付かないはずはないのだ。知られなくなかった。彼も酷く面倒くさく思うに違いない。
 侍女が御簾を上げ、政宗が覗き込む姿が見えた途端、は糸が切れたように突っ伏してしまった。

- continue -

2011-06-02

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