牡丹華(四)

 眼を開くと見知らぬ天井が広がっていた。身を起こさず衾(ふすま)の暖かさに身を任せながら周りを見ればやはり見覚えのない場所で、此処はどこかと記憶を辿る。ぼんやりとした思考が徐々にはっきりすれば、否応なしに流れ込む耐え難い記憶には思わず顔を覆った。
 気だるい身体を持ち上げて外を覗うと、建物の所々に伊達の紋が布地が掛かっており、流れ込む記憶は現実だったのだと思い知らされる。日はすっかり昇り、の心とは正反対に広がる蒼穹に、更に居た堪れぬ想いが駆けた。
「夢にでも、出てきてくれればよかったのに」
 その言葉のまま、夢ですら会うことの出来ぬ兄が今はとても恋しい。
 ふと、自分の身なりに目をやると着ていたはずの打掛や間着は身に着けておらず、簡素だが清潔な寝間着に変わっていた。手篭めにでもされたかと一瞬息を呑むが、自身と部屋の様子からそうではないと思い至ると安堵の息を漏らした。
 再度、部屋を見渡すと衣桁には身に着けていた打掛が掛けてあり、広蓋の中には間着や細帯が仕舞われている。細帯に紛れて、政宗に切られた紐が眼に映ると胸が詰まった。
 当然といえば当然のこと、今暫くは心に平穏が訪れそうにはないようだ。
「あの、お姫様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
 そっと紐を手に此岸を去った者達を偲び心苦しさに息を凝らしていると、いつの間にか襖の先に何者かが控えていた。
 目をやるとと年の頃の変わらぬ娘が座しており話を聞けば、此処はとある寺社の一室であり、伊達軍の本陣ということだった。娘は寺社近辺の商家の一女であり、寺に女手がなかったことから、昨夜急遽呼び出され、一家総出で本陣の手伝いをしているという。
 が着ている寝間着は彼女のものだそうで、城主の姫が着られるには粗末だと詫びてきた。借りたことに礼を述べると娘は恥ずかしそうに平伏する。
「あの、お姫様、御衣裳のことですが、打掛の袂と裾が汚れておりまして、本来なら洗張でもとお勧めしたいのですが、そうしますとその間お姫様に着て頂けるような満足な打掛がございません。今父が目ぼしいお品を買い付けに行っておりますので、そちらが届きますまでどうぞご容赦下さいませ」
「そこまでの気遣い申し訳ないわ、間着だけで構いません」
 そもそも衣はとても高価だ。だからこそ農民の衣類は最低限の丈しかなかったし、古着屋で買って着回した。対して権力のある者は裾の長い衣を何枚も着込んだ。それこそ打掛などは贅沢品の極みである。今の自分は虜囚の身でボロ衣に着替えさせられても文句は言えないのだ。
「そのような! 片倉様や鬼庭様からも御身の回りのものに不自由おかけせぬようにと承っております」
「片倉?……鬼庭?」
「伊達軍の御武家様にございます」
「そう……」
 は一度目を閉じて、一拍置いてから続けた。
「戦が終わったばかりなのに出歩いて大丈夫なの?」
「はい、丸腰ではとてもですが、御武家様がご入用のものも一緒に買いつけにいきますので伊達軍の方が付いて下さってるみたいです」
 戦の後は危険だ、負けた兵は敵兵だけでなく落武者狩りにも気をつけなければならない。いつもひれ伏している農民が眼の色を変えて襲い掛かってくるのだ。落人は命の為、農民は生活の為、互いに姿を見て取れば一触即発、衝突が避けられることはまずないのだ。そんな中に何らかの物資をもった商人が通る……考えただけでも恐ろしい。
「それから、御衣裳は少し時間がかかるかと思います。なにしろ戦の前に呉服屋も小間物屋もは山一つ向こうに避難してしまいまして。三つ物屋すら通りません」
 尚の事大変だと心の中で呟いた。山道こそ落人や落武者狩りだらけだろう。武田の姫君方は無事に山を超えられただろうか、何かあったらと思うと身震いが止まらない。
「私のことは良いので気にしないで、今は寒くもないのだから間着で十分です。何事もなく戻られるといいですね」
 娘はありがとうございますと返した。この娘も父親の身が心配であろう。姫君方もこの娘の父も本当に何事もなく済んで欲しい、今はなにも傷ついて欲しくはないのだ。
「……この打掛と紐はこのままにしておいて下さい。形見なの」
 の言葉に娘は、あ、と声を漏らした。
「血糊がそのままなんて物騒で嫌でしょうけどごめんなさい、でも今はどうしても洗い流すことはしたくないの」
 洗い流してしまえば、兄がますます遠くなって消えてしまうのではないか、愚かにもそんな考えが過ぎる。は寂しい表情で打掛を眺め、娘は居た堪れなくなりながらも目を離せなかった。
 
 娘がまだ御用があるのでと辞して暫くすると、老婆が角盥に湯を持ってやってきた。老婆は娘の乳母らしく、昨日湯浴みをしていないのなら手水と一緒にどうかと気遣いしてくれたらしい。手際よく拭き清められながら、手拭いの温かさが心に安堵を齎してくれる。
 間着を纏い身支度が整うと、それにあわせるように娘が朝餉を運んできた。一口二口、口に運んだのだが、途端胃は抵抗し次いで胸と喉を迫り上がるような違和感が襲い掛かり、思わず戻しそうになってしまう。良い香りがするはずのそれをの身体は一切を拒絶する。
 平静を装っていても隠しようもなく己が身は悲鳴を上げていた。
「お姫様!」
 口を押さえて横に撓むの姿に娘は狼狽し、老婆も驚いて身を乗り出した。
「ごめんなさい、味に不満があるわけではないの」
「無理もありません、昨日から戦場(いくさば)の気に中(あ)てられてらっしゃるんです、御身体がまだ受け入れてくれないのでしょう」
「汁物だけでももう一口お飲みください、胃の腑の動きが整いますから」
 二人はそれ以上勧めなかった。今は匂いも堪えましょう、と老婆は早々に膳を下げ、娘は白湯を用意してから下がっていった。 
 そうして一人になると途端に覚束無い所作になる。手が震え、やっとの思いで広蓋の中にあったあの血付きの紐を掴む。
 一人になりたかった。だが、一人になれば落ち着いた姫の仮面は簡単に砕かれる。頬に涙が伝い、比例するように兄や主君、そして郷里への思慕が流れ出る。敵陣に在って増す孤独が一層その念を強くしているのかもしれない。
「兄様、どうして私の命乞いなんてしたの。私もそちらにいきたいのに」
 あの匕首は持っていかれてしまったままだ。 
 ああ簪がある、これで喉をつけばいい。それとも耳を貫いてしまおうか。
 そう思えば、小十郎の言葉が心に刺さるのだ。
――『真田殿とあの武士に助けられたお命、どうぞご短慮はなされぬよう』
 は頭を振るった。
 嗚呼、死ねない。
 最早命さえ自分ひとりのものではない。それさえも自由にはらぬのだ。
 生きることと死ぬことの葛藤の中で自分の髪を飾る簪を手に取って嗚咽する。誰かに聞かれぬように祈りながら。
「死ん、では、だめ……――兄さっ」

 昼が過ぎ、夕方になっても、の食欲はあまり回復しなかった。
 娘は体調や心情を心配し甲斐甲斐しく世話を焼きに侍るが、好転する気配もなく目を腫らし無気力なに本当に儚くなってしまわれると危ぶんだ。
 手間をかけてごめんなさい、此れを何かの役に立てて欲しいと頼りなげな手で簪を渡されると娘は当惑し被りを振るって遠慮した。
 伊達軍から十分お金は頂いているし自分の家は襲撃を受けなかったので無傷、仕事を再開するまでに時間はかかるがお金に困っているわけではないと。
 だが何度かの攻防の後、姫漏らした一言に、その言葉を拒んではいけない、と娘は思い至る。
「私はもう、よいのです」
「お姫様……」
「どうぞ」
「……では手前共でお預かり致します」
「ありがとう」
 その姿は身辺整理をしているようにも見て取れて御身体を案じる前にやはり御命を案じねばならないかもしれないと身が硬くなる。
「私の他に、こちらに助けられた方はいらっしゃるのでしょうか」
「いえ、お姫様だけでございます」
「そう」 
 話し相手が欲しいのだろうかと心配すれば、帰ってくるのは力なく振る首。どんなに案じても権力層に属さない娘にはどうする力もない。娘は只悲しく思い、姫を見た。

 そうして今日もまた、夜がくる。

- continue -

2011-05-06

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