牡丹華(三)

 小十郎という男に抱えられたは、あっという間に城の入り口付近に構えられた陣所に届けられた。蒼い陣幕に描かれた竹に雀の紋が自分を食ってしまうような錯覚を覚える。
 耐えかねて要害山城の方を見れば朱と蒼の軌跡が上がり、遅れるように轟音が轟く。
 嗚呼、あの朱色はきっとお館様だ、と考えが付けば胸が締め付けられた。どうかご無事でと願うも、やがて朱色は鳴りを潜め、比例するように蒼の軌跡が大きく映え出す。最期は蒼が朱を包み、再び轟音があたりに響いて、そうして山頂から下へ波がうねる様に勝鬨が上がって往く。
 戦は、武田の敗北で終わったのだ。
「……お館様!」
 遅れて伝令が届き、その予感が正しいものだとわかったは、立ち尽くすしかなかった。小十郎は落ち着いた声音で、こちらでは居心地悪いでしょうからと兵の居ない天幕の中へを誘導すると床机に座らせた。
「真田殿とあの武士に助けられたお命、どうぞご短慮はなされぬよう」
 去り際に一言告げると匕首を手に収めたまま下がってしまった。それは身内を亡くした敗残の将の娘への気遣いなのか解りかねたが、一人にしてくれたことはありがたかった。
「――…………っ……ふっ……」
 打掛の袖を噛めば途端に堪えていた涙が零れる。声が漏れそうになると一層打掛の袖を噛んだ。真田の娘として、幸村の妹として、敵将の伊達政宗や、先程の小十郎の前では絶対に見せるものかと思い目元を拭うも、溢れ出る喪失感に苛まれ、涙は止まることを知らない。
 嗚呼どうしよう、小十郎が戻ってくる前に泣き止まなくては。
 は何度も懸命に頬を拭い続けた。

 城内の掃討戦が終わったのはもう夜が顔を覗かせている頃だった。相変わらず天幕の中に座っていたは本陣にいる伊達軍の喊声で総大将の帰還を知った。
 兵の一人が篝火に火を燈しに来て暫くした後、小十郎とは違う武将らしき男が来て政宗が呼んでいると伝えにきた。決して会いたい相手ではなかったが拒むことが出来るはずもない。参りますと返し、誘導されるまま歩を進め天幕をくぐり、政宗その人に会う。
 政宗は昼間見た兜を外し、先程の小十郎なる男と話していた。改めて見れば兄幸村よりも年上ではありそうだったが若い。の姿を見止めると右手で頭を掻き、左手を腰に当てながら、若干気だるそうに近づいてきた。
「アンタ、Ah―― 姫だったな」
「はい……」
 一礼したままか細く答えれば、付いて来なとそのまま大股で天幕の外に出て行った。小十郎に促され慌てて歩を進め急ぎ政宗に追いつくと、天幕の外に居た者らの総大将の後ろに何故女子がと訝しげな眼差しに晒され、居心地の悪さに目を伏せるしかなかった。
「此処だ」
 ぶっきら棒な声が政宗から聞こえ、本陣の端の天幕に足を踏み入れる。一度訝しげに政宗を見るが表情は読めない。正面を見据え目を凝らせば、そこは兵の遺体が安置してある場所だった。ほとんどの兵の遺体はまだ城内にあるはずだ、ここに在るのはそれなりに身分のある者なのだろう。
 心がまだうまく付いていかないのか遺体の凄惨さなどどこか遠くに感じて、ぼんやりとそんな考えが掠めてゆく。
 だがようやく視線がある場所に到達したとき、は息を呑んだ。
「兄様……!」
 打掛の裾を掴むのも忘れて駆け寄り膝を突いた。見間違えるはずもない、それは兄幸村の遺体だった。
 戸板の上に置かれた身体は、左首と右脇腹に大量の血の跡がまざまざと残り、死因はそれであろうと否が応にも理解できた。
「兄様! 兄様兄様! ああっ」
 ああ兄様! 嘘! こんなのは嫌っ!
 濁流の様に流れ込む感情に掻き回されて何をしていいのか、どうしてやったら良いのかもう分からない。懐の懐紙の存在も忘れて、唯々手や打掛の袂で首や顔の血を拭った。固まった血はほとんど取ることが適わず、じかに触れれば人の温かさを放棄した身体は冷たい。兄は確かに涅槃へと旅立ったのだと思い知らされる。は悲鳴を上げるように兄を呼び続けた。
 顔を上げてみれば、兄の頭上には愛用のニ槍が打ち立ててあり、その槍を見るにつれ、もう何も見ていたくない、この槍で私も後を追えたら、と衝動が駆ける。
 だが反面、助けられた命だと言われれば無碍にも出来ずまたどうしようもなく心を掻き毟られた。
「……躯は持っていけねぇが、槍はアンタが持ってればいい」
 いつの間にか真後ろに立っていた政宗の声が静かに耳に染み、泣くものかと瞼を閉じた。
「明日にでも寺に運んでやる」
 は声もなく頭を垂れた。もう一度頬の血を少しでも拭ってやろうと手を這わせた時、慌しく幕中に数人の来訪者が現れて、声が響く。
 伊達軍の采配についての話は自分には無縁と振り返らずにいればどうもそうでないらしかった。入り口から刺々しい物言いが掛かってくる。
「政宗様! その娘からお離れ下さい! 間者であったらどうします!」
「男のほうとて分かりませぬ、真田幸村は影武者が何人もおると言います、現に真田を討ち取ったと申す者が何人も来ております!」
「政宗様、今その者たちを真田ゆかりのものとするのは危険にございます!」
 小十郎はその様を騒ぎ立てる女達より姦しいと、眉を顰める。政宗を思っての忠義でも此ればかりは竜の逆鱗に触れやしないか。政宗についてこの陣幕の中に入ってきていた同僚たちをみれば同じような表情を浮かべていた。

「いっそ首実検をすればよい!」

 たちまち空気は変わった。
 政宗はもちろん、小十郎はじめ付き従っていた者達からも、強張るような、怒りにも似たものだ。
 は息を呑み、その言葉に恐怖し震える手で篭手をつけたままの幸村の手を握った。恐ろしさに目の前が暗くなる。
 首実検、それは誰が誰を討ち取ったか大勢の前で詮議する場だ。名前の通り首を胴から離し、晒し者にされるのだ。
 幸村を討ったと言っている者達が討ち取ったのはきっと真田忍隊の小助達だ。兄は最期の時と決めて政宗との対決を望んでいた。政宗が自分の元に到達しやすいように忍びに申し伝えて雑兵や武将の多くを拡散させるよう命じていた。
 あの者と戦わねば死んでも死に切れぬよと語る兄に、仕方のない御方だと笑っていた彼らも同じく死んだのだ。兄様、小助、と聞こえるか分からぬ声で唇を震わせば、連動するように肩も震えた。
 を一瞥した政宗は投げつけられた諫言に不快感を露に舌打ちする。
「てめぇら、俺があの真田幸村を見間違えるとでも? 片目じゃ節穴か?」
「そうのような!!」
「武田は忍びが恐ろしいほど充実しております、何があっても可笑しくないのです!」
 溜まりかねたのか小十郎も口を開く。
「畏れながら、姫のほうは真田家ゆかりの品を所持しておられる、髪の色も真田殿によく似ておいでです、武田の者にも確認しましたが真田殿の妹に間違いないと証言しております」
「黙らぬか小十郎! 一門に指図するでないわ!」
「……小十郎は俺の右目、小十郎を貶めるのは俺を貶めるのと同じだ」
「政宗様!」
「首実検は必要ねぇ、真田の首を取ったっていってる奴らにはそれ相応の恩賞を出す、それでいいだろ」
「――はっ」
 総大将の言には従わざるを得ない。不承不承の態で下がる彼らに、政宗は煩い爺共だと内心悪態をついた。
 対しては一人、首実検はしないという政宗の配慮に安堵した。首と胴を切り離される屈辱を兄は味わわなくて済むのだ。兄の手を静かに置き、もう一度顔をじっと見つめる。
 討死にだというのになんて穏やかなお顔。ああ、なんだかすべてが遠くの出来事のように感じる。
「姫!」
 小十郎の声にハッとした政宗が自分に視線を走らせてくる。
 どうしよう身体が言うことを利かない、と思ったところでの視界は暗転した。

- continue -

2011-05-06

他の者が討ち取った真田→ 十勇士の影武者佐助の部下かなぁと思ってみたり。