牡丹華(二)

 虎の若子真田源ニ郎幸村討死の報は瞬く間に要害山城の武田軍を駆け抜けていった。兵達の動揺は隠すことは出来ず、主君武田信玄でさえ肩を震わせ、幸村、お前の道は、まだまだ遠くに……と嘆き目を覆った。
 は主家の女人方の後ろに控え、兄幸村の訃報を聞いた。眩暈を覚え取り乱すまいと唇を噤む。覚悟はしていたがいざ突きつけられる現実は心を痛めつけるには十分過ぎた。
 信玄は自身や家臣の妻子らに逃げるようにと何度も言い含めると本陣へと向かった。もうその姿を見るのは最後かもしれないと、女たちはすすり泣き、はただ見送った。
 女人方はその場から動こうとはしない。この主郭の奥で全て覚悟を決めて最期を共にするのだろう。どんな悲惨な華を散らすのか、それは見るに耐えないことだとはそっと主郭手前の塗籠に移った。
 ――それから一刻、兄の死によって戦況は大きく変わり、三門に留まっていた敵軍はすでに四門を落とし五門に迫っているという。我が身にも最期の時がきたかと牡丹を散りばめた緋色の打掛を握り締め、眼を瞑る。
姫様、これよりは大変危険で御座います。早うお逃げください」
「無用に御座います、今逃げれば残った意味がありません」
 しかしながらという家臣には退かない。
「姫様方は昨夜落ち延びられました。敵は城内に姫方一人もいないとなれば血眼になって追っ手を差し向けましょう。重臣の娘が一人でもいれば姫様方がまだ城内におると探すでしょうし、その間だけでもお逃げになる時間を少しでも得ることが出来れば……」
 いっそ替え玉のつもりで残りました、と続けると家臣はいよいよ顔色を変えた。
「何を仰いますか、まだそのようなことを! それが何を意味しておるのかわかりませぬか! 姫様方には佐助が付いております、心配御座いません! どうか!」
「慰み者になるなど覚悟の上」
姫様……!」
「貴方も早ようお行きなさい。長きお勤めご苦労でございました。……ありがとう」
 もう何も聞かぬと顔を背ければ、家臣は力なく頭を下げその場を辞した。兄や主君や、今去っていった家臣、この緊迫した状況で逃げよと声をかけてくれることがどれだけありがたいかも解っている。しかしながら、戦うことの出来ぬ身であればせめて役に立ってから死のうと決めていた。
 恐ろしくてたまらないが後悔はしていない。だが――

 は控えていた局の塗籠に移り閂を掛け、時が過ぎるのを待った。
「慰み者になる覚悟なんてないくせに……」
 自分を見つけるのは武将か、足軽か、それとも負け戦に狂気を煽られた味方か、いずれになるかはわからない。武将であればこの場で犯すような真似はすまい。主家の姫君方の振りをして追っ手から時間を稼ぐこともできるかもしれない。だが後者が来たときは……。
 しっかりと家紋の六文銭が入った匕首(ひしゅ)を握り締め、息を呑んだ。昨夜、兄が手入れをしてくれた。仕損じることなく死ねるだろう。
 居住まいを正し懐に忍ばせておいた紅い紐で膝を縛りながら想をねる。この紐もまた、今生の別れになるやもしれぬと形見代わりに兄から渡されたものだ。兄と共に数多の戦を駆け抜けたこの紐があれば大丈夫、何が来ても真田の娘として死して後も己を敵にさらすまいと眼に決意を込めた。
 それからどれくらい経ったか、には判らなかった。半刻か一刻か、はたまた一瞬か。耳にかかる音に気をやれば、怒号や歓声が一層近づいていた。耳になだれ込んでくる音は味方の悲鳴と猛る武者の咆哮か。
「筆頭! ここはいませんぜ!」
「こっちにはいねえっす!!」
「こっちもだ!!」
「くそっ! どこいったんだ!」
 周囲の局を勢いよく開く音、鎧が揺れカシャカシャと響く。息を潜めれば何かを探す様子とそのうち逃げ遅れた侍女を問いただす声が耳に入った。何を探しているのかと思案すればすぐに逃がした姫君達の姿が浮かぶ。
 どうするか、姫君の振りをするか、しかしこの喧騒に聞こえる口調は将にしては荒々しく思えて咄嗟に判断が付かない。雑兵相手にもし命を絶ち損ねて目を欺くことも出来ず辱めを受けるようなら残った意味もない。なんとか姫君の一人だと偽り武将相手に話を付ける様彼らの前に出るか、そう奮い立たせるも、これから起こるかもしれない恥辱には耐えられそうになかった。ならばとぐっと唇を噛む。姫君の打掛を着た遺骸を転がそう、幸い姫君の振りをするつもりで拝領した鮮やかな打掛がこの身にある。
 そのうち、あそこの塗籠は調べたか? という声が聞こえ、間に合わぬとは咄嗟に匕首の鞘を抜いた。
「最早、此れまで」
 恐れを抱きながら、だが勢いよく刃を己が首に向けた。

 その刹那――
 ドォンともバリバリとも聞こえる轟音がしてあっさりと塗籠の扉は破砕されてしまった。
「――!」
「Hey,girl. そこまでだ」
 余りの轟音に思わず手が止まり、舞う砂埃に眼を痛めつつ扉の方向を凝視すれば声の主であろう武将らしき男が立っていた。黒い鎧に蒼い陣羽織、右手には刀を携え、その周りには蒼や黄檗色の陣羽織を羽織った兵が揃っている。武将は視線はに合わせたまま左手を腰にあてる。
「間違いないか?」
「は、真田幸村様妹君姫様です」
 武将の問いに答えたのは、先程自分に逃げるようにと言った家臣だった。
「何を……」
 ああ何を言うのか、武将が来たのなら当初の覚悟の通り身代わりになって撹乱し、姫君方がお逃げになる時間をより長く稼げたかもしれない。それが適わなくなってしまった。
 目の前が暗くなるに対し、武将のほうは無遠慮に顔を近づけたかと思えば強い力で彼女の右手首を握り、握られたは思わず匕首を落としてしまった。床に転がる懐刀の六文銭を眼に留めると武将は続けた。
「I see.」(理解した)
「俺は奥州筆頭伊達政宗、真田幸村にアンタの身を託された」
「独……眼竜」
「That's it」(そのとおりさ)
 半ば放心状態の頭を揺さぶる名には目を見張った。
 誰あろう今武田が戦をしている敵の総大将の名ではないか! 本陣奥で構えているはずの敵将がまさか最前線に来るなどと誰が予想できただろうか。 
 何故こんな人がここに居るの、兄が託したから本人が来たと言うのか、ああ兄様。でも姫様が。
 想いが濁流のように流れて惑乱するをよそに政宗は続ける。
「アンタの処遇は俺が決める。来てもらおう」
 有無を言わさず、の腕を引っ張り上げた、が自害の為に膝を縛った紐に抑えられた当のは立つことが出来ず身を崩し思わず反対の手を下についてしまう。
「Ah――」
 政宗は紐に手をかけ、ぐいと引っ張るも頑丈なのかびくともしない。
「随分きつく縛ったもんだ。―― 一切逃げるつもりも、死して後も己を敵にさらす気もなかったって訳か」
「……」
政宗はそのまま紐を少し引っ張り、刀をかけてそれを裁つ。圧迫が取れ、は初めて紐があった場所に痛みを感じた。政宗の言うとおり気付かぬうちに相当きつく縛ったのだろう、鬱血してるかも知れないわと思いながら、漫ろに紐を追って刀に目をやる。
 刃には隠しようもなく血が付着し、どれだけの数を斬ったかまざまざと見せ付けられた。政宗はの視線が自分の刀にあることに気付くともう一度彼女を見直し一言告げた。
「立派な最期だったぜ」
「――!」
 何があったか悟るには十分な言葉だ、これについている血は兄のものかもしれない、震える手で切られた紐を握った。
 政宗は力なく紐を手に取るを立たせると、後ろに控える男に預けた。精悍な偉丈夫がをしっかり支える姿を確認すると踵を返す。 
「真田はアンタの死を望んでいない、こいつは不要だ」
 床に落ちた匕首を拾い鞘に収め、それもまた彼に投げる。
「小十郎」
「はっ」
「そこのkittyを頼む。……次は虎だ」
「御意!」
 その言葉に主君の顔が過ぎり、やめてと言いたいのにもう声が出なかった。むなしく動くのは空を掴む手と口ばかり。政宗が勢いよく塗籠を抜け出せば喊声が起こる。
「おめえら、オレについて来いよ!」
「イヤッホー! 筆頭のお通りだゼェ!」
 勢いづく彼らは、対比して怖気づく自軍を尻目にどんどん先へ進んでいく。小十郎と呼ばれた偉丈夫は政宗を見ながらも今にも崩れ落ちそうなに声をかける。
「姫、本陣にお連れ申す」
 しかしは心ここに在らずの態(てい)でお館様、兄様と声を漏らし腕を伸ばすばかりだった。小十郎は姫、ともう一度声をかけ反応がないのを見て取ると行動に移した。
「失礼致す」
 一礼して力を入れればあっけなく肩に抱えれた。抗議の声が上がる前に小十郎は走り出す。
 揺れる視界の中でが見たのは、あの家臣だった。今の状況を満足げに見つめ一礼したかと思えば、そのまま座り込み、小柄を引き抜き己が首を裂いた。
「! ――やめっ!」
「武士(もののふ)の覚悟にござりますれば」
 振り返らずに小十郎が言う。
「あの男は自分の命をもって姫を助けてほしいと政宗様に申された、命をとる気はありませなんだが止めても水を差すだけ。あの男の心意気、汲んで頂きたい」
「っ……ぅ……」
 聞きながら只々、敵の前で泣くものかと堪えた。
 兵の喊声が遠くに聞こえた。

- continue -

2011-05-06

要害山城は主郭にいくまでに八つも門があるそうです。
匕首(ひしゅ):懐剣。厳密にいうと違うのですが愛姫の手紙にもあったのでこちらを採用。