(三十六)
城に戻るまで元親はを放さなかった。野郎共が騒ごうと、親貞や親泰が目を丸くしてみようと、左近ににやつかれようと気にする様子は見られなかった。はといえば、羞恥よりも安堵が勝り、何より離れ難くされるがままに留まっていた。帰城し、お方様はこれより湯に浸かられますからと、やんわりとるいに解放されたが夫のあの視線は何とも言えないものだった。
今は真白の白小袖に包まり髪を梳かれながら横たえている。天井を見上げればいつも通りの細工が見え、横を向けば涙目なかえの顔が見えた。夫婦として山を一つ越えたのだろうが今は赤面も何もない。ただ出来事が怒涛のように通り過ぎてそれを思い出すのが精いっぱいだった。
「お方様、おみ足にお薬を」
かえに代わってテキパキと動くのは年若いるいだ。くだんの件に関わらなかったが故か、それとも肝の座った性分なのかは分からないが、るいだけはそれほど表情に曇りがない。侍女頭が傷つき、かえやみわが不在の間は彼女が混乱する奥御殿を差配したのだという。人はいざというときその本領を発揮するというが、今のるいはよりもずっと大人に見えた。
「……皆の傷は?」
「ご安心下さりませ。忍び相手に後れを取りましたが皆心得のあるものばかり。急所は外れております故、皆じきに快方に向かうそうです。侍女頭様も今はみわ様が見ておられます」
「そうか。……放り出して、すまぬことをした」
「お方様、皆お方様のご心情を察しております」
「そうはいかぬ……」
「皆がお方様の敵ではございません。ご懐妊の報を皆々喜んでおられました」
「信じよう……よう詫びておいておくれ。見舞いもあれこれと送ろうほどに」
「はい」
失礼します、とるいが触れた足は痛んで仕方がない。泥に濡れた足袋は馬上で元親に取り払われたが腫れと傷は彼を閉口させる程だった。るいが懐から取り出した薬はに懐妊を告げたあの曲直瀬という薬師の調合したものだ。忍びに襲われた直後、かの薬師は城へと駆け込み保護を求めたそうだ。忍びにとっては露見してもよいことだったのだろうか。彼は薬師を討たずそのまま奥御殿へと来ることになる。
「沁みるな」
「曲直瀬様の薬はよく効きまする。曲直瀬様は今皆の治療をされているようです。僭越ながら福原様の傷も診られたよし」
「じいの?」
「あ」
と、声を上げ口に手をやるるいに、これ、と窘めるのは沈痛な面持ちのままのかえだ。るいは急に幼い顔に戻り対してかえはぴんと空気を張って畏まった。
「申し訳ござりませぬ。福原様におかれましては数日前より此方にお越しの由。なんでも殿が諸々の件の解決の為内々にお招きになられたそうです。残念ながら相手に嗅ぎつけられ御怪我を……」
「ご安心下さりませ。大きな怪我ではごさりませぬ。しかしながら」
「綺麗に治してゆかねば兄上に感づかれる、か」
「はい」
「そのこと誰よりも福原様がお気になさっておられました」
「そうか」
だがあの兄は総てを知っているのだろう。だが敢えて時を待つのかもしれない。あの兄が牙を剥いたとき自分はあの智謀を防ぐ盾とならねばならない。
「お方様は少しおやすみになられて下さいまし」
「左様にございます。せっかくご無事に戻られたんですもの」
「そうしよう……」
今は気を揉んでも仕方があるまい。こうなれば腹の子を無事産んで守るだけだ。そう思ってはゆっくりと目を閉じる。暫くするとかえはホッと胸を撫で下ろし、るいと共に広縁へと退出する気配がしては横を向いた。
撫でる腹はまだ出てもいなければ動きもしない。だけどにはこの上なく愛しいと思え鼻の奥がつんとなった。
もう、人であってもいい。
元親の許には続々と忍衆からの報告が舞い込んでその対処に追われていた。有能な弟たちが人を集め先に手を打っていたお陰で造反者とその賛同者はすぐに捕えられた。並べられた者はそれぞれ内蔵助と同じように最初は口々に怨嗟を述べたが、最後には涙に暮れ無念を口にするものが殆どだった。
あの日、主君不在の四国は各々地方の守備に回り穏やかに国を守っていた。ところが徳川に化けた黒田軍を毛利が主導し本拠を狙ってきた。各地に散らばった兵は急ぎ本拠に向かったが彼らは主力ではなく、またその本拠を守っていた味方も老臣や実戦経験の浅い者らばかり。蹂躙されていく国を守ることも出来ず倒れる者や、城の中で怯えるしかなかった女子供、散らばった屍を思い起こすだけで口惜しさが止まらないのだと彼らは泣いた。彼らにとって内蔵助の言葉は自分たちの無念を体現しただけだったのだろう。原因は俺だと呟いて後は忠澄に任せた。彼ならば重すぎず軽過ぎぬ裁定を下すはずだ。
もうすでに夜の帳が下りて久しい。過激な行動にでた内蔵助に対しては厳しい気持ちを持たざるを得ないがそれでも後悔が募る。もうすでに自分は立ち止まれない。怨嗟も嘆きもひっくるめて国を守るしか道はないのだ。元親は一度目を閉じて庭先を見た。
「へっ分かってたことだがな」
雨も収まり、虫が鳴く。だがその呟きに答えるものはいない。一人になればさまざまなものが去来する。次に元親の脳裏を掠めたのはの祖父福原の顔だった。の無事と懐妊を知り顔をくしゃくしゃにして泣いたあの好々爺の肩を終ぞ抱いてやれなかった。立場として駄目だと思ったのだ。総てを憎いと思ってはならないし寛容すぎてもならない。やこの祖父に感情があるように元親の後ろに控える者らの感情もある。改めてこれは大事なのだと思う。元親との今後が瀬戸内の将来を決めるのだ。
察したのか、アニキも今宵はお休みください、との親貞の言葉に言われるまま立ち上がって奥御殿へ行こうとしたがすぐにその足を止めた。無論の心配もあったが今日はその時ではない。まだ何も解決に至っていない。それはあの物分かりの良すぎる妻もまた分かっているはずだ。
今日は主殿に、と言い置いて引き返すと近侍の表情に少しだけ安堵が見える。この近侍がに悪意を持っていると感じたことはないが、彼にも元親と同じ懸念があるのだろう。
「あぁ、あんた」
「まあ、殿」
引き返した先に、妻の侍女るいが立っていた。畏まろうとする彼女を制止し聞くと、も眠り今見舞った侍女頭の容体も落ち着いたと答えた。ただ、生首が転がり血で汚れた場所にを置くことや女子衆の動揺から皆別の局に詰めているということだった。
「そうかい、あの場所にもうは置けねえな。建て直しが妥当だろうな」
「僭越ながらお頼み申し上げます」
「あんたも疲れてるだろうが付きの侍女として暫くは踏ん張ってくれ」
「はい、一心に努めます」
恐縮したように深々と頭を下げるるいをそれ以上見ることもなく元親は数歩進むが通り過ぎざま彼は不敵に笑った。
「あんたとは随分前に会ったなァ」
「え……」
「さぁて、どこだったか。砂埃のすげえ舞うとこだったよな」
「……」
「次は会いに来いって伝えてくれ」
颯爽とした鬼の背に、るいは表情を変え在りし日の夕暮れを思い出していた。宝を求めて海に出て、各地を回り様々な人間と交友を持った。時として刃を交えて理解し合ったこともある。あの頃が長曾我部元親にとって最も充実した黄金の日々であったに違いない。時が経てば皆それぞれの岐路に立つ。今長曾我部元親が選んだ路の先に居るのは彼の兄弟家臣そしてだ。それがまた輝ける日々となるかは彼次第であろう。
食えぬ人だとるいは思い、彼女もまた手にした薬湯を持って侍女頭の許へと向かう。途中、同じように清潔な布を運びにきたかえは未だ動揺の中にいるようだった。のこともさることながら、椿井様が島様だったなんて、と言うかえに頷きながらこれ以上何もないことを願うのだった。