(三十五)
「――何してやがる」
鳥たちの羽ばたきと同時に両手首に強い力が掛かり微動だにしなくなった。は何が起こったか瞬時に判断出来ずにいた。だがすぐに体温と大きく聴覚を刺激する声が聞こえて否応なく目を見開くに至る。
「え……」
そこには心の奥底で求めた夫の姿。彼もまた雨に濡れ、小枝で切ったのか頬に傷があった。なんて都合のいい幻が映るのだろうと思うのに己の女々しさを詰る気にもなれなかった。
「莫迦が」
夫の幻は答えず強引に手を捻り上げ匕首を抜き取るとパンとの頬を叩く。叩かれた瞬間雫がいくつか視界に散って、夫の表情をぼやかせた。叩かれた頬がじんじんとしてそれが幻でないと知らせ、頬も心も痛んで苦しい。たかが平手一つでこんなに痛いのに自分は何をしようとしていたのか。
目の前の男は苛ついたようにも泣きそうなようにも見え、やがて頬に添えたの手に自分の手をやって確かめるように撫でて来た。
「この、莫迦野郎……っ」
その手は大きく温かく、聲は絞り出すようで激しく情動を揺さぶってくる。途端、不安と安堵が関を切るように漏れ出でて四肢の力は抜け鼻の奥がひどくツンとなった。
「勝手に悩んで、勝手に諦めて、何をしようとしてやがった」
「もと、っ……」
「腹に子がいるのにこんなところに上りやがって何もかんもボロボロじゃねえか」
「……もとちか、もとっ……」
「心配かけやがって」
聲が聴覚を伝い心の臓に響いてくる。感情だけが先走って空いた方の手はふらふらと元親の頬に触れた。彼の手は温かかったが顔はとても冷たかった。雨風に晒されたが故だと思い知るとそれ以上言葉にならない。元親もまたもう片方の手を支えるようにの脇に入れる。がっしりとした躯体はそれだけでを覆うようだ。
「帰ろう」
耳を撫でる声は優しく心に沁みる。ははっとした。出来るならそこに溺れてしまいたい。でもそうではないのだ。
「……なら、ぬっ」
「っ」
身を捩るも逃げおおせることが出来ないは両の手で元親の胸を叩くしかない。普段の妻からは想像出来ない反撃に元親は少しばかり驚いたが、何度も名を呼んで抱きしめた。すると押さえていた感情が溢れ出るようにしゃくりの混じる声がして弱弱しく彼を拒む。
「私は、……この子も、……生まれても、家の為にならない……っ」
「……なんでそう思う?」
「……顔も知らぬ者らが言うておったのを聞いた……。私が身籠ったならば突き落としててでも腹の子は流させると」
僅かに元親の喉が鳴った。
口にするのも物騒な言葉だった。内蔵助らが何をしようとしていたか改めて思い知り元親の喉は鳴った。
「お前の耳に入れて、その家臣を粛清したとて終わりではない。毛利は……長曾我部の憎悪の対象だから……。お前は、子を守ってくれる……でもそれは長曾我部を二つに割る。そうなったらっ……」
「毛利が出てくる、か?」
「……そう、だ」
「……あの男はきっと大義を掲げて生まれた子を支援する。家中を引っ掻き回して結果長曾我部は弱体化する。運良く腹の子が継いでも家中と軋轢のある子は毛利を頼り言いなりになるかもしれねえ、そう思ったか?」
は抱きしめられるまま元親の胸に寄りかかり小さく頷く。顔は見えずとも彼女が涙に暮れていることくらい元親にも分かる。震える彼女はぽつりぽつりと呟いた。
「……嫁いだ、当初、どうせ閨を拒むなど出来はしないから、子が出来た時はひっそりおろせばよいとさえ考えた。駒、だから、そんなもの何とも思わぬと。……けど、いざ腹に宿ったらおろすなど出来なかった……。もしおろし、ても、このまま生きながらえる、は、子に申し訳がたたぬ……、どうせ生まれても、生きていても、望まれぬ生なら、子と一緒に死出の旅に出た方が良いと思った」
「……」
「最初から、お前を拒んでいればよかったのだ……っ」
後悔を宿紙に丸めて捨てるようには言った。元親には自己嫌悪と処理できない感情が入り交じっているのが見えて宥めるように妻の柳髪を梳いた。
「じゃあよ、あんたはなんで俺を拒まなかったんだ?」
「……っ」
「駒だから、だけじゃねえだろ?」
「やめ、っ」
「やめねえよ。――長曾我部が嫌なら全部放り出しゃよかったんだ。なのにそうせず家の駒になろうと考えたのはほんの少しでも俺を憎からず思ってくれたからじゃねえの?」
「ぃ、ゃっ」
「」
怯えるように首を振る妻はあまりにも弱弱しく年相応の若い娘そのものだ。逃すまいと腕に力を込めれば身動ぎする彼女の雫が散る。
「そんなもの、っ、何にもならないっ」
「んなこたねえよ」
「何故、そんなことが言えるっ! 私は、お前の妻で、でも、仇の妹で、お前も兄上も憎めず、……、どちらの役にも立たぬ……それどころか只の火種ではないか……っ、もう、このまま……」
――捨て置いてくれ。
それは懇願のように聞こえた。はなお一層身を震わせ、元親は小さく首を振り名を呼んで、視線を合わせるべく彼女の顎に手を当てた。優しい手つきだがには恐ろしかった。どんな顔をしていいか分からない、否、今どんな顔をしているかも分からない。
「なら、なんでそんなに泣いてんだ」
「……ち、か……」
「少なくとも俺ァ違うぞ」
恐れの入り交じる眸から一滴零れ落ちるのを見て元親もまた視線を逸らした。そこで舌打ちをし頭を掻いて叫ぶ。
「あーっ! くそが! 確かにあんたを娶ったのは家康の勧めだ。抱いて溜飲を下げる気もあったこたあ否定しねえ。だがな、それだけならそれ相応の扱いしかしねえし、この鬼がんな泥だらけになって陸を探し回ったりしねえんだよ! それが家の為にならねーから捨てろだと? あんだけ言ったのにまだ駒駒ほざいて否定しやがんのか! 俺ァ腹の子も守る。毛利と縁づいたことで家も割れた。だからなんだ? 割れた家中を纏めんのも毛利を突っぱねんのも俺の腕ひとつなんだよ!」
雷鼓も全てを覆う雨音ももうの耳には入らない。ああやはりこの男は守ってくれると言った。手腕と言ってもどうするのか、家を乱すのは同じこと何の解決にもならぬ。その次を考えねばならぬと思うのに何もかもが目の前の夫でいっぱいだった。
「……だから帰ろうぜ? な?」
「……もと、ちか……」
だけどこの男といればどうにかしてくれる気がした。雨と泥に塗れ、頭髪にすら砂が付いていても彼は眩しく見えた。は初めて本当の意味で元親が慕われる理由を理解した。
信じて、頼ってよいのだろうか。違う、巻き込むのが怖いのだ。元親はそれ以上強要しなかった。ただを腕の中に収めて、その口は何度も、大丈夫、と象った。
「ごめんな、ずっと怖かったろ」
咽び泣く姫を元親が抱きしめる姿を皆が見るのはそれから少し後のことだ。