(三十四)

 忍びは逃げていた。背に迫る気配は尋常ではない。
 国主が姫を見つけて戻ってくると踏んだ彼は一番気の緩んだ時を見計らい目的を完遂しようと様子を窺っていた。だが突如、背後に現れた気配は自分の経験を凌駕するもので本能的に逃げ出し今に至る。それなりに場数を踏む自分が逃げるのに手一杯とはどういうことか。距離はどんどん詰められて、苦し紛れに撒く忍具の数々もただのガラクタと成り果てていた。
 このような忍びが何故いるのか、今まで姫の周りでそのような気配を感じたことはないし、長曾我部家中の忍びに此処までの俊足に心当たりがない。長曾我部でも毛利でもないなら何処の者なのか、答えの出ぬまま恐怖は迫りくる。
 印を結ぶ時間を稼ぐべく苦内を投げ、忍びは木々の間に紛れる。大きくもなく小さくもない枝に乗り後ろから迫る来るであろう強襲者に向けて術を一つ放つべく振り返った。
「がっ……」
 だが、その瞬間視界は朱に染まる。喉に激痛が走り呼吸が苦しくなり血反吐を吐いて段々意識が暗転していく中、彼の耳に響いた声は若い女の声だった。
「馬鹿な男」
 お前は誰なんだ、その問いは口を吐くことはなかった。

 は逃げていた。物理的にも、心情的にも。
 足を止め息を整えていたがそのうち煙の臭いが鼻孔を擽り、下を見れば松明らしき灯りが見えた。まだ夜には遠いが、ぼやける視界を鮮明にする目的なのかその数は徐々に増えている。多少の雨風なら消えぬ松明があると聞いたことはある。あれがそうなのだろう。
 そして俄かに、鳥が数羽飛び立った。この激しい雨空に飛び立つということは何かが近づいているのではと警戒し、身を奮い立たせてまた走る。踏みしめる度音を立てる足袋にももう躊躇はなく、傷ついているであろうその中身もどうでもよい。ただ腹の子にそれを強いるのは咎め、我知らず細帯の上には手が置かれていた。
 すでに雨露のいくつかは首を伝い白小袖の中を濡らして、久々に水垢離の冷たさを思い起こさせる。これから儚くなろうというのに腹ばかり案じるその矛盾を今のは笑えなかった。この腹のものに自分は確実に情を抱いていたから。心の何処かで総てに目を瞑り、いっそ産んでしまえば、と思わなかった訳ではない。悩みながら隠した末のあの犠牲だった。城から逃れて隠したところでまた同じ道を歩むのは明白で、何かが劇的に変わらぬ限り後戻りは出来ないのだ。
 暫く進み、此処を終焉の地を決めて、は息切れする身を引き摺り身の丈よりも大きな石に手を置いた。人里にないのに丸みを帯びた石は運ぼうと思えば運び出せるかもしれない。ここで死ねば誰ぞが見つけた時、石に名でも刻んで墓石にしてくれるだろうか。骨になれば腹の子の骨も見えるようになるだろうか。それも弔ってくれるだろうか。腹はまだ膨れていない、ならこの骨は残らないだろうか。寂しくもあるがそれでいいのかもしれない。それならば元親が嘆かずに済む。ただ最後の瞬間まで自分が愛してやればそれでいい。
 腹を撫でる自身の手が驚く程繊細でそれが執着の表れであると思い知る。
「埒もない……」
 と呟いて石に背を預けるとは大きく息を吐いた。耳をすませば雷と雨音だけが響き何もかもを掻き消してゆく。雷に怯える自分に祖父もまた心配してくれたものだ。祖父と杉の大方だけは何が起こっても変わらなかった。
「ああ、じいにひ孫の顔を見せてやれぬ」
 祖父は元就が家督を継ぐ前、や元就の長兄の子で祖父にとってはひ孫にあたる男子を亡くしている。その嘆きたるや悲壮なものであるのを知っているが、今のには生きている間にもう一度ひ孫を手に抱きたいという祖父の望みを叶えてやれそうになかった。
 我が子である母、孫である長兄、ひ孫である甥に先立たれ、今も冥道へ足を踏み入れようとしている。親不孝ならぬ祖父不孝の自覚は十分にある。杉の大方、義姉以外で涙を流してくれるならば多分この祖父であろう。常々祖父には一筆書き残しておけばよかったかもしれない。
 ずるずると石に背を置いて崩れ落ちる。膝はがくがくと震えてもう立ち上がれそうになかった。戦場を駆け巡る女武将たち、元親の言う雑賀の女棟梁とまでとはいかずとももう一つ我が身に武があればこのようなことはなかっただろう。
 だが息が切れ満身創痍となっても海には沈めなかった。腹の子を苦しめるようで、元親の海を汚すようで決断が出来なかったのだ。鬱蒼と生い茂るこの場から遠くを眺めれば微かに山々が見えた。それが山霧のかかる安芸の山を思い出させて胸を抉る。懐かしいと思うのはやはり長曾我部に染まれなかったのだと、駒の末路は滑稽だと思い知らされた。
「雨霧は見えぬか」
 空を見上げれば大粒の雨だけが相変わらずの頬を撫でる。ここまで濡れては水底に沈むのと大差ないかもしれない。水底から上を見たならこんな色なのだろうか。遠い昔、海の色は空の色が写っているのだと言ったのは誰であったかもう確かめる術はない。
 雷鳴の鳴る中、細紐を一本抜き膝に括り付けると懐の匕首をゆっくりと引き抜いた。自分がどのようにすれば腹の子も苦しまずに逝けるのだろうか。医術の心得のないには何が正しいのか分からない。雨空でもよく研がれた刃は美しくその上に不安定に載る雫が我が身の様で悲しかった。
「明日ありと 想うこころの 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは――分かっておったが、その通りぞ……」
 最期の時にも雷が鼓膜を支配する。多分これは戒めだとは思った。侍女頭や助けに入った武士らを傷つけておきながら心は過ぎるのは自分と子のことばかりだから。
「元親……」
 いい加減に逃れるのはやめよう。あの男と過ごした時、あれが自分の春であった。其れだけで十分だ。最後に夫の名を呟いて刃をゆっくりと首に添えた。痛うはせぬから、と一度だけ腹を撫で戻した手は峰に当てられる。力を込めるべく目を閉じ、いざ、と意を決すると木々は大きく騒めいてまた鳥が飛び立った。

『明日ありと 想うこころの 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』  明日桜を見ようとしても、夜に嵐が来て、桜は散ってしまうかも知れない、桜の運命と同様、明日の事は私達人間には分らないのですから、今、得度させて下さい。

2017.05.07

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