(三十三)
ぐちゃりぐちゃりと音を立てる泥蹴って男たちは斜面を登る。ここは城からそれ程距離はないが馬の通行や民が林に入って木の枝や蕈、山菜を取る為に敢えて手を付けなかった場所だ。故に何があるか分からないものもある。戦になれば民はこのような場所に穴を掘り隠れることもあるからが咄嗟に隠れることが出来ても不思議はなかった。
皆大声を張り上げるが反応はない。が聞いているとすれば本当に元親の手の者かも分からないだろうし、迂闊に出てくる女でもない。ただ本当に今無事なのかと問われれば確証はなく、元親はじめ皆居た堪れなくなるのだ。
元親は激しく後悔せずにはいられなかった。彼はほんの数日前に知っていたから。
彼女がああも頑なで、侍女とも元親とも氷を張るように距離を置くのも、執拗に駒たらんとするのも、の祖父福原広俊の口から聞いていたから。その福原が元親に側室がいないと聞いて、このような状況で嫁いだ孫娘に、なんとありがたいことかと涙したのを彼は見たから。
「じいさんにも、顔向け出来ねえな……」
その呟きは雨音と皆の足音に消えていく。一刻も早く彼女を見つけなければならない。
「はぁ…っはぁっ」
どれ程の距離を進んだかにはわからない。左近が怯んだ隙に土手を登り、手近な木に打掛をひっかけて、後は近くにあった倒れた巨木の間に身を置いたのだ。雨空に紛れるような小袖の色が役に立った。彼の頭には白群しかなかったであろうから。
林とはいえ平坦な道を歩く訳ではないからの消耗は著しい。暗雲は日輪を隠し道なき道へと誘うようだ。あの日輪の申し子がおらばをどのように愚かと笑うだろうか。ただ幼き日のように無茶を致すなと手を取ってくれたならば。
そんな日は永遠に来ないことをは知っている。それを捨てて今の自分たちになったのだから。その原因の一端は自分にもあるのだから。今更人に戻るなど、誰が許してくれようか。
「兄上……」
物心つく前に母を失い父も死に別れた。頼るべき長兄は安芸の小さな領主として大大名に翻弄され遠い京で大乱に明け暮れる日々。残されたと次兄元就は支城で継母に守られながら小さくなって過ごしていたことを思い出す。当主不在の国内は酷いものだった。ほんの子供と侮って元就の相続した所領を家臣が横領し、猿掛の城から元就やを追い出した。乞食若殿と貶された元就とを憐れんだ継母杉の大方は実家が寄越す再嫁の話を蹴って保護してくれたのだ。快活で暖かい継母、縋りながらであるにせよ彼女がいれば兄妹は幸せだった。
だが慢心した者らはそんな継母をも手を伸ばしてきた。前領主の継室にも関わらず、彼らは継母に側室になるように言ってきた。元就の嫡母である彼女を室にすることで猿掛城の権利の正当性を手にしようとしたのだ。当然杉の大方にも彼らに対する我慢ならない心があってにべもなく突っぱねたのだが、大方と家臣の言い争う声に震えて数日、あの日が来た。
あの日もこんな雨の日だった。幼い姫が一人寝静まる部屋に暗い影が忍び寄りに覆いかぶさった。何事かと目を覚ませば、父よりも年上な家臣が我が身に触れていた。声を上げても広縁や戸板を叩く雨音で侍女に届かず、否、その時の付きの侍女は家臣に買収されていたのだと聞いた。子供ながらに必死に白小袖を掴んで暴れて、怖くて怖くて、兄と継母を呼んでいると小袖が取り払われる寸でのところで鈍い音と共に家臣が崩れ落ちた。
見上げた先には刀を手にした兄が見たこともない氷のような顔で立っていた。兄に縋り、わんわん泣き、異変に気付いた杉の大方も飛んできて、混乱する中引っ立てられた家臣は悪びれもなく鼻で笑ったのだ。
『乞食若殿の妹姫を食いっぱぐれる事のない室にしてやろうというのに。子でも産めば万々歳ぞ』
兄元就が変わったのは多分その瞬間だったとは思う。その場で鞘を抜き斬り付け断末魔の響く中侍女も引き摺り殺した。無口だが穏やかだった兄が、能面となりどんどん知らない人間になっていく様を我が身はただ継母の腕の中で泣くしかなかった。
元就は言った、もうこのようなことにならぬ様我は変わる。家臣は信じず誰も彼もが皆駒。と杉殿だけには心は残そうが、いざとなれば切り捨てる、そんな武将となる。毛利を守らんが為我は今人を捨てた、と。杉の大方は自分の不甲斐なさを嘆き、元就とを抱きしめて大泣きをした。杉殿が気になさることではない、と元就が言うと継母はまた一層泣いて二人を放そうとはしなかった。
宣言の通り、兄は様変わりした。目的の為には手段は選ばず、家臣を駒と言って憚らなかった。始めは反発していた家臣も元就の知略に敵わぬと知ると皆頭を下げた。はそんな家臣たちに酷く不信感を覚えて兄の言うことが真理なのだと思った。家臣は強いものと金に動く。目の前にひれ伏した駒たちがそうだったように、金でを売った侍女のように。信じれるのは己と兄と継母、そして祖父だけでいいのだと。自分もまた人の心を捨てようと思いそうしてきたのだ。
だから長曾我部に嫁ぐと決まった時も何の痛みもなかった。継母と同じように愛してくれる義姉が心配を寄越すにつれ心苦しくはあったが駒が敵に嫁ぐのはお誂えだと達観した程度だった。元親と対面してもその気持ちは変わらなかったし、これからもそうであると思っていたのだ。
だが。
今は何たる無様なことか。元親を求め拒めなかったが故に身籠り、処分せねばと思いつつそれが出来なかった。果ては侍女頭らに大きな傷を負わせこの様だ。
「元親……」
安芸に居たあの頃なら、否、元親に出会っていなければ自分は多分変わらなかっただろう。駒ではない人に戻れと言われる度に居た堪れなかった。兄ほど面の皮が厚くなかったから。
「心、など、持たねば、よか……た」
嗚呼、雨がひどい。雨は嫌いだ。あの忌まわしい記憶を呼び起こす。あの時兄が来てくれなかったらと何度怯えたことだろう。唐突に脳裏に過ぎる家臣の顔に時に泣き叫び杉の大方や大方の侍女らを困らせた。我が身があのような目に合わなければ兄もまた別の生き方があったはずだ、そう思えば罪悪感は募りに募って、あのことが四国襲撃の遠因かと思えば殊更苦しかった。
「持ってはならなかった……」
四国に対し元就が行った謀略は手酷いものだ。人々の怨嗟を振り払うように日輪を奉じる元就もまた何かを恐れているのかもしれない。厳島の神に愛されて人らしさを失う兄を置いて自分だけが脱するのか、心の奥では人に戻りたいと叫び元親を求めて、一方で人に戻ることを恐れて逃げている。
もう元親の許にいてはならない。あそこまで人に慕われた男が自分を妻としたが為に無用の亀裂を生んでいる。最早自分は汚点でしかなく、ならばこのまま腹の子と儚くなるしかない、これが駒の最後の役目だと噛み締めては死に場所を探している。
三成には奇異だった。あの謀神の妹が泥に塗れ地を這っている。美しかった小袖も今は彼方此方汚れ落人さながらだった。長曾我部の侍女が言うには彼女は身重だという。女というのは腹に命が宿れば大事を取り心安く過ごして出産に備えるのだと聞いた。だが今目の前で苔のある岩を掴み、先を行こうとする姫はそのようには見えなかった。乱心という言葉は便利だが総てを理解するには余りあることだ。
「……」
探し物を誰よりも早く見つけた三成だが彼は木の幹に身を隠し様子を窺っていた。その姿を見止めた時は腕を掴み、手間を取らぬなと言い引き立てるつもりだった。だが、雨露に濡れ逃れる姿に何故だか眉を顰め足が止まった。長曾我部や甲斐の若虎とは違い、血の通わぬ氷のような女。左近が人形のようだと思ったように三成も彼女は何処か人ならざる者に思えていた。
その姫が、兄上、元親、と呟いた時、三成は何故だか今は憎悪の対象である男を思い出した。駒のようで人の一面を見せる姫と、苦悩する癖に綺麗事だけを並べて人では無くなろうとしたあの男。真逆であるはずなのにそれが三成の心を掻き毟った。
心など持たねばよかった、持ってはならなかったという小さな叫びに何かが揺れた気がした。友が主君を殺し激情のまま刃を交え、この世で一番の理解者を死なせて三成の心も死んだ。望んでも最早得られぬものを彼女は要らないと言う。贅沢な女だと思った。
三成は柄頭に弾かれる雫を暫し眺め、フンと鼻を鳴らして踵を返し後方へと走り出した。この場に居ていいのは自分ではないと悟ったからだ。