(三十二)
かえと三成が元親に窮状を伝える頃、左近は風雨に晒されながら必死にの足取りを探していた。すぐに追いつくと思っていたのだがあの姫は存外早く馬に慣れたらしい。城門を越えて見回せど姿かたちもなく蹄の跡を辿ろうとしたが、今日は元親の命で沢山の者が登城しており、無数に散らばる蹄の跡に頭を抱えるしかなかった。
三成と左近も元親の命で登城した者の一人である。と言っても三成も左近も客将であり本質的には元親の命令に従う義務はない。登城したのは対外的に軋轢を生まぬ為左近が出るように進言したが故だ。登城の令を持って来たのは親貞の家臣だった。何分難しいことが起こる故御力をお貸し願いたいとは言われたがまさかこのようになるなど、足下から鳥が立つとはよく言ったものと乾いた笑いが出るというものだ。
城門を守る者らは何事かと左近の様子を窺い互いに顔を見合わせている。
「ちょっとおたくら! 打掛着た美人の馬はどっちへ行った?!」
「それならあちらの方に。ひどく急いでおられたようですがあの御方は?」
「姫様だよバカ! 早く追っかける支度しな! ああそうだ、船の人にも連絡するんだよ。ここの鬼さんにゃ俺の主君が言いに行ったから!」
「こ、心得ました!」
「俺は先に行く! しっかり伝えてくれよ!」
「はっ!」
門番たちがしっかりとした口調で答え動き出すのを見届け、左近もまた指し示された方角へと馬を駆る。城から出ればすぐ海であるのに西へ行くのは何故だろうか。海に沈めばすぐにでも命は絶てる。そうしないのは西海の鬼から逃れようとしているように感じられて左近の胸中は複雑になる。雨は未だ止まず一層強くなり多くの湿気を招き寄せて四国を包む。今はまだ良いが、日が暮れ風を伴ってきたらあの身重の御簾中が何事もなく耐えられる気がしない。一刻も早く見つけて元親に帰さねば大事を孕むだろう。
癇癪を起こしやすい主君の馬は今のところ左近の言うことを聞いている。主人に献身的で他が見えない性分は三成によく似ていた。
「もう暫く空気読んでくれよ」
左近と同じように雨粒に塗れた頸を撫でれば、ぶるりと鼻嵐が聞こえた。普段もこうならいいのにと溜息の出る左近は見かけによらず苦労性なのかもしれない。
一里塚を二つばかりやり過ごした頃、左近は前方に見えた影に目を凝らした。近づけは豆粒のような影は比例して大きくなり、ああと頷く。其処には自分の愛馬が佇み草を食んでいた。飛び降り、二頭をすぐそこの大きな木に繋いで眺めれば、愛馬の機嫌はとても悪そうだった。馬というものは御し方一つで大きく変わる。あの御簾中がいかに呑みこみが早くともそれは結局のところにわか仕込みでしかない。四、五里はいける馬だが大方二里を走ったところで疲れ切ってしまったのだろう。
左近は愛馬を宥めながら辺りを注意深く見回し、小路に新しい足跡がないのを見て取ると馬を繋ぐ木々に連なる斜面林に気をやった。緩やかな傾斜は無数の小さな凹凸がある。兎であったり狸のものであるのかもしれない。
「ん? あっ!」
視線を上へ上へと向けた時、雨空に紛れて美しい白群が見えた。白群色に花筏の乗った打掛が微かに脳裏を掠めそれが探しものだと知る。今だとばかりに懐から火打石と火口を出しを取り出し、馬の鞍の内側に結び付けていた小さな狼煙筒を抜いて急いで湿気る前に火を付けた。関ヶ原の戦いの直前、真田の忍びに嵐になっても消えぬものだと渡されたものだがまさかこのような所で使うとは左近にも思いもよらぬことだった。
「アッチっ……」
狼煙筒は雨をものともせず煙を放つが小さい分熱の伝導率も高い。左近は馬から離れた場所に筒を置き身軽に傾斜を登り始めた。大股で先を急げばまた視界に白群色の打掛が見え彼は叫んだ。
「御簾中さんっ!」
「……っ」
大声を張り上げれば佳人はピクリと身を震わせるのが分かった。それでも逃れようとする姿勢は変わらず枝を掴み、上へ上へと進んで行く。すでに彼女の打掛の裾は茶より黒に近くなっていた。草履も履いていないから足の裏とて痛むに違いない。
「早、うっ……」
「駄目ですって! 御簾中さんっ!!」
「見逃して、そして忘れよ……」
「無茶言わないで下さいってのっ! 鬼さんの御簾中さん、しかも腹のおっきい女の人を置いていく程俺は鬼畜じゃねっす!」
「後生ぞ」
婚礼と宴の席で見たは本当に綺麗な人形のようだった。達観したところは能面のように見えたのを覚えている。そんな彼女が脅えボロボロに逃げる様は毛利に良い感情を抱かない左近でさえ見ていられないものがあった。左近もまた知る。彼女は毛利元就ではないと。知らず知らずのうちにあの謀将の影をこの御簾中に重ねていたのだ。自分でさえそうであるのだから長曾我部家中はどうだったか、そう掠めるだけで首を振りたくなった。
「落ち着いて! 止まって! 走っちゃ駄目だ! 御簾中さんが何をしようとしているのか想像が付くけどそんなの鬼さんの為にならないんだよ!」
「あの、男の為にならぬでも、っ家の、為にはなろう」
「あんた、鬼さんと家とどっちが大事なんだよ!」
「……分からぬ」
「分かんねえはずないだろ。あんた絶対気付いてるよっ」
「言うてくれるな……っ」
一言吐けば吐くだけ、左近にはが哀れに思えてならなくなる。彼女が逃げ出すのはお門違いであろうとも元親の為で、そんな想いを抱いているからあんなにも切なげな声が出るのではないか。彼女の細い背からは、自分がそんなものを抱えていいはずがないと叫ぶ心が見え隠れする。不器用な人だと思う。それは三成や、そして今は会わぬ勝家をも思い出させるのだ。
は構わず登り続け、もう少しで上に上がりきるようだ。その間にも左近は距離を縮め、六、七間程度のになる。そこで左近はもう一度御簾中さん! と声を張り上げた。這うように登るはすぐ横の枝を掴み、体重を押し上げる。すると彼女が足場にした石の二つ三つが下に居る左近へと落下した。
「わっと!」
「すまぬ……っ」
左近は思わず身体をふらつかせ落下する石をやり過ごす。石が馬に当たらなかったのを確認するとまた上を向いたが登り切ったのかの姿はもうない。急ぎ登り切りその先を見れば反対側もまた今のような傾斜が続き逃げ惑う人影も落ちた形跡もなかった。ならば西だと目を凝らして進むとまた白群色が見え其方に駆け出した。
雨は大粒になったり小雨になったり、時折左近の目にすら入って途端に視界を狂わせる。雨空と木々が林を昏くし左近を拒むようだ。何度も目を擦り、白群色がはっきりと見えた瞬間、彼は大いに舌打ちした。其処には確かに白群色の打掛があった。だがそれだけだった。
「やべっ……」
木に掛かる打掛を掴み左近は辺りを見回しが下に落ちた形跡はなかった。この打掛を仕掛けて反対側に逃げる時間はなかったはずで、だとすればこの近辺に隠れていると考えるのが妥当だった。急がねばならない、懐刀の一つでもあるならこの時間にも彼女が命を絶つことが可能だから。彼は注意深く不釣り合いにある大きな岩の裏側や、人が一人雨宿り出来る木の凹みを探すが彼女の姿を見つけることは出来なかった。
間の悪いことに風が吹き木々の擦れる音が総てを掻き消す。せめてその気配だけでも掴むことが出来ればと思わずにはいられないのだ。
「アニキ、あれを……」
急ぎ人員を整え馬を駆る元親らに、先行した物見が誘導したのは城から二里ほど先の場所だった。物見曰く、つい先程まで烽火が上がっていたということだった。強い雨は時折小雨になり、今では烽火も霧と同じように見えてしまう。
「左近だ」
繋がれた二頭の馬を見て三成はそう言った。恐らく近くに居る、皆そう思いそれぞれに馬を降り林の斜面を登り始め捜索を開始する。陣頭指揮は親貞が行い、元親は無言のままだ。傍から見れば悠然に構えているように見えるが、胸中は怒り、戸惑い、焦り、何より心配が吹きすさび誰よりも荒れていると言っていい。親貞と同じくこうなった時が一番怖いのだと皆心得ている。
唇を噛み押し黙る元親の代わりに饒舌なのは三成だ。彼は元親を一瞥するとさっさと斜面を上がり先を行き大きな声で腹心を呼ぶ。
「左近、どこだ! 速やかに答えろ!」
雨粒を弾くように走り枝を払う三成はこのような時であるのに皆の視線を釘付けにする。豊臣の左腕と言われた男は四国にあってもその熾烈さに遜色はない。ならば何故また兵を挙げないのかと言われるかもしれないが彼の胸中を左近以外推し量ることは出来ないだろう。
「三成様っ!」
「其処か。左近、長曾我部の妻はどこだ」
左近の腕には白群色の打掛が掛けられている。その打掛に同行していたかえとみわは、ひ、と悲鳴を上げた。それは確かにのもので元親にも見覚えのあるものだった。
「いやー、それがその……見失ったっす」
「貴様っ!」
「何っ」
「す、すみませーん! 三成様も鬼さんも勘弁っす!! なんつーか御簾中さん機転の利く人だったみたいで……」
打掛を見せながら左近がそう言うと三成は、貴様が莫迦なだけだ、とにべもなく言い捨てる。それは何時ものことなのか左近は気落ず状況の説明を始めた。
「見失ったのは三成様が来るほんの少し前っす。下に落ちた形跡もないし、絶対近くにいるはずなんすけど……」
「お、落ちるだなんてっ……」
「わーっ違うっす! かえさん! 忘れて!」
「仕置きは後だ。探せ」
「は、はいぃいっ! 迅速かつ速やかに対応するっす!」
どちらも同じ意味だ阿呆め、と三成は言い左近はまた駆け上がる。親貞は侍女たちに此処に居るようにと言ったがどちらも凛として首を振った。
「お方様は今、身も整わぬご様子。我らの手が必要となりましょう」
「分かった。無理はしないように」
「心得ましてございます」
親貞は自分の選定の目に狂いはなかったと頷き元親を見る。元親には同じく三成からも視線が注がれていた。相変わらずピンと糸の張るような三成の眼光を元親は受け止めている。
「長曾我部、私は先に行く。遅緩な貴様など待っておれん」
「アニキ……」
元親は一度目を伏せ碇槍を背負い直し大股で駆け上がった。
「莫迦言うんじゃねえよ。この鬼が先に行かなくてどうすんだ。――行くぜ野郎共! もの腹ン中の俺の子も殺させるんじゃねえぞ!」
「わかりやしたぜ! アニキィイイイ!」
湧き上がる喊声を背にする元親に三成は、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。