(三十一)
今まで何をしていたのだろう、とは思った。
行動を起こせば簡単なことだった。間取りも分からぬ奥御殿の外に出てみればすぐそこに馬があって飛び乗ろうと思えば飛び乗れた。普段ここに馬があるとは聞いていない。馬場はもっと遠くに在るのだが、何故かと聞く気もない。今これが此処に在ることが総てだった。良い子にして、と呟いて毛並みの良い馬を一撫でし手綱に手を掛ける。
「あー、あの、お嬢さん、それ俺の馬ーなんだ、けど?」
だがすぐに若い男の声が静止が入る。見れば若い男が二人立っており、一人は細身で眼光の鋭い男で、もう一人は困惑顔だが人好きのする容姿の男だった。何処かで見た気がしたが早く行かねばかえが迫る。
「すまぬ、暫し貸せ」
「って、駄目に決まってるっての! 乗り慣れてなさそうだし危ないし! ……って、鬼さんの御簾中……さん?」
「……」
「ちょっと、その恰好どうしたんすか? 奥御殿の方でやばそーな声がしたから今から行こうとしてたんすけど……」
「何もない、だが馬は借りる」
「ええええっ」
鐙に左足を置き力を込めて馬の背に乗る。膝まで脚が見えてしまったのか男が、わっ、と言って顔を背けた気配がした。括り袴も履かぬから馬に跨ることは出来ない。酷く不安定だが仕方のないことだ。いっそこのまま落ちれば死ぬことが出来るかもしれない。
「つ、椿井様っ! お方様をお止め下さいましっ」
「は、え!? かえさん!?」
「お方様っご短慮はなりません! あの者らは只の慮外者にございますっ! 殿も皆もきっと心待ちにしておられます」
「……言うてくれるな、見逃せ」
「出来ませぬっ」
「今退けたとてまた次が来る。望まれぬ命は、また誰かを傷つける」
「お方様っ!」
「無理であったのよ。私一人どころかこの怨嗟、幾人で埋まろう。私のすることは女子として母として人として間違っておる。なれど駒としては間違うてはおらぬ。家の歯車を駒が壊してはならぬ」
「そんな」
「私には未来が見えぬ。子の円満な未来が見えぬのだ」
「何を仰いますっ! 殿がきっとお守りくださいます!」
「そう、あの男は甘すぎる。私ひとつのことで家中を割ってはならぬ」
「お方様、御考え直し下さい。親貞様も親泰様もおられますっ」
「……かえ、私はもう、疲れた。だが最後は長曾我部の駒としての務めは果たそう」
今苦悶の時の中にいる侍女頭が脳裏に過ぎった故かの言葉は存外弱弱しく、かえが怯んだのが分かった。は一方的に話を打ち切るように馬の腹に蹴りを入れ、椿井なる男がはっとし手綱を持とうとするが寸でのところで馬はすり抜け走り出した。
「お方様っ!!」
雨が草木と地を叩く音に、馬の蹄、そしてかえの悲痛な叫びがの耳を突いてやまない。だが彼女は今怯む訳にはいかぬのだと馬にしがみ付き城内を駆け抜ける。馬上の佳人の色鮮やかな打掛に門番たちは止めてよいものかと立ち尽くすのみ。婚礼のあの日ただ一度通った道を頼りに外に出たのだった。
「ああ、何たる……」
「かえさん」
一方、を止め損ねたかえは崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。は元親には時として高圧的な口を利く人であったが、格段浪費もせず自己主張もしない手の掛からない正室であった。総てを達観した姫、そう思っていた。だが紅血に染まり地に伏せた侍女頭らを見て震え、もう疲れたと呟いた彼女は年相応で、自分たちの思い描いていたものは只の虚構であったことを知る。
「左近」
「は、はい」
それまで無言のまま事の成り行きを見ていた佐保が椿井に気難しさを持ったまま声を掛ける。怜悧な印象を強く残す佐保だが、目の醒めるような白菫と菫の陣羽織を纏い、それが彼の侵し難い品格を強調するようだ。
「み、三成様っ、シッ、シーッ!」
「それを言うなら貴様もだ。女、仔細を話せ」
その文言にかえははっとした。呆けている場合ではないと気付き椿井の衿を掴む。
「後生にございますっ! お方様を追って下さい! お方様のお腹には殿の御子がおられますっ!」
「へ!?」
「しかしながらご家中に望まれぬ御子だと悩まれて殿にもお話にならぬ有様、先程はとうとう慮外者がお方様の御命を狙い怪我人が出ました。それをご覧になりご乱心なさったのです! このままではっ……!」
「長曾我部には借りがある。左近、私の馬を使え」
「ええっ! 三成様の馬って三成様ばりに扱いが難しいんですけど……いえ! ありがたく使わせて頂きまっす!!」
佐保の一睨みに椿井は慌てて彼の白馬に飛び乗り手綱を引く。それは嗜み程度ではない、磨き抜かれた所作だった。椿井の手綱に呼応するように嘶きを上げた馬はそのまま身を捻り走り出し、難なくやり過ごした椿井は大声で叫んだ。
「見つけたら烽火を上げます!」
「分かった。しくじるな」
「肝に銘じてまっす!」
椿井の馬はの馬よりも格段の速さで駆けて行く。無論それは乗り手の技量によるところだが、それ故に鬼の正室はすぐに見つかるだろうと佐保は思う。彼は椿井とは対照的ににこりともせず機敏な所作でかえの方を向いた。紗綾形と草花に彩られた陣羽織はかえの縫ったものではない。もっと彼に馴染んだものだ。
「女、貴様の主君の許へ案内しろ。石田三成が火急の様で話があると」
「いし、だ、さま……っ」
「迅速にだ。拒否は認めない」
「は、はいっ!!」
思いがけず聞いた凶王の名にかえは驚きを隠すことは出来なかった。その名を言われれば、所作風貌にああそうなのかと納得出来過ぎて、平素ならば思い出しては笑ってしまうかもしれなかった。だが今はそうではなく、佐保正綱が石田三成でも、椿井勝猛が島左近でもどうでもよい。佐保、否、石田三成もまた自身の出自やこの侍女の心情など構うものでもなく、共通の目的はこの雨と泥を蹴って一刻も早く元親の許へ行くことであるのだから。