(三十)
――時間は少し遡る。
「今日もまた雨か」
の悪阻は相変わらず収まる様相を見せないでいた。いつ膨れぬか分からぬ腹、いつ元親にばれるか分からぬ恐怖に自分がどんどん追い詰められていくのが分かる。母としては誤りであるとは思うが果たして駒としては自分の選択は正しいのかと繰り返し悩むも、それは頭を抱えるしかない問いだった。そんなの気持ちを察するのはやはり歳を重ねた侍女頭でほぼに付きっきりと言ってよかった。が思い余った行動に出ないか憂慮したものであるとは予想が付いたが、退けるのももう厭わしかった。
「いつもの賑やかなのがおらぬな」
「みわでございますか? 本日は何やら親貞様とお話があるそうで」
「そうか、珍しいな」
「まことに。るいは厨に行っております。すぐに戻ってまいりましょう」
「あれは相当な甘味好きだな。甘味を見た時の顔はみわよりも晴れやかぞ」
「左様でございますね」
これがあの夫であれば食わせてやれ、と言うのだろう。そう思い立ってもまたそのように差配した。心得まして、と答えた侍女頭とかえは少しばかり笑むと同時に安堵した表情を浮かべている。
「お方様、本日は殿より珍しいものが届いております。花梨の実を蜂の蜜に漬けて寝かせたものにございます。少量一度白湯で溶いて冷ましておりまする」
「ほう」
「夏風邪など引きにくくなるそうでございますよ」
「分かった」
日ノ本では未だ少ない養蜂だが四国ではうまくいっているのか、そう漠然と考えながら差し出された椀を手に取る。香る匂いに不快感はなく揺蕩う水面は琥珀のように美しい。感慨なく見ていた瀬戸内の海も夕暮れになればこのような色になり輝くのかもしれない。
さて頂こうか、そう思って椀を近づけようとした瞬間だった。ぽとり、と何かが椀の中に入った気がした。
「……?」
そしてもう一度、ぽと、っと確実に何かが椀に入り込む。まじまじと見れば朱のような滴が琥珀を少し濃い色に染め上げていく。雨漏りか、と思いは上を見ようと視線を天井に向けようとした。が――
「酷いではありませんか、お方様」
耳に覚えのある声が響き次に一陣風が吹く。衣擦れと草鞋に付いた砂と泥が床を撫でる音がしたかと思えば目の前に唐突に男の姿が現れる。にとっては三度目の邂逅、会いたくもないあの忍びだ。
「其方……」
「お隠しになるとはよろしくない。身籠っておられたなどと国を挙げての騒ぎですよ」
一気に背筋が凍り睨みつけるも忍びの様子はいつもと違う。否、これが本来の姿なのかもしれない。口許が歪んだ忍びの手からごろりと重いものが投げ出され床に朱が散ると同時に、かえが悲鳴を上げた。
「なっ……」
「――っ」
「ひ、ぁ、く、首っ……」
「あの薬師は逃しましたがその弟子は捕まえましてね、二三痛めつけてやったら吐きましたよ。まぁ、簡単に口を割るような奴生かしておいても、ねえ?」
残り香を持ち合わせないこの男から今は鉄錆の匂いがする。それに合わせて漂うのは醜悪な狂気だ。忍びは玩具を弄ぶかのような目で苦悶に歪んだ生首を眺め、も、そして侍女頭とかえも心の臓を鷲掴みにされた心持ちだった。
「お方様は鬼灯を差し上げただけではお分かりになっていないようなんで、……遊びに来ましたよ」
「痴れ者め、お方様の御座所をなんと心得る! 去ね! 誰かっ誰かあるっ!」
「誰かっ誰か! 御座所に! 曲者にございますっ」
それでも侍女たちはその場でやらねばならぬことは心得ている。声を張り上げながら懐の匕首を抜いて構えると、を引っ張り上げて後方へ引きそれを庇うように前に出た。
「何処の手の者かっ」
「毛利が嫌いな奴の手先だよ。俺には関係ないけどねぇ」
ゆっくりと歩を詰める忍びは転がり落ちた椀を蹴っても意に介す様子はない。部屋の奥へ逃げるのを危険と見たかえが障子を抜け広縁へと引き更に、誰か! と声を張り上げる。らが庭に降りると同時に侍女頭は飛びかかり匕首と忍びの小太刀は金属音を立てて鍔迫り合う。
「かえ、早うっ」
「はいっ! 誰かっ誰かあるっ! 出合え!!」
かえの怒号にも似た叫びを聞きながらは我知らず腹を抑える。なんとしたことか、相手はとうとう暴挙に出た。そういう日が来るとは思っていた、が、何故今なのだ。この身だけを殺れば、殺る?
――刹那
「っあ!」
「侍女頭様っ!」
視界に緋色の飛沫が散った。肉を抉る嫌な音がした気がしてもかえも慄き身構える。いよいよかと奥歯を噛み睨みつけると同時に広縁を走る複数の跫音が聞こえ物々しい声が響いた。
「如何なされました!」
「お方様っ」
「きゃあっ! 侍女頭様っ!」
「痴れ者めっ!」
「殿のお方様に何をするかっ!」
「其処へなおれ!」
焦燥に駆られた気配と共に現れたのは奥御殿の女たちに加えて普段近づくことのない馬廻りの者たちだ。彼らは腕を抑え蹲る侍女頭と小太刀を構えた男を見て只事ではないとすぐに抜刀し哭ぶ。六、七人の武士たちが忍びを取り囲むが忍びに慌てた様子はない。むしろ鼻を鳴らし小太刀をくるくると回しておどけて見せた。
「へぇ? 殿のお方様ぁ? 毛利の姫に長曾我部のお侍方は命を掛ける訳? この侍女もてめえらも馬鹿だねぇ」
「――っ」
その言葉に皆一斉に動揺したに違いなかった。もまたこの日一番に肝が冷えた気がする。そう、それが覆すことの出来ない現実なのだ。
「慮外者が……!」
「何を申すか! お方様は殿がお認めになるただ一人のご正室だ! それ以上もそれ以下もない!」
「ふーん……さみぃの」
冷淡な忍びはさして興味もなさそうに小太刀を持ち換えると突如俊敏に後ろに振り向いた。次に皆の視界に過ぎったのは雫を伴った一閃と再び訪れた緋色の飛沫だった。ぐ、と呻き声を上げ崩れ落ちるもののふに一同は悲鳴と慄然を覚える。一人、また一人と一閃に晒され臥せる男と泥水が赤黒く染まる様は絶望を誘うには十分だった。
「さ、せぬ……っ」
男たちは次々に沈むもかろうじて意識を保っていた男が懐に手をやった。忍びが今まさに女たちへと振り向いた瞬間、彼は懐のものを咥え腹に渾身の力を込めて勢いよくピイィと音を鳴らした。
「――呼子っ?!」
人の声よりこの耳を突く呼子の音の方がよく響く。位置も正確に分かることを心得る忍びは大きく舌打ちする。途端、渡殿の先や奥御殿の後方からも気配がし、恐らくは奥御殿の出入り口からも人がなだれ込むに違いない。
「姫だけでもっ……!」
「お方様っ」
「――ッ!」
かえは忍びの刃から少しでも遠ざけようとに覆いかぶさり、名も知らぬ馬廻りのもののふは上がる息を堪えて呼子を鳴らし続ける。後は息も絶え絶えな侍女頭が忍びの足に纏わりついた。放せ、と蹴ろうとするも塀のすぐ外で馬の嘶きが聞こえ、呼子に呼応して乗り入れたものだと察すると忍びはまた大いに舌打ちをした。
「何で今日はこんなに多いんだよっ」
これ以上手間取ってはならぬ、そう思い至ったのか忍びは侍女頭を振り解き俊敏に屋根に飛び移り、そのまま雨音に紛れるように灰色の空に消えて行った。
「行った、のか……?」
誰かがそう言った。かえは少しばかり呆けたがすぐに我が身を奮い立たせ大きな声で助けを呼んだ。雨はなおも降り注ぎ、庭の木々は風に靡いて葉に掛かる雫は飛んで弾けて美しい。だが視線を戻したそこに広がるのは踏み荒らされた土と横たわる女と男たちだ。侍女頭は気を失い、皆の衣裳は泥と血で汚れ、耳を突く呻き声は凄惨だった。
は侍女頭に近寄り二度程揺すったが彼女は答えない。やがて訪れた者らの悲鳴と怒号のように薬師を求める声が辺りを包み、血の道が締まってしまうのではないかと思えるくらい胸の奥が痛み汗が止まらない。
「やはり、駄目なのだ……」
「お方、さま……?」
「身籠っては、ならなんだ……。この腹には災いが宿る。……違う、災いの許に宿ってしまった哀れなもの。なれば、意思のないうち屠らねば……」
「何を、仰っておられますの?」
「この身が、ぬるま湯に浸かろうとするからっ……、私もこれも在っては、ならぬ……。絶たねば……っ」
侍女頭に添えた手を外し、はゆっくりと立ち上がる。ふらふらとする女主人にかえは強い不安を覚えての裾を握ろうと手を出した。
「ならぬっ……! 分かっておったのだ!」
掌に確かに掴む前に女主人は踵を返した。草履も履かず土を蹴るものだから真白の足袋はすぐに汚れる。かえにとっては真白の女主人だ。そのが汚泥に染まる様は何かに侵蝕され食い尽くされるようで血の気が引く。何をするかなどとはすぐに察しのつくこと。かえもまた後を任せ走り出すしかなかった。