(三十七)

 迅速に行われた仕置きは思いの外厳しいものになった。賛同者が多かったこと、対外的にも内外的にも非常にまずい企みであったことから処断せざるを得なかったというのが実情だった。元親らは家中の引き締めに忙しいところだが彼の弟たちや野郎共がしっかりを脇を固めてくれることだろう。元親自身この先口に出すことはないが彼は一生内蔵助の悔恨を忘れることはない。
 あれから降り続いた雨は嘘のようにあがり小さかった稲穂は本来の成長を取り戻すかのようにどんどん背丈を伸ばしている。あわや不作かとの心配は杞憂におわるようでそれは家中に安堵を齎した。もう一つ、つい先頃公表したの懐妊は凡そ驚きと歓喜を持って迎えられている。はじめ元親がにそう伝えたが彼女は首を振って信じなかった。どうしたものかと気を揉んだが、ある日元親が新しく得たの居室を覗くと復帰した侍女頭がこう言った。
「先日の問いにお答え致したく存じます。お方様に御子ができ家中のだれが喜ぶか、というお言葉です。我ら四国の民は我らが殿が喜ばれればそれで十分なのでございます。お方様、お方様は殿の一の御方、殿を信じてもっと強うあらせられませ」
 目を丸くしたはそれから暫し考えて微笑んだ。柔らかいかんばせはもう彼女は大丈夫だと、ずっと手の中に入れて愛していこうと元親に思わせるに十分だった。
 の奥御殿にも変化があった。一番年若い侍女るいが暇願いを出し去っていったのだ。理由は先日の襲撃に恐れをなしたこと、知己を得た曲直瀬に弟子入りしたいとのことだった。かえなどは、あれ程肝が据わったように見えましたのに、と首を傾げながらも、大人びて見えた子ですけど何分若いのですから怯えるのも仕方ないことですね、と頷いていた。も何も言わなかった。難しい環境に置くことに躊躇があったのかもしれない。
 今日もまた天気は青天だ。強い日差しもあれば時折涼しい風も吹く。寒暖の差を気にして元親はに奥に居るように言い含めるのだが彼女はあまり聞く気はないらしい。今とて膝をついて元親の帯を締めて立ち当るところだ。ふら付かないか周囲は気が気ではない。
 いってらっしゃいませ、と侍女たちが頭を垂れ、元親は外に出る。後ろではが両の手に太刀を抱えている。碇槍を扱う元親には太刀は不要であるから、挨拶が終わればこれはすぐに近侍へと渡されるのだがはこのような形式にも手抜きはしない性質だった。険の取れた彼女は懐妊中の柔らかさもあってかしっとりとした女になった。女は男で変わるものといつぞや軽口で言われたものだが、これには自分の甲斐性が足らなかったということなのかと思えてやまない。
「んじゃ行ってくる」
「もと、……」
「うん?」
「いや、殿、……あなた?」
「ぶっ、なんだよ」
 少し考え最後には首を傾げる妻に元親は目を丸くし次いでむず痒さを堪えることが出来なかった。吹き出せば彼女は顔を真っ赤にして反応するものだから余計にからかってやりたくなるというものだ。
「笑うな! ――呼び捨てでは外聞が悪いと思うたのだ」
「……ぶはっ」
「笑うな!!」
 若干頬を膨らませる彼女に元親は上を向いて笑ったがそのうち顎を撫でながら新たに口火を切ってやった。ああ彼女はもう秋風でも氷などでもない。
「そうだなァ……、しおらしく、元親様、早くのお傍に戻って来て、だなあ」
「ぬ、ぬかせっ! もう呼んでやらぬ、貴様は貴様で十分であったのだ!」
 動揺交じりに叫んで太刀を近侍へ渡して踵を返すの肩に元親は手を掛けて抱きしめる。均衡を崩して凭れかかる彼女の期待通りの反応に益々笑いが止まらず、抱えて睦みたい衝動に駆られるのだがそれは鬼畜の所業だ。
「あーだめだめ。攫っててやりてえけど妊婦を抱き上げて落としちまったら取り返しがつかねえからなぁ」
「何を物騒なっ」
「なあ
「っとにっ……! なんだ!」
「呼び方なんてなんでもいいんだよ、あんたが幸せそうなら」
「――っ!」
「……あーいい匂い」
「死ねっ!! 皆が見ておる! 放せ阿呆!!」
 おらぶ正室とそれを意に介さない主君、は必死なのだが近侍も侍女も微笑ましく見守るに留まる。そのうち耐えきれなくなったの平手が盛大に元親の頬に放たれ大きな音を立てるのだがそれはまた予定調和の一つなのかもしれない。


 左近は脱力を含めて愛想笑いをしていた。騒動の後、一部家中に自分たちの存在がばれたこともあって領地に引き籠っていたのだが、このままではいかぬからとの親貞の言葉を受け対策を練るべく登城した先で待っていたのは片方の頬が赤く腫れた西海の鬼だった。
「いってぇ、の奴身籠ってなかったら容赦しねえんだが」
「あー鬼さん、何したんすか」
「左近、鰥夫の貴様には聞くだけ毒だぞ」
「三成様酷い! って鰥夫は三成様も一緒じゃないですか!」
 左近の抗議も三成はふんと鼻を鳴らすだけで相変わらずどこ吹く風だ。俺の立ち位置ってこんなんばっかだよな、などと思うことすら最早不毛に感じる。面白くないまでも、視線の先では西海の鬼が頬を摩っている。言動や雰囲気を察するに彼は其れなりにうまくやっているのだろう。思い出すのはあの日の二人だ。咽び泣く姫を抱きしめる元親の目は情愛に満ちていた。怖かったろ、と言った鬼の声音がどれ程優しく彼女に向けられていたか、あの御簾中さんは気付いただろうか。きっとずっと前からそれは向けられていたのだ。
「左近、……聞いているか左近!」
「は、はいぃい! えーとなんでしたっけ?」
 緩み切っているな、と三成が言い俄かに柄頭に乗せられる手が恐ろしい。あー三成様の喧嘩っ早いっぷり復活してるーと我が身の危機を諦めながらも、脳裏を過ぎるあのご正室の安寧を願うのだった。


 天高く輝く日輪に、毛利元就は手を翳していた。久々の厳島だ。屋根のない社殿に佇み日の光を浴びるのは心地良い。
「そうか、四国は落ち着くか」
「はい。如何なさいますか?」
 元就に答えたのは曲直瀬道三だ。彼は津々浦々に知れ渡る名だたる名医で何度か安芸にも足を運んでいた。四国で敢え無く弟子を亡くした彼だが既に別のものが弟子として同行している。残念ながらそれはるいではなかった。
「暫し放っておく。首を突っ込まず貴様も忘れることだな」
「はい」
「次は何処へ行く」
「私めの腕を求める御方の処へ」
 それが悪辣名高い織田であろうと矛盾を抱える徳川であろうとこの薬師は行く。それが高じすぎて彼は各家中の内情に詳しくなっていった。当然それを求める者は多く命を狙われることも多々あった。だが彼は未だ日ノ本を行脚している。元就には理解出来ないことだ。こう答える時は大抵暫く京に居るのだと知る元就はそれ以上は聞かず彼に下がるように言った。
 そういえば四国で傷を負った祖父はこの男に治療されたのだと聞いた。祖父の傷を口実に戦端を開いてもよいと思ったが祖父がそれを望まぬのは分かっていたからそれ以上の行動は止めた。それは元就なりの労いだった。
 変わる自分を祖父は何度となく諌め態度も変わらなかった。難しい局面も何度も乗り切った祖父だった。その忠勤も性根も分かっているのに、部下に厳しい元就を諌めた祖父に言い放った言葉を今でも思い出す。
『爺はあの時おらなんだではないか。肝心な時におらぬでは何の意味もない』
 あの言葉だけは失言であったと思う。悲しげな祖父の表情は元就が覚えた数少ない後悔の一つだ。
姫様は大変仲睦まじくお暮しのようです。柔らかい表情をなさるようになりました」
 去り際、曲直瀬がそう言ったのを思い出し元就は鼻を鳴らした。
「ふん、分かっておったわ」
 あの妹は人に戻る、嫁ぐ前からそう思っていたしそうあってもいいと思う。元より道は違う。日輪の指し示すまま進むのは我が身だけで良い。
 不意に童の笑い声が耳を突いた。視線をやれば微笑む妻と子供たちがいる。きっと妹もあんな顔をするようになるのだろう。
「とことん虫の好かぬ男よ」
 そう独り言ちれば妻が自分を呼ぶ声がして、元就はさして表情を変えることなく其方へと歩を進めるのだった。


 「そうか、御苦労だった」
 槍を持っていたあの頃より遥かに煌びやかになった広間に座した徳川家康は、そう言って目の前の女を労った。女は艶めかしく年の頃は二十も半ばに見える。左右には名だたる家臣が控え安堵する者、難しい顔のままの者と様々だ。
「ならば、四国は現状のままでいいだろう」
「しかしながら長曾我部殿は凶王を手元に置いております。あの御方のこと情に流されるようなことにでもなれば」
「山内には、別の所領を」
 とある家臣の抗議をそう一蹴し家康は間髪入れずかわほりを鳴らした。去れ、との指示に女はらしくない行為をされるようになったと思う。女と本多忠勝以外の家臣が退席すると彼ははーっと息を吐き膝を崩した。女の視線に気付いた家康は、らしくないって思っただろ、と笑い、出された茶を啜った。
「それから長曾我部様が次は会いに来られますようにと」
「なんだ、ばれてたのか」
「どうやら最初からお気付きであられたようで」
「食えないなぁ」
 伊賀の忍びの変化に気付くとは流石だな、と続ける家康は嬉しそうに懐かしそうに笑った。女もまた主君の様子に笑んで心が俄かに熱くなる。家康と元親がともに戦場を駆け時に刃を交えたのはほんの数年前のことだ。いつも気負い真っ直ぐな家康が元親とならば屈託なく笑っていた。それは女にも本多忠勝はじめ家中にも嬉しいことだった。
「さき、久々に十代に化けたのはどんな気持ちだった?」
「内府となられてからどうも意地悪であらせられます」
「ははっ」
 徳川の忍びである女、さきは四国を憂慮した家康により密かに素性を隠し新参の侍女るいとして奥御殿に入った。家康から命じられたのはの身の安全の確保と長曾我部の内紛を防ぐこと、そして石田三成の監視だった。尤も最後の命は家中に対する形式的なものであることを彼女は知っている。
 彼女はを守りながら内通者の有無を探り、侵入を繰り返す忍びの力量を計っていた。自分の存在に気付かないあの男は問題ではなかったが、彼女の一番の懸念は姫の精神面だった。ぶっきら棒に見えたかの御方は南蛮の小さな細工のようでどのように穏便に運ぼうかと彼是と動いた。親貞に話が聞こえるよう噂話をしてみたり、時として投げ文もしてやった。我が身を痛めつける姫の茶の中に無味の薬湯を流し込んで滋養に努めたこともある。
 忍びがに迫った時、彼女は離れた場所で大声で叫んで家臣を向かわせた。その場で自分が屠ることも可能だったが徳川の忍びが出張ったとあっては長曾我部の面子を潰し、長じて統治能力なしと長曾我部への処罰へとなりかねなかったからだ。皆がを追う中忍びを屠った後は曲直瀬に釘を刺し、頃合いを見て四国を離れた。家康はさきの判断によくやったと誉めそやし、さき自身満足いく結果だったと思っている。
「本当は四国のような永く土地を治める国主を置くより、徳川の息が掛かった領主を配したほうがいいのは分かってるんだ」
「家康様……」
 さきには分かっていた。そうは思っても家康は友の人柄を信じたいし、なおも信頼は消えないのだと。その性格故に情に流されるであろうことが分かっていても。だから家康は彼に妻を宛がった。皆を支える元親が情と国に挟まれた時、冷静に判断を下せて、なおも元親を支えることのできる伴侶。陸に居を置き家庭を持つことが、情だけで元親を動かさないようになるのではないか、なんて考えたのだ。
 海を好み束縛を嫌う元親に嫁を取らせることは困難で、只寄り添う女では駄目だった。孫市から毛利の姫、と提案を受けた時にはかなり頭を悩ませていた。これは大きな賭けだった。懐の深い元親が姫を庇うのは分かっていたが周囲は違う。心配は尽きず、さきを送り何度も書状の遣り取りをした。
「ああ、本当に良かった」
 家康は安堵の息を吐き、さきはそれ以上何も求められないことを知っている。そっと気配を消し彼女は去っていった。

 夕暮れは天下人をも赤く染める。忠勝も頃合いを見て退出し家康は広縁に立ち尽くし止めどなく沈みゆく日を眺めていた。
 思えば権力を手にしてから身辺は寒々しくなったものだ。太平の世に我らは不要と奥州へ引っ込んだ雑賀孫市からは何の連絡も無くなった。元々素っ気無い相手ではあったがそれでも募る寂寥は止められない。彼女を通して思うのはやはり銀の髪と二藍の衣のあの男だ。
 天下泰平を願い二人で砂埃舞う戦場を駆けたあの日、こんなふうに立場や体面に翻弄される日がこようとは夢にも思わなかった。既に自分は人のままでは居れない。ならば元親は人としていつまでも生きて欲しい。あの頃のまま。
「いつかまた、そっちにいくよ。元親」
 総てが終わる頃、また二人で気ままに馬を駆る姿を瞼に浮かべて家康は踵を返したのだった。

2018.04.16

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