(二十七)
急転直下は危惧した通り三日後に訪れた。だが予想を上回り最悪に近い形であったことは否めない。報告を受けた時、元親は眉を顰め苛立ちを隠そうともせず舌打ちをした。
「馬鹿野郎が」
忠澄の屋敷に滞在していた毛利方取次役福原広俊が、本日改めて元親と会う為屋敷を出たその登城中に襲撃を受けたというのだ。幸い忠澄の家臣らがこれを退けたものの福原は腕に傷を負ったという。意気盛んな襲撃者たちであったが数を散らし、駆けつけた親泰らによって獄に繋がれた後は対して毛並みの良くない猫以下であっさりと口を割ったそうだ。
戻って来た親泰はなおも激昂し、何の為に秘密裏に福原と話をしたのだと懐のかわほりを畳に投げつけている。目撃した者らに口止めをしても噂に戸口は立てられぬ、これが毛利元就の耳に入れば恰好の材料にされるのは明白だった。
元親は眉間に皺を寄せたまま近侍を呼び寄せ現状を聞いた。近侍は、世迷言に組することのなかった者らが元親の下知を得て、手練は城近辺へ登城し、並びに兵を持つ者らは富嶽や領内の関所などへ付き、急ぎ厳戒態勢を敷かせていると言った。親泰によく訓練された彼らは息を潜め他の者らに分からぬよう辺りを見守っているのだという。
今、騒ぎの知らぬ者らが評定に合わせゆるゆると登城し始めている。否、知っていてしたり顔で来ている者もいるだろう。今日の評定は嵐どころの騒ぎではないと大きく息を吐き、元親は立ち上がった。
「行くか。親泰、親貞、徹底的にやれ」
「心得て。手筈は整えております」
「そうかい」
碇槍を肩に抱えてゆっくりと歩を進める元親は其れだけで侵しがたい佇まいとなり、既に城入りしていた者らはその場で次々に膝を落として畏まり固唾をのんで見守っている。鬼は我関せず広縁を行きふと足を止めた先に今はもう花の咲かぬ寒椿が見えた。あの花冠を妻に手渡したのは何時であったか、などと物思えば寒椿の遥か頭上に雨雲が見え不審な音を鳴らしていた。
「長えな、梅雨も過ぎたってぇのによ」
ぽつりと呟いて見上げる空は憂鬱を運んでくる。親貞に急ぎませんと、と促され元親は碇槍を抱え直して広間を目指すのだ。
目的の場所に着くと、評定に出ることを許された主だった家臣達は着座し頭を垂れていた。普段は忠澄が仕切るのだが福原の関係で此処には居ない。適当な理由を付けて親貞が仕切り口上を述べるが一部の者らにとってはほくそ笑んでいる事だろう。
「では、各々もっとも懸念に思うておることを話そう。年明けより毛利麾下の水軍が我らの航行の邪魔をしてるという件だ。これに関して毛利家取次役福原広俊殿と頻繁に遣り取りをし、水軍の単独行動であることが分かった。毛利家からは謝罪とその地域からの水軍の撤退を提示されてる。幸い人命に関わることも船の損害もない、この辺で手打ちにするのが妥当だと思うが皆どうか。まずは親泰」
「異論はないな。腹は立つがここで引かねえと有事の際は長曾我部の不手際になる」
「孝頼」
「某もそのように心得ます」
「豊前」
「……某は聊か……甘いと感じまする」
「ほう」
「左様にございます! あれ程領地を蝕んだ毛利に譲歩するなどっ!!」
「麻植控えよ」
「はっ」
七十路に差し掛かった老臣に話しかければ苦渋に染まる色が滲み、それを得てぞとばかりに声を荒げる者がいる。
口を噤んだものの麻植の一声を皮切りに家臣団は俄かにざわつき始めたが、親貞は顔色を変えずなおも家臣団一人ひとりに声を掛け直接意見を聞いた。慎重論を唱える者より過激論を唱える者の方が多く、穏便にと言う者には激しい野次が飛んだ。野次を飛ばすのは家老衆近辺の者らで、元親に近しい野郎共は元親の気色を読み様子を見守る者、家老衆を睨みつける者など様々だ。
「皆々落ち着け。事は長曾我部毛利だけのものではない。瀬戸内で上がる火の手が地方に飛び火したらどうする。それは、和議を持たれた徳川様のお顔をも潰すこと」
「我らが引き下がるを見越して毛利はあのようなことを仕出かすのです!」
評定は紛糾し最初に発言した吉田孝頼が知恵者らしく諌めるが反対者である麻植は更に苛烈を極め、床を殴りながら叫んだ。
「アニキの御前だぞ」
と窘める親貞は些か表情が乏しい。こういう時は大抵苛ついているか腹に一つ抱えている時であり親泰はため息とともに気鬱になる。一呼吸おいて、まあ皆落ち着かれて、と少し高めの声が響いた。
「若輩が偉そうに口を叩くな内蔵助」
「申し訳ありません」
「まあいいさ、目くじら立てんな。――そう言うからにゃお前にも言いてえことあんだろ?」
「はっ」
内蔵助は畏まり背筋を伸ばして一同を見回した。その視線が雨が伴う湿気と相まって纏わりつくようで元親は不快だった。それは親泰も同じようで居心地の悪そうに足を組み直すのが見える。そうとは知らぬ内蔵助は次いで特徴のある高めの声で弁舌を揮うのだ。
「されば言上仕ります。永に渡る毛利との諍い、四国への騙し討ち、特にこの騙し討ちには多大なる疲弊と人命を失いました。たとえ毛利から質に姫様を貰い受けたとて到底贖いようがございません」
「質などと、今はご正室であられるぞ!」
「お方様とお呼びしようともどんな言葉で飾ろうとも、姫様は毛利からの人質でござる!」
「愚かしい、其方のような考えが後を絶たぬから家中は収まらぬのだぞ」
老臣の抗弁も内蔵助には只の念仏に等しいようだ。彼の所作佇まいは何時も物静かで、才気に富んだ男だが野郎共とは違う気の強さと性分に扱いが難しい。今とて自若を装うとも眼光の奥に在る血気と危うさは隠しようもなく、元親は不意に彼の兄が彼を重用しないよう言い含めて散っていったのが思い起こされた。
「某とて何も考えなしに申しておるのではございません。姫様がお輿入れなされて毛利の動きに軟化はありましたか? むしろ悪うなってはおりませんか?」
「……」
「我らの守る船を妨害し、果ては暁丸を手に入れ軍備に力を入れておるとのこと。仕掛けようとしておるのは毛利でございます! 兵を挙げたとて我らに何の不義がありましょう」
「左様!!」
「その暁丸の件とて姫様が内応しておると聞きます。上関に暁丸があるのは姫様がからくり図面を毛利に流したが故と専らの噂」
「其方、憶測でものを申すでない!」
「火の無きところに煙は立ち申さぬっ! 事実これまで毛利は何度となく我らのからくり技術を奪おうと多くの者を安芸に捕えたではありませぬか。それでも暁丸完成には至っておりませなんだ。しかしながら姫様がお輿入れされた途端暁丸を手中に収めたとはこれはいかに!」
内蔵助の強い口調は琴線を揺さぶり、騒く波紋は瞬く間に広がってゆく。意を得たとばかりに内蔵助は親貞、親泰、そして元親を見て一層声を張り上げた。
「我らは忍び難きを忍び、徳川様の意のまま姫様を迎え毛利と和睦しました。それなのにこのような仕儀、これ以上関東に何の遠慮がいりましょうか!」
「その通りよ! 我らの誇り此処に埋めてなるものか!」
「元親様っ!」
「元親様、ご決断を!」
その科白を皮切りに皆の視線は一気に元親へ注がれる。騒めきはしとしとと降る雨と添水が聞こえる程静まり返り、期待と恐れを含むそれに、暫し目を閉じていた元親はゆっくりと瞼を持ち上げた。床に突き立て右手に握る碇槍を掴み直せばジャラリと鳴って誰彼なく生唾を飲み込む。
「アニキ」
「さて、どうするかねぇ」
元親の眼光は鋭く光るのだ。