(二十六)

 それは不意打ちだった。

「お方様、おめでとうござりまする。ご懐妊にございます」
 そう告げた曲直瀬とかいう薬師も傍に控える侍女も皆満面の笑みを湛えて次々と祝辞を述べてくる。その笑顔に偽りはなくかえに至っては泣き出しそうだ。咲き遅れていた茴香に雨露が滴り落ちる庭を遠くに感じながらは衾を握り締めて戦慄いている。
 油断していた。元親は二日後に体調が治らねば京の薬師を呼ぶと言っていたから。その間に少しでも化粧をし薬師をあしらう策を講じようと考えていた。だが蓋を開ければその翌日にはこの薬師は奥御殿に顔を出してきたのだ。何でも急に京に帰らねばならぬ用が出来たから日を開けず来たというのだ。そんな訳があるものか、あの鬼は始めからそのつもりだったのだろう。呆然としてる間に侍女たちが手際を整えてしまい、体力の落ちた身体では抵抗もままならず、今、とうとう処刑宣告にも似た事実を叩きつけられている。
「お手柄にござりまする。殿初めての御子を身籠られたとなれば、誰が何と言おうとお方様のお立場を不動のものに致しますれば」
「きっと慮外者も己を恥じて奥御殿に近づかなくなりまする」
「何より殿がどれ程お喜びになられますことか」
 ああ、この者たちはなんと楽観的なのか。今まで悪意を向けてきた者らがそうあっさりと手の平を返すものか。身籠ったら突き落としてでも、と放たれたあの文言は呪詛のようにこの脳裏に絡みついて取れぬというのに。何も知らぬということは幸せなのだ。
「ならば、表に早速使いをやりまして」
「ならぬ」
「……え?」
「言うてはならぬ!」
「お方様?」
 衾を見つめ続けるには侍女や薬師の怪訝な表情は目に入らない。身籠ってはならぬと分かっておきながらあの男を拒めず、ぬるま湯に浸かってこのざまだ。腹に宿った命とてなんとはた迷惑な女の腹に来てしまったと思うに違いない。
「このこと、暫し隠せ」
「何を仰せられます!」
「今出来て何になると申す!」
「お方様っ」
 珍しく肩を震わせて拒絶するに、かえ、みわ、るいは喜びも吹き飛んだかのように固唾を呑んで見守っている。張りつめる空気の中、ただ侍女頭だけが息を整え伺いを立ててきた。
「では、何時ならば宜しゅうございますか?」
「……」
 出来れば永遠に元親の耳に入れたくない。
「……今、長曾我部と毛利は揉めておる。子大事に毛利に妥協したと言われるはあれも困るであろう」
「……心得ました。いずれにせよもう少し月が満ちませぬとお腹も安定致しませぬ。家中が色めき立ってお方様の御心が休まらぬようならなおのこと。つわりが落ち着いた頃にお知らせすることに致しましょう。――薬師殿」
「ようよう、心得ておりまする。暑当たりに加え軽い瘧も併発しているようだとお伝え申し上げましょう」
「ならばよいでしょう、くれぐれも他言無用に」
「はっ。お方様、根を詰められませぬよう。ゆったりとお過ごしになるのが一番にござります」
 薬師はそう言うと深く一礼をして外に控えた弟子であろう男と共に薬箱を抱えて去ってゆく。床板を踏みしめる音が妙に耳に響き、心の臓の奥がぎゅっと掴まれるようで、今は雨音に紛れたイソヒヨドリの啼き声さえ耳障りだ。
「其方らもそのように」
「でもっお方様、殿にだけはっ……」
「ならぬ! ……言うてくれるな」
「はい……」
「暫し一人に」
 堪りかねたかえが無礼を承知で諫言するも真っ青な顔をした女主人に其処まで拒絶されれば、侍女たちは何も言えず皆深く頭を下げて足早に去っていくしかない。かえ、みわ、るいの三人がそれぞれ下がり、最後に残った侍女頭だけがやはり口を開いた。
「お方様、お気づきでいらっしゃいましたね?」
「……」
「……暑い季節にございますが水垢離はお止めください。お腹に良くありません。暑いならばおみ足を付ける程度でも涼めますのでその際はお申し付けくださいまし」
「……そうしよう」
 侍女頭は多分察しているのだろう。正室が何をしようとしていたかを。彼女はそれ以上何も言わず平伏して去って行った。
 事はもう露見した。表に隠せるのもせいぜい一月程度だ。要らぬと言われる恐怖もあれば、破顔して大喜びする姿も浮かぶ。ただその場合、次に浮かぶのは家中の反感とそれを利用して介入する兄の姿だ。長曾我部は割れ、子は間違いなく危険に晒される。腹の中で何も知らずに死ぬのと、生まれ出でて弑されるのとどちらがいいというのだろう。どんなに思い描いでもこの腹の子が成人する姿が見えない。未来が見えない。
 梅雨が終わったのに、何故まだ雷鳴が鳴り雨が降るのか。ああいやだ、こんな日は。あの日を思い出してしまうから。
 はひたすらに我が身を抱いて慄くしかなかった。

 ふらりふらりと御殿の広縁を行く。雨には嫌な思い出しかない。父亡き後、長兄が身罷ったと報告を受けた時も、そして我が身に降りかかったあの忌まわしい出来事が起こった時も雷鳴を伴って雨が降っていた。そういえば夫を手酷く怒らせてしまった日もそうだった。山霧に育った我が身には水とは相容れぬものなのかもしれない。
 奥御殿の端の渡殿の先からかすかに見える主殿は人の出入りが激しく皆忙しなく動いている。武士たちは険しい顔をしているが、厨方は来客があるのか何時もより多い菜を運び入れる商人と屈託なく笑う下女がいて、その奥では城仕えする小さな女童が桃を強請る姿も見えた。不覚にも鷹揚な継母に菓子を強請った子供時代が過ぎり、その横でたまに小さく笑う兄の姿を思い出して、隔てられた今いるこの場所には初めて孤独を感じていた。手は心許無くかわほりを握り、隙間からひらりと零れ落ちたのは何時ぞやの寒椿の花脣だ。
 一人でいることなどままある。奥は奥、表は表、毛利は毛利、長曾我部は長曾我部、求められるのは人質であり自分はその為の駒。良し悪しなど考えたことはない。そういうものだと思っていたし不自由など感じていない、そのはずだったのだ。
「もと、ちかっ……」
 そう口にすれば押し寄せる心苦しさに思わず口を覆う。
 元親に言えぬことが辛い。どこかで元親を信じていない自分を軽蔑する。こんな女の腹に宿った子が哀れでならぬ。もう偽ることは出来ぬ、認めねばならぬ。この心すでに人に戻りつつある。あんな目にあって、今人に戻るなどなんと愚かしい。
 この心ばれてはならぬ。夫はこの女をいつでも切り捨てられるようにならねばならぬのだ。
 嗚呼、こんな想い、知らなければよかった。


 政務を早めに切り上げた元親は息抜きと称して大量の馳走を手に富嶽を訪れた。待ち構えていた野郎共に酒や肴を渡し、頼む、と一言伝えると彼らはしかと頷いて殊更大声で騒ぎ始めた。アニキのおなりだ、今夜は夜通し宴だと。それを見届け元親は自分と共に来た二人の弟を見、これまた互いに頷き合って足早に踵を返すのだった。
 夕暮れを跨ぎ宵に紛れ数少ない供と急ぐのは忠澄の屋敷だ。現在彼の屋敷にはある客が滞在している。そう、毛利方取次役福原広俊だ。対外的には福原の来訪は三日後と伝え人目を忍んで会いに行くのは問題解決の為の事前協議と福原の身の安全に他ならない。そうせねばならぬほど今の表は信が置けなかった。国を憂い毛利を憎むのは皆同じ、なのに今自分は必死に火消しに走っているのだから皮肉な話だ。何時かは分かってるくれるだろうか、などと女々しく、止めどなく想いは過ぎた。
 馬を飛ばし見慣れた屋敷の前に着けば煌々と篝火が灯り、忠澄の意を得た陪臣が素早く進み出て、此方に、と皆を誘う。雨露を払い鴬張りの床を鳴らして先を行けば、いくつかの灯明皿の明かりが目的地を指し示し、その先には忠澄と、頬の肉などは年齢相応に削げ落ちているもののぴんを背を伸ばし老成持重を地でいく風貌の老人が座っていた。元親らはこれからこの老人と事の後始末をすることになるのだ。
「悪ぃ、遅くなった」
「お運び、痛み入りまする」
 老人の鼻筋は何処となく妻に似ていた。城を発つ前、奥に顔を出し今宵は来れないと言うと、かの妻はひどく心許無く頼りなげに見えた。全部終わったら話そう。あの憎まれ口をもう幾日も聞いていないのだから。

2015.09.23

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