(二十五)
何度目かの床上げも終わり奥の仕事も滞りなく終えた日の夕方、は侍女たちが彼是と諸事をこなす為御前を辞した隙を縫うように奥の部屋へ引き籠った。脇息に身体を預けるのも辛く、普段なら絶対にしない部屋の柱に姿勢を崩して凭れかかった。
吐き気は日を増すごとにきつくなり皆にばれぬよう死ぬ思いで嚥下した。それでも食事の量は減る。食欲もなければ食べた分だけ腹が大きくなるようで恐ろしい。体力も続かぬから侍女は心配し薬師に見せようとして来る。その都度、大事ないと断るのもそろそろ限界が来ているところだ。
――早くこのつわりが収まってくれなければ本当に露見してしまう。
そう危機感だけが募るのだがは何の対策も持ち合わせなかった。流してしまうのが一番だと分かるが、薬を飲んで腹の子を痛めつけるのはやはり躊躇われて水垢離に走った。心労は子供を流すといわれるがその気配もない。いっそ、侍女に打ち明けて何処ぞで流す手配でもして貰おうか。否、侍女たちが拒否をすればことはたちまち元親の耳に入ってしまうだろう。
「いかが、すべきか……」
水垢離とてどうなのだ、寒い寒いと腹の中で凍えるのだろうか。自分の肉に包まれた腹の子がそうなるとは思えぬし、この夏の暑さにむしろ水垢離の効果は薄く感じる。だがしかし……もう、堂々巡りだった。
「ちょっ……、あんた!!」
「……っ、貴様か」
不意に飛び込んだ声と姿だった。色白な大きな躯体と銀の髪の鬼、そう自分の夫だ。大股で歩く夫は足音で其れなりに分かる。それに気付かぬほど呆けていたのかと我が身に呆れるばかりだった。
対して元親の方は柱に寄りかかりそれこそ折れそうになっている妻に愕然としている。それはそうだ、この一月と半、自身の多忙とが臥せっていた為、碌に会話もしていない。たまに顔を覗いても横たわる妻を遠目に見てそのまま侍女たちに追い返されることすらあった。侍女たちはの不調を目の当たりにし、表の気色を気に病んで治るまで遠ざけようとしていたのかもしれない。
元親はすぐに駆け寄りを己が膝に乗せてしっかりと抱きとめた。彼は彼でこんなことなら侍女を押しのけてでも毎日顔を見に来ればよかったのだと爆ぜる後悔は止まらない。
「あんた、こりゃどういうことだ。こんなに痩せて」
「それ程ではない。ただ、山育ち故この暑さに慣れぬだけ。ふん、存外心許無い身体なものよ」
「ざけんな! 暑当たりぐれえでこんなになるかよっ! 薬師はっ薬師にゃ診せたか!」
「見せた。暑当たりぞ。薬師が言うのだから間違いない」
「……」
我ながらいけしゃあしゃあと嘘がつけるものだと妻は思う。夫の方は疑心と心配の色をだして溜息と共に首を振った。
「そりゃとんでもねぇヤブだろ。ちょうど京からいい医者が来てる。そいつは漢方も南蛮渡来の薬も思いのままだ。そいつに診てもらえ」
「いいっ……」
「けどよ」
「私はあまり医者が好きではないっ」
「好きも嫌いもあるかよバカ」
「これ以上、誰ぞに診られたくはない」
「我儘だねぇ」
「……っ」
そう言って顔を覗きこむ元親にはとうとうばつが悪くなって袖で口を覆い視線を逸らした。まるで悪戯が見つかった子供のような仕草にも見えて、夫の方は更に毒気が抜かれた心持ちになる。少し冷静になれば分かる、この妻は謀には向かないのだ。
「二日だ」
「……?」
「二日経ってもそんな風ならその医者に診せる。いいな?」
「……分かった」
「よし。横になるか?」
「いや、いい……暫し、胸を貸せ」
「わーったよ」
ああ、まただ、とは思う。永く共に居れば居るだけ事が露見する確率は高い。なのに近頃では心地良さに似た何かが掠めるのだ。我が身を支える夫の手が角度を変え力が入るのを覚えつつ身を預けていると身体を伝うように元親の聲が響く。
「なあ」
「なんだ?」
「辛い思いをしてねえか? 居辛えことはねえか?」
その声音に情動が激しく揺さぶられるのを感じる。顔を見ずとも分かる。こういう時の元親は改まるのが照れくさいのか視線を合わさず遠くを見ながら問うてくるのだ。嫁いで七ヶ月強で覚えた彼の癖だ。
「……何もない。侍女たちはよくやってくれている」
「侍女の話じゃねえ、他は?」
「……しいて言うなら」
「うん?」
「この暑当たりが辛い。貴様のせいだ、どうにかしろ」
「ぶっなんでだよ」
「日が昇るのも雨が降るのも天子の行いというではないか。さしずめ四国では貴様であろう」
「ったく」
「この暑さは貴様のむさくるしさだな」
「おうおう言ってくれるなちゃんよ」
そう言いながら元親は笑っていた。暫くすると元親の来訪に支度を整えた侍女たちが茶菓を揃えて平服する。元親は茶菓を受け取り、ああと気づいたように頷いてかえを呼び止めた。
「あんたらも暑いだろ、それ置いて近侍衆と別の部屋で涼んでな」
「まあ、それは勿体無いお言葉にございます。ですが……」
「誰か控えてるとコイツが寝ねえんだよ」
「……そのようなことはない」
「へえへえ。心配なら二つ隣の部屋にでもいてくれ」
「心得ました」
の抗議も物ともせず元親は鷹揚に振る舞い、それが皆の懸念を振り払う。それは元親本人の天性のものと言えた。侍女と近侍たちが去りまた静寂が訪れると赤翡翠の啼き声が聞こえる。水乞鳥といわれるこの鳥は水が欲しい欲しいと啼いているという。
「まるで我が身よ……」
「うん?」
「月に、叢雲、花に風……」
僅かに気が高揚しても現状を垣間見ればそんなものは見事に撃ち落される。我知らず口は滑り漏れ出でる言葉は胸中を抉り出して嘔気を呼び覚ましてくるのだ。悟られてはならぬ、心弱くあってはならぬ、自分は何をしているのだ。どこまで行ってもこの身は駒ではなかったか!
「?」
「眠り、たい」
限界だった。相手が優しい分だけ心苦しさと危機感が襲い来て、動けぬこの身は最早睡気の手を取って夢境へと逃げ出すしか術がないように思えた。元親は軽口を叩くことなく、眠りな、と言いの体重など物ともせず立ち上がる。臥せることが増えた正室の寝所には朝起きる度に換えられた茵と衾が敷かれ、は難なく横たえられた。
「眠るまで居てやるよ」
顔を見ていたらそんな言葉まで投げかけられた。笑む元親の遠い後ろでまた赤翡翠が啼いているのが聞こえ殊更物悲しく心に響くのだ。
分かっている。この身が本当に欲しいのは水などではない。