(二十四)

 それから十日ばかり、元親は唸っていた。否、唸るというのは語弊がある。彼は声にも出さずひたすら悩んでいた。答えが出ぬから船に乗り、碇槍を手に甲板の一角に座り込んで終始眉間に皺をよせているのだ。久しぶりに主が来たというのに、繋がれたままの船と愛する海風を意に介さない主君に、気の良い野郎共もお互い顔を見合わせる有様だ。
 反芻して何度目か頭を掻いた後、元親は大きく息を吐いた。あの日、親貞に意見を求めると弟は、ええ、アニキ、最初の報告を覚えていらっしゃいますか? と自分に似た口許を少しばかり吊り上げて問うてきたのだ。

『最初ってぇと毛利の水軍とのいざこざの話をしてたときだな? アイツらを宥めすかそうとしてたら野郎共の一人が毛利領で暁丸を見たって報告を寄越してきた、それがどうかしたか?』
『本当にあるのでしょうか?』
『あん?』
『見た、と言う話は何度も聞きました。大抵が霧の日や無理に航行した時化の日に見たというものです。それ故、アニキの仰る通り何度も草を飛ばしました。暁丸があったと言われた場所は人の出入りのあった形跡はありましたが後は何もない更地でございました』
『……』
『暁丸は外にだしたままではすぐにからくりが痛みます。それ故移動したとも考えられますが、それなら大きな船や荷車の姿が目撃されてもいいはずです。隠さねばならぬ暁丸なら、その姿を見た者らは大筒なり打ち込まれるが道理。毛利ならやってのけるでしょう。だがそれすらもない』
『つまり、其処に暁丸があるように思い込ませただけ、ということか?』
『おそらくは』
『おいおいアニキたち、だとすると誰がんな引っ掻き回すようなこと企むんだよ! 下手すりゃ戦だぞ!』
『親泰』
 そう答える親貞は恐ろしく冷静に感じられた。一方で親貞は懐疑を爆発させる親泰を宥めるような口調で続けるのだ。
『恐らく、毛利ではないよ』
『……』
『だが瀬戸内で長曾我部と毛利を争わせたいものが居る、ということだね』
『一体、誰が……』
『徳川殿か、はたまた尼子か』
『おい親貞!』
『申し訳ありません。しかしながらアニキ、こういう時はその物事に利を得る者を候補に入れるべきです。たとえ徳川殿に負い目があろうと、また徳川殿が良い御方でも。国は個人では成り立ちません』
『……続けな』
『また、それは外だけではありません。灯台下暗し、などと言うことになっては取り返しのつかぬ恥、我らの周囲も洗い直しが肝要かと』
『野郎共を疑いたくはねぇが……』
『もう一つ、最初に暁丸を見たというのは新三郎でしたね?』
『ああ』
『新三郎は内蔵助の縁者にございます』
『なに?』
『もし思い違いがありましたならその咎は俺が受けます。暫し草を俺に預けて下さい』

 長曾我部古参の家臣の名を口にした弟の目は真摯で、それを拒否するほど元親は頑なではない。元親は草の全ての権限を親貞に与え、忠澄には対毛利を、親泰には内に睨みを利かせるよう差配し評定を終えたのだった。
 其処からは気鬱の日々だ。毛利相手なら家康の手前であろうがの実家であろうがそれ程の躊躇はない。妻としてを大切にしているつもりだが、心の奥底では毛利元就を憎悪している。家臣共が言おうが言わまいが、あの男の顔を碇槍で見るも無残にしてやりたい衝動は増すばかりであるし、たとえが我が身を盾に止めても躊躇なく兵を挙げる確信もある。
 だがそれは自分が本当の鬼になる時だ。故に判断を誤ることは出来ない。
 今回放った草がどんな報告を齎すのか、毛利か、家中か、はたまた徳川や尼子か、一つ判断を間違えれば全てを巻き込んでまた戦になり家を滅ぼすことにもなりかねない。そうなれば四国はどうなるのか、毛利の娘であるあの妻はどうなるのか。
……」
 あにはからんや、存外切なさを帯びた自分の声音に驚きながらも元親はもう一度親貞の言葉を思い出した。親貞は言ったのだ。
 『アニキ、義姉上のご様子、やはり変わらずおかしいとのこと。特に水垢離に執着なさり侍女が止めるのも聞かず何度もなさる由。侍女頭に問いただしたところ、アニキが自制を促された後もおやめにならぬらしく、義姉上付きの者らはいつまたなさるのかと戦々恐々としておるそうです』
 何ともしがたい親貞と親泰の表情が印象に残る。最近、水垢離の影響だろうがは床に臥せることが多くなった。身体を痛めつけてまで何故そんなことをするのか。やはり、毛利の件は絡んでいるのだろうか。何かを知り、追い詰められてあのような所業に出ているのであれば……。あるいは嫁いだ当初と同じように、ふてぶてしく毛利から目を逸らさせる為に奇行に走っているのか。何も語らぬ妻に疑念だけが生じ、一方で人に戻れと言えば激しく感情を揺さぶるは心許無く思えて目が離せないのだ。
「はぁ……、何か言ってくれりゃあなぁ……」
 が何も言わないのは承知している。元親は奥御殿にも時折草をやるように、としか言えなかった。妻を探るようなことをする自分は情けなく益々自己嫌悪に陥り、忙しく頭を掻き毟るのだ。

「あのう……アニキ」
「んあ?」
 振り返れば数人の野郎共が様子を窺うように立っていた。心配そうな表情もいれば聊か頬を紅潮させた者もいる。
「アニキ、お方様と喧嘩でもしたんですかい?」
「うん?」
「お方様の御名、めちゃめちゃ切なそうに呟いてたじゃねえっすか」
「バッカおまえっ! 夫婦のこと首突っ込んじゃダメだろっ!」
「……」
 彼らの耳にも元親の声は悩ましげに聞こえていたらしい。羞恥より気抜けが先に出てしまって、ちげぇよ、と面白くもない返答をしてしまった。そうですかい? と返す野郎共も聊か消化不良気味のようだ。話を広げる気力もなく適当にあしらおうかと立ち上がった瞬間、元親はふと思い立った。
「なあおめえら」
「へい」
「一つ聞くんだがよ、は此処に来たことあるか?」
「お方様ですかい? いいえ? 一度も」
「俺らお方様を見たのなんてお迎えした時と宴の時くらいですよ」
「あんな美人此処に来たら数日大騒ぎですよ!」
「じゃあ付きの侍女なんかが来たことは?」
「ありやせんねぇ。来てくれるんなら俺たちこんなムサい恰好なんてしてねえっす……」
「だよなぁ」
「アニキひでぇっ!」
「なら俺らの衣裳バシッと見繕って下せえよ!」
「へっ! 鶴の字みてぇなこと言うなよ」
 ませたような、かと思えば俗世離れした伊予河野の姫巫女が聞けば、一緒にしないで下さい! と頬を膨らませるだろうと思い描き、元親は肩に抱えた碇槍を掛け直した。すると野郎共の一人が神妙な顔付きになって元親を見る。
「アニキ」
「うん?」
「暁丸の図面が毛利に漏れたとか。申し訳ねえっす。前々からアニキの指示通り、城よりも厳重な警戒をしてたってのに……」
「まだ確定じゃねえから気にすんな」
「へえ」
「しかし何処から漏れたんでしょうね。構造知ってる奴なんて極僅かだし」
「毛利に捕まった奴らでしょうか……」
 話が進む度、眉毛が八の字を描いてゆく彼らに元親は肩に掛け直したばかりの碇槍を舟板に突き立てて猛る。気鬱などこの船には似合わないのだ。
「ああ辛気臭え! 気にすんなっつってんだろ! 船に乗らねえ奴らは口煩えし陰険で参ってんだ。おめえらはいつも通り景気よくいけよ!」
「あ、アニキっ!」
「つか女みてぇに困り顔すんなよきめえ!」
「やっぱひでえっすアニキ!!」
 元親が猛り野郎共が呼応すれば甲板を包んでいる陰陰滅滅など振り払われる。暗雲からちょうど覗いた晴れ間が降り注ぎ、船は俄かに活気付いて男たちの心を慰めるのだ。陸に居ようとやはり自分は海を愛しているのだと思い知らされる。
「っと、そろそろ行くかぁ」
「そうですかい。アニキ、たまにはお方様もお連れ下さいよ!」
「ああ、そうする」
 内懐にかかった霧は一つ消えた。四国を包み、我が妻の心を隠すのは田心姫か天之狭霧神か。そんなものものともすまい。自分はわたつみの子なのだから。

2015.06.28

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