(二十三)
雨を浴びた露草も見慣れ皆の視線が百合へと移り、それに伴うように梅雨も終わりを告げた。代わって訪れた暑さに奥御殿の女たちは辟易としている。それこそ、庶民であるならば薄着も出来るのだが奥勤めとなると簡単に枚数を減らすことも出来ない。早く仕事を終えて井戸水に足を浸けたい、殿の采配で削り氷でも届かないかと思わずにはいられないのだが、そういうことを考えると大抵侍女頭に、お方様はもっと暑い思いをされておられるのですよ、と皆尻を叩かれるのだ。
の姿も腰巻に変わったが本人もまた重くて暑くてかなわないでいる。七夜月の暑さにやられたのか腰に纏わりつく打掛が気持ち悪いのか分からぬが、此処二、三日とにかく気怠く身体に力が入らないのだ。
季節柄七夕用の花を選んだり、どこぞへ贈ったりと確かに忙しくはあったが、ようも弱くなったものだと自身呆れ気味である。心労は身体を弱めるというがこうまでとはと乾いた笑いが出るというものだ。
「駒が悩むとは本当に滑稽」
「お方様?」
「なに、本当に海風が纏わりつくようで気持ちが悪いと独り言よ。あの男、海の何が好きなのやら」
「果ての見えぬ海原は男心を擽るのかもしれません。お方様は海に馴染みはおありにならぬのですか?」
「厳島の海なら知っておる、その程度よ。引いたり満ちたり海は分からぬ」
「ほんにご気分が優れませぬようでございますね。腰巻を脱いで紗の薄い打掛にお取り替えしましょう」
脇息に凭れ気怠いままに女主人が答えると侍女頭は彼是と機敏に差配し出す。気分悪しきに配慮し麦湯ではなく冷たい水を持ってくるように指示し、自身は顔や首筋を拭く為の角盥を持ってくるようだ。
衣擦れが遠のき一人になれば、ザァ、と木々と風が触れ合う音が耳を支配する。何時もであれば鳥のさえずりも心行くまで聞くのだが今日はどうもその気になれない。気を落ち着けても、腰回りがチクチクと痛み姿勢も定まらず加えてこの蒸し暑さに何かを口にするのも厭わしい。まだまだこれから暑くなるというのにこの様はなんであろうか。
「暑当たりにはまだ早かろうぞ……」
これから月の障りが重なればどうなるのか、また床に臥したらあの男が煩いというのに。ああ今日は水を浴びても文句は言われまい。其処まで考えて、もう一度姿勢を変えるだったかそこで、はたと動きが止まる。そういえば――
――月の障りがきたのは何時であったか?
ごくりと喉が鳴った。最後に月の障りが来たのは衣替えが済んで暫くしてからだ。一月はとうに経っている。
「、はっ……」
この気怠さは、下腹部の痛みは、よもやそうなのではあるまいか。そう思えば胸をせり上がる圧迫感に思わず口を覆った。油断していた。月の障りが来ぬのは水垢離の成果であると。であるならばこの変調はなんだというのか。しくじってしまったのだと心の臓は早鐘を打ち、額と掌にはジワリと汗を感じる。
どうすればいい、どう隠せばいい、隠していずれどうする? 隠れて産むなど出来るはずもない。そもそもあの男は欲しいというだろうか? 腹に宿ったと知った途端顔色が変わるかもしれない。冷たい顔をして要らぬと言うかもしれない。……ならばいっそ、そんなものを見る前にあの鬼灯の根を煎じて飲んでしまえば……!
「……飲んだ瞬間、この腹のものは」
もがき苦しむのであろうか?
其処まで考えての身体の力は四散した。我ながらなんとむごいことを考えるのか。謀将の妹はやはり人の心などないのだろうか。
何も定まらぬままゆらりと立ち上がった。腰に巻いた打掛を払い、襖や障子を伝いながら広縁を彷徨う。早くいつもの井戸へ行かねば。
一歩一歩踏みしめる度に視界が歪む。踏みしめているはずなのに足許は靄の上を歩くよう。
「お方様っどちらへっ」
「……水垢離ぞ、……暑いゆえ……」
水を持って来てみれば姿のない正室を慌てて探しに来た侍女が追い縋る。ああ、みわか、と思いながらもは振り向かなかった。
「止めるでないぞ」
「お方様っ……」
そんなことをしてもこの腹の子の成長が止まる訳でも流れるという確証はない。事実、月の障りは訪れたし、今は懐妊の可能性がある。それが効く女も居れば効かぬ女もいるということだ。はぼんやりと思う。自分は効かぬ女であるのだろうと。
だがやらない訳にはいかなかった。本当にこの腹に在るのであれば一刻も早くどうにかしなければいけない。薬には手が出なかった。ならば、この昔からの口伝に掛けるしかないのだ。
腹の中のものにだけ苦痛を与えはすまい。苦しむならこの身も痛めつけて然るべきだ。熱を出しても構わぬ、身体が痛もうと構わぬ、この腹の子を死に近づけるなら我が身も、それに寄り添ってもいいと思うのだ。
小袖も脱がぬまま桶を握り頭から水を浴びる正室にみわは悲鳴を上げ、皆に取り押さえられるまではそれを止めなかった。
主殿は少々騒がしい。元親の許へは忠澄経由でひっきりなしに書状が届き、親貞は親貞で今日は来客があり、元親たちに顔を出したのは政務の終わり頃だった。疲労からなのか彼の表情は厳しく、これは今日は逆らわない方が良い、と兄と弟は密かに目配せをした程だ。
「相変わらず福原の爺さんは分からねえの一点張りだな。あっちでも色々調べてるみてえだが」
「毛利はなんと?」
「馬鹿か、の一言らしい」
「それはまた、予想通りといえば予想通りですね」
「しっかし、福原の爺さんの書状をみても毛利は義姉上のこと一言も書いてねえのな。変わりないかの言葉ぐらい社交辞令でも書くってもんなのに」
兄たちの会話を聞きながら親泰は忠澄宛ての福原の書状をひらひらとさせた。乱世の常、兄弟同士の骨肉の争いは珍しくはなかったが、この三人には無縁のものだった。良好な関係で助け合う兄弟故に敵方に嫁いだ妹への配慮もない元就の対応は奇異にしか映らなかった。もっとも毛利元就は異母弟と家督争いをし屠った過去がある。あの冷たい男からすれば当然の為し方なのかもしれない。親泰の目には立派な婚礼調度品と共に嫁してきた日の義姉の横顔が思い浮かんだ。
「心配してるのは福原殿くらいだね。その福原殿だけど何時頃こちらに?」
「五日後には安芸を発たれるようでございます」
「忠澄、福原の爺さんの接待は頼むぜ? 毛利の宿老が来るんだ、良からぬことを考える奴が出るかもしれねえ。それもしっかり考慮しとけ」
「重々心得て」
「特に古参の家老衆にゃ気を付けろ。何か言われても俺の名を出しゃあいい。それでも気になるなら親貞か親泰の屋敷を宿にしな」
「うん、それが宜しいかと。どちらも迎えの準備はしておきましょう」
「了解」
親泰が手にしていた書状を畳み忠澄の手へ戻すと、元親らは各々茶と菓子に手を付ける。今日は京で菓子の作り方を取得した職人が献上したカステラだった。畿内に行かずとも食せるようになったのだから四国も捨てたものではない。
各々食していたがすぐ下の弟の表情が芳しくないのを見て、元親は近侍を呼び止めた。
「余りがあんだろ? お前ら好きに食いな。持って帰って皆に振る舞ってやってもいいぜ」
「ははっ」
思いがけない主君の温情にまだ若い近侍たちが途端頬を紅潮させて下がるのを見て、元親は再度親貞の方を向いた。
「どうした?」
「は、……アニキ、実は気に掛かることが」
「なんだ?」
「件のからくり、これは誠でござりましょうや」
親貞の言葉に兄は眉を顰め、弟は忠澄を顔を見合わせる。元親は親貞に近寄り掻い膝の姿勢で問うた。
「そう言うからには何か不審なことがあるってことだな?」
「ええ、アニキ――」
居住まいをただし頷いた弟は兄に似た口許を僅かに上にあげ答えるのがそれは元親に新たな問題を齎すものだった。